語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『人びとのかたち』 ~塩野七生の映画談義~

2010年02月19日 | エッセイ
 とりあげられた映画は、『真昼の決闘』から『エーゲ海の天使』まで。作品のストーリーを追うのは、物語作家の読者に対するサービス精神があるからだけではなくて、ストーリーを語ることそれ自体を楽しんでいるからだろう。ストーリーを語ることで、映画に没頭した時間を再び生きるのである。
 当然、話はスターや監督におよぶ。
 スターを語って、気品と野性的なまなざしをもつエヴァ・ガードナー賛歌があり、ありふれた美男から独特の存在感をもつ男へ変貌したゲーリー・クーパー礼賛がある。監督を語って、官能に執着したルキノ・ヴィスコンティ、あるいは想像力の魔術師フェデリコ・フェリーニからイタリア的なものを拾いだす。

 このあたりは、多くの映画好きもやっていることだ。
 しかし、書き手は塩野七生である。当然、話題は映画にとどまらず、人生と歴史のありとあらゆる側面に展開される。ヴィスコンティ『山猫』に見るマフィア跳梁の原因から、教育、戦争まで、日ごろの蘊蓄をかたむける。読者は、映画一編からかくも多様かつ深い読みができることに感嘆し、懸河の弁にひたすら身をゆだねるしかない。
 たとえば、リーダーシップ論(『プラトーン』のバーンズは冷酷すぎて部下がついていかないし、人間的なエリアスは隙があって安心して身を預けられない)。あるいは、古代ローマ人の哲学者論(ストア主義者は共同体や国家に身を捧げる道を選んだ人であり、エピキュロス派は個人生活の充実に重きをおいた人である)。
 ことに興味深いのは、女の人間学だ。『恋人たちの予感』にふれて、一度もベッドをともにしていない男はどこまで無理を言ってよいかわからないから不安な存在だ、と微妙な感覚にふれ、『シラノ・ド・ベルジュラック』を取りあげては、豊かな言葉は頭脳とハートを示すものであり恋の要件だ、と総括する。

 要するに、本書は映画をダシに展開される塩野七生の人間論である。
 暗々裡に自らを語ったと思われるくだりを引いておこう。
 「優れた創作者はけっして、簡単に一刀両断できるような人間を描かない。なぜなら人間は、互いに矛盾する両面を合わせもつのが普通で、そういうアンビバレンスを描ききってはじめて、人間が書けている、ということになるからである」

□塩野七生『人びとのかたち』(新潮文庫、1997)
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