語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【本】1940年体制 ~『イラク戦争 日本の運命 小泉の運命』~

2016年01月07日 | 批評・思想
 本書は、小泉政権のなかば頃に刊行された時評である。したがって、当時は重要なトピックだった「イラク戦争」も「小泉」も、2016年現在、重要性が相対的に低下している。
 しかし、本書の冒頭でことわってあるように、著者の関心は「日本の運命」にある。そして、一国の運命をみるには、数年のスパンではなく、百年、数百年のスパンでみなくてはならない。鏡をみるとき、奥へ足を踏みいれるには後ろ向きに歩かねばならないように、未来をみはるかすには過去を遡らなければならない。
 過去に照らし、著者は概要つぎのようにいっている。
 小泉(元)首相は「古い自民党」をぶっ壊すといったが、古い自民党とは1940年体制の生き残りの部分に寄生してきた口利き政治家の集団である。戦前から生きのびてきた中央、地方の政治的保守勢力と、1940年体制の戦後まで生き延びてきた部分とが結合して形成された。昭和後半期の日本を支配してきた政治的上部構造である。小泉のいわゆる「新しい自民党」も、下半身は古い自民党そのものだった。だから、古い自民党を壊すと、小泉政権の存在基盤も崩壊してしまうのであった・・・・。
 ところで、1940年体制とはなにか。本書の主として第一章に即して整理してみよう。

   *

 話は満州事変にさかのぼる。
 1931年の柳条湖事件に発する満州事変は、1935年の満州国建国で一段落する。
 関東軍の参謀、石原莞爾は、満鉄経済調査課ロシア主任の宮崎正義を高く買い、先生と呼んで厚遇した。
 宮崎は、1911年にペテルブルグ大学へ留学し、ロシア革命を現地で体験した。ソ連の1928年にはじまる第1次5か年計画の成功をみて、調査課に流れこんだ左翼崩れとともに、満州の経済発展計画を立てた。
 そして、学生時代に北一輝の濃い影響を受けた岸信介たち革新官僚が、上記経済発展計画を実際に推進していった。

 岸たちは、帰国後、満州国における試行をふまえた政策を打ち出していく。「1940年体制」のスタートである。
 1940年体制は、源流の満鉄経済調査課がそうであったように、ソ連型、日本国家改造論者型、ナチス型のさまざまの国家社会主義の流れに、日本独特の国民性(農村共同体的自治社会の伝統)の風味が加わってできたものだ。

 1940年体制の中心組織は、1937年10月に設置された企画院である。これは1943年に軍需省となった。戦後は経済安定本部(40年体制の司令部)、経済審議庁をへて、経済企画庁(高度成長の総司令部)となり、戦後の日本を主導する。
 そして、強権によらぬ統制、計画経済を推進した。すなわち、予算措置による誘導、国家資金による補助や優遇税制の創設、許認可制度を援用した誘導、行政指導、内面指導、窓口指導など、多彩な手段を駆使した、やわらかな統制であった。
 官僚統制になじんだ日本の社会には、きわめて有効な統制法だった。

 日本経済は、その後十数年にわたり大きな成長をとげる。神武景気(1956~57年)、岩戸景気(1958~61年)をへて、高度成長(1955~73年)にいたる。1960年代は毎年10%を超える成長率を示した。
 憲法第9条のおかげで戦争に巻き込まれなかったから、朝鮮戦争(1950~53年)やベトナム戦争(1960~75年)の特需が可能になった。国家予算に占める軍事費の割合が低く、その分、経済の成長に集中することができた。
 経済成長は、1940年体制を確固たるものとし、一億人が総中流化する。

 官僚は自民党と組み、自民党は経団連に象徴される産業界と組み、3極構造が日本をうごかした。
 ちなみに、経団連のルーツは、戦前、官僚統制を全産業界に及ぼすために上から作られた中央統制組織である。経団連と国民政治協会(政治資金団体)は、表裏の関係にある。

   *

 要するに、1940年体制とは、経済成長を軸に、一方では社会の総中流化、均質化・平等化・一体化をすすめ、他方では政・官・財の3極構造を構成したものだ。
 日本の経済成長に待ったをかけたのは、同盟国の米国である。モンテーニュは一方の得は他方の損になるといっているが、対外貿易の赤字相当分がそっくり日本との対外貿易で生じるようになった米国は、それまでの仲間意識を棄ててジャパン・パッシングを開始した。日米構造問題協議(1989~90)で、露骨に日本に干渉した。その結果、バブル経済(1983~90年)は崩壊し、失われた10年がこれに続く。
 橋本首相(1996~98年)や小淵首相(1998~00年)は、さまざまな景気刺激策をとったが、いずれも不発。多額の借金だけが残った(「第2の敗戦」)。
 「小泉改革」が登場したのは、日本が破産状態にあったからだ。当時、すでに、国債及び地方債を合わせると、不良債権は719兆円という莫大な数字にのぼっていた。だが、小泉首相(2001~06年)は、その政策目標であるプライマリー・バランス(借金を増やさない状態)を実現していない。任期中、国債30兆円枠をまもったのは2回にすぎない(2001年度及び06年度)。

 小泉改革は1940年体制の統制を次々にとっぱらっていき、その社会主義的側面をどんどん切り捨て、その結果貧富の格差が拡大した、と著者はいう。
 2009年夏の衆議院議員選挙で自民党が下野した理由の一因がここにあったのは確かだ。格差社会に嫌気がさした人の何割かは、自民党とは別の政党に投票したにちがいない。
 しかし、民主党政権は自滅し、政権をふたたび奪取した安倍・自民党は、過去に学習して、壮大なバラマキ政策の「アメ」で票を集め、ひとたび安定政権を確保したら遠慮なく「ムチ」を振るっている。

□立花隆『イラク戦争 日本の運命 小泉の運命』(講談社、2004)
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