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2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】企画編集解説『いっきに学び直す日本史』 ~奈良仏教~

2018年06月30日 | ●佐藤優
 奈良仏教の基調は、鎮護国家の思想にもとづく国家仏教であった。そのため、鎮護国家を説く金光明最勝王経・仁王経(じんのうきょう)・法華経などが尊重され、その書写・講説・読誦(どくじゅ)が行われた。国家の手によって多くの寺院がつくられ、聖武天皇による国分寺・東大寺の建立や称徳天皇の西大寺の建立がよく知られている。平城京には、南都七大寺といわれる寺院をはじめ、多くの寺院が甍を並べて繁栄していた。

 〈参考〉南都七大寺 東大寺・西大寺に、飛鳥から移された薬師寺・大安寺・元興(がんこう)寺・興福寺、それに法隆寺を加えていう。
 奈良時代の宗派には南都六宗(ろくしゅう)といわれる三論(さんろん)・成実(じょうじつ)・法相(ほっそう)・倶舎(ぐしゃ)・華厳(けごん)・律(りつ)の6派があった。それらは後世の宗派とは異なり、教義研究の学派というべきもので、僧侶たちも兼学するのが普通だった。僧侶としては、民間に布教し、橋をかけ、道をつくったりして衆望のあった行基、渡唐して法相宗を究め、国分寺・東大寺建立を唱導した玄昉、華厳宗を広め、東大寺の建立・経営に尽力した良弁(ろうべん 689-773)、唐から困難を排して入朝して律宗を伝え、はじめて戒壇をつくった鑑真(688?-763)などがあった。

 〈参考〉鑑真 僧尼は受戒を得て一人前になるとされていたが、日本には授戒を与える人がいなかったので、戒師を求めていた。鑑真は入唐した栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)のすすめで日本への渡航を決意し、何度も試みて失敗し、失明しながらも、754(天平勝宝6)年に渡来し、律宗を伝えた。同年、戒壇が設けられ、聖武天皇らが受戒した。755(天平勝宝7)年には東大寺戒壇院を造立、758年に大和上の称号を授けられた。759(天平宝字3)年、唐招提寺を建立してここに移り、763年に死去した。なお、東大寺戒壇院・下野国薬師寺・筑前国観世音寺を三戒壇という。
 〈注意〉奈良時代の寺院は、宗派によってつくられたのではない。現在の大学に多くの学部があるように、奈良時代の寺院では多くの宗派が研究を進め、学問にはげんだ。例えば、東大寺は今は華厳宗総本山だが、もとは八宗兼学だった(八宗とは、南都六宗に天台・真言が加わる)。
 仏教による社会事業も盛んだった光明皇后がつくった悲田院・施薬院をはじめ、行基は、旅人の宿泊設備である布施屋(ふせや)や多くの橋・船着場、灌漑のための池や用水などをつくった。法相宗を伝えた道昭も社会事業につとめた。

□佐藤優・企画編集解説/山岸良二・監修/安達達朗『いっきに学び直す日本史 【教養編】古代・中世・近世』(東洋経済新聞社、2016)から一部引用

 【参考】法相宗
【佐藤優】〈裏のユダヤ教〉カバラ思想の下に埋もれている部分を説明したフロイト ~いま生きる「資本論」(15)~

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