語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】ずさんな検証と隠蔽 ~大川小学校事故検証委員会~

2014年03月22日 | 震災・原発事故
 (1)津波で全校児童108人中70人が死亡、4人が行方不明となった宮城県石巻市大川小学校。津波襲来まで50分あり、裏には避難可能な山、スクールバスもあった。「それなのに」
 遺族は、2月にまとまった検証委員会の最終報告に失望し、3月10日、訴訟に踏み切った。提訴したのは、遺族54家族のうち19家族。石巻市と宮城県に対し、教職員の過失を問う損害賠償請求を行う。
 「子どもを失った上、3年間侮辱され続けた。訴訟に追い込んだのは検証委員会だ」

 (2)検証委員会は、石巻市の依頼を受けた第三者機関として昨年1月に活動を開始。投じられた予算は合計5,700万円。検証委員会は石巻市教育委員会に代わり、遺族の思いに応える義務があった。市教委は、以下のような不誠実な対応を続けてきたからだ。
  (a)遺族説明会を開かない。
  (b)唯一生存教師を「病気休暇中」として出さない。
  (c)初期段階で聴取した子どもの証言を改竄・隠蔽し、メモを廃棄した。

 (3)ところが、検証委員会の検証は実にいい加減だった。
  (a)設置段階で、「中立性を保つ」と称して委員の人選を文科省が行ったが、「市教委や県教委と結びつきの深い人物は入れないでほしい」などの遺族の要望は蹴られた。首藤由紀・株式会社社会安全研究所所長(受注先にして事務局を担う)と首藤伸夫・委員とが実の親子であることも疑問視されたが、文科省は押し切った。
  (b)設置要項に「目的」がなく、「誰のために何を検証するか」が不明確だった。
  (c)検証は「ゼロベース」からで、遺族が集めた重要な証拠はほとんど活かされなかった。遺族が「子どもたちは日常的に登っていた」と震災前年に撮影した写真(裏山で写生中)を提出しても、1999年以降の大川小勤務経験者アンケートなどから「教職員は裏山は危険と認識していた」と結論付けた。
  (d)検証方法も不可解だ。
   ①検証委員会には6人の委員のほか、4人の調査委員がいるが、当日の津波を検証したのは津波工学の権威、首藤委員ではなく、心理学者の大橋智樹・調査委員/宮城学院女子大学教授だった。
   ②中間とりまとめ(7月)の際、同調査委員は「学校への津波到達時刻は15時30~32分ごろ」と通説だった15時37分より早いとの見解を出したが、遺族らの指摘ですぐ引っ込めた。最終報告では「37分ごろ」に戻っている。
   ③そもそも遺族は、当初から「津波の検証は不要」としていた。遺族が知りたいのは、「逃げられる客観的条件があり、教師が一緒にいながら、なぜ子どもを救えなかったのか」だからだ。しかるに、検証委員会は、問題の核心からほど遠い津波や気象など周辺の検証に力を入れ、肝心な生き証人の検証を軽んじた。どんな立場の誰が証言したかをぼやかした。そして、「山への避難を訴えたり、泣き出したり、嘔吐する子どもがいた」と書く一方で、「遊び始めたり、ゲームや漫画など日常的な会話をしていた」などと相反する証言を羅列し、検証を放棄した。
   ④要するに、検証委員会は何も新しいものを提示できず、すでにわかっていた事実を曖昧にしただけだった。
   ⑤そして、「津波予想浸水域に入っていなかったから危機意識が薄かった」「裏山は危険で登れないと思っていた」など、「子どもたちが命を落としたのは仕方なかった」と言わんばかりの最終報告をまとめた。

 (4)教師には、子どもの命と安全を守る義務がある。教師以外が見過ごしてしまうような危険でも、それを予見し、回避することが求められる。
 しかるに、大川小で教師らは、
  (a)ラジオで災害情報を得ながら、川を見に行くなど積極的な情報収集をしなかった。震災2日朝に起きた震度5弱の地震時には、教師間で津波の危険性が話題になったにも拘わらず。生存教師は裏山に避難を促したが、「津波はこない」とする古参教師の声にかき消された。
  (b)教師は子どもたちを助けるどころか、逃げようとした子どもまでその場に止めておいた。
  (c)校長は不在で、教頭は決断できずにいた。
  (d)生存教師は理科が専門で、地震に詳しかったはずだが、くだんの教師の二度の主張が通らなかった背景には、日ごろの教師間の人間関係や力関係、校長の学校運営に問題があったのではないか。ところが、検証ではこの一番重要な部分が手つかずだった。
  (e)最終報告にも「生存教師が校舎2階で比較的安全に避難できそうな場所を特定している間に、三角地帯に向けて移動を始めた」とあり、少なくとも教師間の意思の疎通がうまくいっていなかったことが推定できる。
  (f)なぜ学校から250m先の新北上大橋たもとの堤防上にある三角地帯を避難先に選んだかも謎だ。海抜1~2mの大川小の数m高いだけの場所に過ぎないし(15時32分にラジオが伝えた予想津波高は10m)、しかも津波が来る川は目前だ。
  (g)避難経路も不可解だ。三角地帯を目指すなら、学校を背にまず右に行くのが自然だが、山がある左に出てから県道238号線に向かった。わざわざ遠回りをし、住宅地を進んだのだ。最後の瞬間、左の裏山を目指せば助かったかもしれない。
  (h)何人もの子どもが「山へ逃げよう」と教師に訴えた。しかし、その声は無視された。子どもたちの証言も遺族の思いも無視され続けている。

 (5)大川小事件は、子ども一人ひとりの命の重さより、自分たちの利益を優先させる日本の権力構造そのもの。
 検証を放棄し、その構造の維持に手を貸した検証委員会の罪は重い。

□木附千晶(ジャーナリスト)「遺族を訴訟に追い込んだ大川小学校事故検証委員会」(「週刊金曜日」2014年2月14日号)
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