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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】なぜ宮廷から恋歌が追放されたか

2010年03月04日 | エッセイ
 『古今』にせよ『新古今』にせよ、代々の勅撰和歌集と恋とは切ってもきれない関係だった。和歌の根本は恋である。
 これが変質したのは、明治時代にはいってからだ。

 明治天皇は、なにかにつけて歌を詠んだ。毎月歌会があって、その季節ごとの題がでて、くりかえしでもなんでも年中行事的に歌を詠んだ。
 ところが、明治10年、明治維新の元勲たちは天皇に恋歌を禁じた。ヨーロッパから帰ったのちの岩倉具視は、宮廷での百人一首も禁じた。
 かくて、明治の宮廷の歌は、第一、恋歌を省いている(軍国主義的恋愛排斥)。第二、雑の歌の散文性が極端に拡大している(西洋文明的リアリズムの詩の影響)。第三、物事をすべて道学的に把握するという態度がある。

 宮中は、いまでもこうした態度によって歌を詠む。あれはダメ、これもダメ、で題材が限定されているから、詠むのはモラルか、四季である。それ以外は詠めない。
 ちなみに、落としどころを俗流の倫理にもっていくと歌が成立しやすい。日本の文芸評論と同じである。日本の文芸評論には、妻子をなげうっても文芸に尽くすべしという、市民道徳を裏返した、やはり俗流倫理もある。

【参考】大岡信・岡野弘彦・丸谷才一「新聞短歌に恋歌がないのはなぜ?」(丸谷才一ほか『丸谷才一と22人の千年紀ジャーナリズム大合評』、都市出版、2001、所収)
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書評:『アラビアのロレンスを求めて -アラブ・イスラエル紛争前夜を行く-』

2010年03月04日 | ノンフィクション
 映画ファンならば、1963年のアカデミー賞7部門を総なめにした傑作「アラビアのロレンス」を知らない人はいないだろう。中東史に関心をもつ人なら、トルコからのアラブ独立運動に寄与したT・E・ロレンスの事績を耳にしたことがあるにちがいない。英文学の徒なら、奇書『知恵の七柱』を一読した人もいるはずだ。
 「ベドウィン主体のアラブ独立軍を指揮する金髪碧眼の青年考古学者」というのが、ロレンスにまつわるイメージである。

 しかし、これはマスコミがつくりだした伝説だ、と著者はジャブをはなつ。
 英国におけるロレンス伝説は、1919年8月14日、コヴェント・ガーデンで誕生した。産みの親は、米国の従軍記者ローウェル・トマスである。講演会の模様を本書で読むと、血わき肉おどる名調子である。国民的英雄が出現した、とロンドンっ子は沸き立った。この大成功を跳躍台として、トマスは、4年間にわたって英帝国内を巡業した。

 しかし、講演の大半は見てきたようなウソだ、と著者はパンチをくらわせる。
 ロレンスの名を天下に高めたのは、アカバ攻略である。海からの攻撃には難攻不落の要塞だった。ロレンスは、敵が予想していない陸からの攻撃を企画し、指揮して陥落させた、とされている。
 ほんとうのところは、と著者は糺してほぼ次のように言う。「この真の功績はベドウィンの部族長アウダ・アブー=ターイに帰せられるべきだ。ロレンスは、単に戦さに参加しただけであり、戦勝報告と支援要請(アラブ軍は食糧も軍資金も尽きかけていた)のためにシナイ半島を強行突破したことだけが、ロレンスの功績にすぎない。ところが、勝報を聞いた当局は、たった一人加わった英軍人の功績を過大評価して、勲章を授与した。国益に沿ってつくられたロレンス伝説は、カイロではじまったのである」

 とどめのパンチは、強烈である。
 大戦中、英国は相矛盾する外交を行った。サイクス・ピコ協定とバルフォア宣言である。アラブ人とユダヤ人のそれぞれに、別個に、戦後パレスチナを委ねるという約束を結んだのである。
 これは中東紛争の火種としてよく知られた事実だが、著者は白刃をふりかざして断罪する。戦後パレスチナが英国の委任統治下に入った後、最終的に英国が味方に選んだのはシオニストだった、と。そして、ロレンスは幾つかの平和会議で英国の利益になるようふるまった。ロレンスはアラブの友どころか、「シオニズムに理解を示し、アラブ人の土地をとりあげてユダヤ人に与える政策に加担した」のだ。すなわち、時の植民地相ウィンストン・チャーチルとともにアラブ・イスラエル対立の種をまいた張本人である、と。

 かくて、「アラブの友」というロレンス伝説は木端微塵に粉砕された・・・・ことをもって本書の結論としてもよいのだが、事はもう少し複雑であり、その複雑さにも本書はふれる。
 著者は、アラビアにおけるロレンスと「アラビア後のロレンス」とを区別する。
 前者は、第1章「ロレンスの青春」に集中的に描かれ、人間味あふれるロレンスが活写される。座を盛り上げる会話の名手、茶目っ気があって親切で、「人間的情愛」に富んだ魅力ある青年像である。学生時代に徒歩で旅したパレスチナから母へあてた手紙は、「観察には偏見がない」「好感がもてる」。独立運動においても、ロレンスはアラブ人と寝食をともにし、粗食に耐え、厳しい生活をものともしなかった。じかにロレンスに接したアラブ人たちが寄せた尊敬の念、厚い友情は、本書でも幾つか紹介されている。
 しかるに、「アラビア後のロレンス」は、第3章「イギリスのロレンス」以降で論じられているが、ごく薄っぺらな人間像しか伝えない。そういう詰まらない人物が「アラビア後のロレンス」だった、ということなのだろう。だが、有能な冒険家、情味ある人間が「アラビア後」には一挙に平板な人間に堕したのなら、その理由はなにか。仮に著者の指摘するようにロレンスがその行動の結果として英国の利益、ユダヤ人の利益に加担したとしても、ロレンスの願望は別にあった、というのがひとつの解釈である。つまり、組織の一員として、大英帝国の臣民として、本心とは異なる行動をとらざるをえなかった・・・・ロレンス晩年の沈黙は、世間が見るところの自分に内心では納得していなかったことを推定させる。

 著者は、中東現代史家。
 「アラビアのロレンス」である以上、欧米の見方だけではなく、当事者のアラブの目に映るロレンス像が示されないと片手おちだ。この点を糺すべく、本書は、アラブの史家スレイマン・ムーサのロレンス伝に多くを依拠しつつ、アラブ側の視点からロレンス伝説を批判的に洗いなおしている。

□牟田口義郎『アラビアのロレンスを求めて アラブ・イスラエル紛争前夜を行く』(中公新書、1999)
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