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自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

戦争(社会)起業家、石原莞爾が説く国家の基盤=技術経営力

2008年08月10日 | 技術経営MOT


組織論の領域では、「失敗の本質」、「戦略の本質」(ともに日本経済新聞社)が卓越した考察を展開している。後者については、共著者の一人早稲田大学ビジネススクールの寺本先生から、以前サイン本をいただいたのはうれしい思い出だ。技術経営、リスクマネジメントの観点からも、戦史、諜報諜略は学問的に研究されるべきだ。

大東亜戦争の敗戦後長らく、石原莞爾については、ネガティブなイメージばかりが喧伝されてきたが、福田和也「地ひらく」あたりからぐっと事実と根拠をベースにした再評価が進んでいるのは、いい傾向だと思う。

石原は1928年に関東軍作戦主任参謀として満州で活躍した。自身の弁証法的戦争文明史観である「最終戦争論」を基にして関東軍によるきわめて精緻な満蒙領有計画を立案した。小室直樹などによって分析されている旧日本軍の腐敗官僚制、視野狭窄的精神主義、呪術思考の瀰漫体質のなかにあって、石原は目的合理性に基づいた科学的思考ができる数少ない軍人だった。

戦争起業家である石原は、1931年に板垣征四郎らと連携し満州事変を企画、遂行した。23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現したのである。もちろん、彼は中国では悪の権化のような扱いを受けているので、柳条湖事件の記念館に首謀者として板垣と石原のレリーフが掲示されているくらいだ。

北京オリンピックで沸き立つシナではあるが、中国共産党、そして中華人民共和国の建国の潜在的理念のひとつは自覚的かつ強固な「反日」である。よってこのレリーフ展示は彼らの歴史観の正直な帰結でもあろう。この一件の歴史的評価はここではしないが、僕は石原をいたずらに賛美するものではない。

満州事変を契機とした満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へと思想を転換させていった。石原が構想していたのは、偽装植民地などではなく、日本中国を父母とした独立国であった。そして日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと説いたのである。

さて自由闊達にしてインテリ、しかも稀有な軍略家として石原莞爾の再評価が進んではいるが、決定戦争の帰趨を決する国家の力=技術経営力という観点からも石原は正鵠を得た議論をしている。下記はその一端のみ。


<最終戦争論より以下抜粋>

発明は単に日本国内、東亜の範囲に限る事なくなるべく全世界に天才を求めねばならぬ。

 しかし科学の発達著しい今日、単に発明の奨励だけでは不充分である。国家は全力を尽して世界無比の大規模研究機関を設立し、綜合力を発揮すべきである。発明家の天才と成金の援助で物になったものは適時これをこの研究機関に移して(発明家をそのまま使用するか否かは全くその事情に依る)、多数学者の綜合的力により速やかにこれを大成する。

 研究機関、大学、大工場の関連は特に力を用いねばならない。今日の如くこれらがばらばらに勝手に造られているのは科学の後進国日本では特に戒心すべきである。

 全国民の念力と天才の尊重(今日は天才的人物は官僚の権威に押され、つむじを曲げ、天才は葬られつつある)、研究機関の組織化により速やかに世界第一の新兵器、新機械等々を生み出さねばならない。

 次は防空対策である。何れにせよ最終戦争は空中戦を中心として一挙に敵国の中心を襲うのであるから、すばらしい破壊兵器を整備するとともに防空については充分なる対策が必要である。

 恐るべき破壊力に対し完全な防空は恐らく不可能であろう。各国は逐次主要部分を地下深く隠匿する等の方法を講ずるのであろうが、恐らく攻撃威力の増加に追いつかぬであろう。また消極的防衛手段が度を過ぎれば、積極的生産力、国力の増進を阻害する。防空対策についても真に達人の達観が切要である。

 私は最終戦争は今後概ね三十年内外に起るであろうと主張して来た。この事はもちろん一つの空想に過ぎない。しかし戦争変化の速度より推論して全く拠り処無いとは言えぬ。そこで私は「世界最終戦論」に於て、二十年を目標として防空の根本対策を強行すべしと唱道した。

 必要最少限の部門はあらゆる努力を払って完全防空をする。どれだけをその範囲とするかが重大問題である。見透しが必要である。

<最終戦争論より以上抜粋>


石原莞爾「最終戦争論・戦争史大観」のフルテキストより。大東亜戦争敗戦記念日が近いが、このテキストはひろく読まれるべきだろう。

ちなみに石原は極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れている。マッカーサーやトルーマンが指揮した一般の日本国市民に対する絨毯爆撃、原子爆弾投下による無差別殺戮を「人道上の罪」と断罪する石原をもてやましたと伝えられている。あの裁判の欺瞞を「茶番」としてあざ嗤ったのは大川周明だけではない。石原も堂々と正論を吐いたのである。

石原は、その後、立命館大学で教授として講義したり、執筆、講演、社会起業活動に多くの時間を使った。実践の対象は、農業、森林保全、教育、宗教に及んだ。石原莞爾は社会起業家でもある。


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