よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

イスラーム学の系譜

2010年07月09日 | No Book, No Life
しばらく前に、駿河台にて中央大学の櫻井秀子教授にお会いして、親しくご著書『イスラーム金融』を机上に置き、イスラーム社会と日本社会の比較論などに話の花が咲いた。

「日本的経営」は比較する相手がなければ、話は始まらない。そしてその比較する相手は1極をなす欧・米の経営モデルのみではダメで、第2極として、イスラームを置いてみたかったのだ。このあたりの雑感は、「イスラーム的経営」の地平線

ご教授をお願いしたいくつかの質問については女史の先生にあたる、黒田寿郎先生を紹介いただき、さっそく『イスラームの構造』を紐解く。はからずも、大川周明~井筒俊彦~黒田寿郎~櫻井秀子と継承されているイスラーム学の系譜の本流に邂逅しえたのは僥倖の一言である。

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西洋の対語として「東洋」があるとしたら、そこにはにはどのような哲学的、思弁的共通性があるのか。明瞭な形では存在しえなくても、東洋哲学の諸伝統の蓄積の上に新しい哲学を生み出さなければならない。

こんな壮大な問題意識から著者は膨大な知識を駆使し、著者独自の「共時的構造化」の方法によってイスラーム、ギシリア、儒教、仏教の系譜を縦横に跋渉して知の体系化を目指す。スコラ哲学、プラトン主義、新プラトン主義、ユング、フッサールの現象学など西洋の系譜もしっかりと押さえながら、記述は明瞭かつ分かりやすい。

そこかしこに溢れ出る術語概念に対する深い理解と分かりやすい説明は、なるほど、30カ国語に熟達した語学の広範な知識に裏づけられている。圧巻なのは、密教(esoteric religion)に関する奥深い理解が、本書全体を通底していることだ。凡庸な学者は、顕・密の顕を極端に重視することはあれども、密に対する見解があまりにも表層的なことがままある。

顕・密にわたる認識についての明快な枠組み設定がp214の意識の構造モデルで示されたくらいから、東洋思想に共時的に存在する哲学は、まさに「密」に集約されていることに読者は次第に気づいてゆく。




知識人は、日本社会を欧米のそれらと対比してのみ分析しようとするある種の病に冒されている。明治維新以降、欧米の文化、文明、科学技術はおろか、自由文芸までも積極的に移植してきた背景があり、大東亜戦争の敗戦をもって覇権国家アメリカの影響下に組み込まれてきた日本にあって、それは必然ともいえる桎梏なのかもしれない。

本書は、そのような退嬰的な思潮のなかにかって、歴然と社会比較の対象をイスラームに求める。タウヒード(世界観と存在論=価値観の根本)、シャリーア(法律・経済=社旗運営)、ウンマ(共同体=ともに生きるかたち)の3極構造からはじまり、それらを3層構造に読み直しつつ精緻な論が展開される。

泰斗井筒俊彦の弟子である著者の論は、井筒が「東洋哲学の根幹に通底する諸神秘思想の共時的構造化」をこころみた大著、『意識と本質―精神的東洋を索めて』の存在論を随所に引きつつ、イスラームの本質を冷静にかつ思弁的に著述してゆく。

その静謐な思弁はp352以降つづられる終章にあっては、強烈な問題意識に根差した議論に集約される。そこでは、黒田は、「旧ソ連崩壊後、覇権国は、共産主義という主要な敵の衰退、消滅に伴って、文明の衝突の相手として戦略的にこの地域(中東イスラーム地域)を選んだ感が強い」(p354)とみたてる覇権国を『同一律の帝国』とさえ呼ぶのを憚らない。

9.11以降、『同一律の帝国』(アメリカ)側からイメージが形成されたイスラーム=テロリストといった操作的イメージに無批判的に流される日本人一般に対して著者が抱いているであろう焦燥感が終章の行間にはあふれている。

非婚率の上昇、家庭崩壊、近所づきあいの希薄化、企業共同体の崩壊など、日本社会の小共同体の劣化現象は着々と進んでいる。『同一律の帝国』が推進してきたグローバリズムを無批判的に同調・導入してきた今日の日本の姿を、イスラームという鏡で映し出すとき、より問題の輪郭は鮮明なものとなるのである。

そのような意味合いにおいて、本著は、日本社会を相対化するよき鏡の役割をも果たしていると思われる。

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