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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

戦争を止めること、語ることの難しさ

2015年07月12日 | 歴史、過去の語り方

 今、戦後70年の節目に戦争を考える複数の企画にかかわらせていただいています。

 どの企画をとっても「戦争」という大きなテーマに戦後70年を経てどう切り込むのか、切り込み口が豊富なだけに、的を絞ることは容易ではありません。加えて世の中の右傾化が進んでいる現在、憲法を語るにも、沖縄や基地問題を語るにも、それぞれの議論の立ち位置をきめることもなかなか簡単にはいきません。

 そんな折り、戦時中に暗号将校であったある戦争体験者の講演会を開くことになり、企画の持ちかたをどのように提案したらよいのか、とても苦慮してます。

 そのかたは、暗号通信兵という立場から、それほど激戦地での戦いを経験してきているわけではありません。
 おもに中国、満州、朝鮮半島を渡り歩いて終戦をむかえた体験談になります。
 ひとつひとつの移動日時から出来事の記憶がとても鮮明で、話しもとても上手な方なので、その話を聞けるだけでも十分と言えるかもしれませんが、この戦後70年という節目を、その方の体験を聞くだけで、ひとつの講演会を終わらせてしまうことにはとても抵抗を感じます。その方の体験から教訓として、シビリアンコントロールがとても大事であるとも強調されていましたが、話しがそれまでになってしまって良いのでしょうか。
 もしそれだけで企画を終わらせてしまったら、今、いったい何を問いかける講演会になるといえるのだろうかと思わずにはいられません。
 いかなる立場であれ、当時のリアルな体験というのは今やひとりひとりがかけがえのない貴重な証言者となっています。 それらを今こそもらさず発掘して後世に伝えていかなければならないのですが、私たちがそこから何をつかみ取るのかを抜きに、いまそれを語ることはできません。
 地元ではとても知名度はある方なので、企画を準備しているその周辺の皆さんにどう提案するべきか、あれこれ考えているのですが、いまだに考えがうまくまとまりません。

 

 戦後70年を考えるとき、まず第一に大きな壁となることは、圧倒的多数の人びとがいまや「戦争」の現実そのものを知らない、直接的に体験していないということです。

 戦争の現実そのものも、個々の戦地の様子、闘い方の問題、一兵士の重い体験、国際情勢のもとでの政治家や指導者たちの判断の問題、時代毎の特徴、銃後の暮らしの様子、国家総動員態勢の下での様々な変化・・・等など、きりなく課題があります。 

 それらのどこを切り込み口にしてもよいと思うのですが、どうも傾向として、なんであんなバカな戦争をしてしまったのか、こうすれば戦争は避けられた、あるいは今こそ平和をといった論調が、戦争や平和を語る人たちの間で、あまりにも噛み合ない現実に私たちはどう対峙したら良いのでしょうか。

 あの時代に比べたら、民主主義のレベルも進歩したかに見えますが、あのだれも止められなかった戦争をおこしてしまった環境、とても勝てそうにない状況に追い込まれていたにもかかわらず、それを早く止めることができずに多くの犠牲を膨らませてしまった現実、それらの構造は未だになにも変わっていません。

 

 

 その時代のまっただ中にいるときには気づいていなかったことを、後世の人びとはたくさん見て反省しているはずですが、まだ戦争の記憶も生々しいときに起きた朝鮮戦争のとき、私たち日本人はどう行動したでしょうか。

 ベトナム戦争のとき、反戦運動は今に比べたらはるかに大きなうねりとなっていました。
 でも、沖縄の問題、米軍基地の問題をその時どう解決してきたでしょうか。

 遠いアフガンやイラクへの侵攻がはじまるとき、日本はいったいどういう行動をとったでしょうか。

 戦後のどの時期をとってみても、あの大戦の経験があるから日本が再び戦争をおこす心配は無いなどといえる姿ではありません。そこが未だに浮き彫りにならないまま、もはや時代が変わり国際社会の一員としての責任を果たすには、血を流す覚悟なしには国を語ることはできないといった論調が加速的に増えてきてしまいました。

 

 戦争。

 それは、何を語ってもあまりにもインパクトの強い話題になるので、どの部分をついてもそれぞれが本質的論議の性格をもってしまうのも事実だと思います。

 でも今こそ、それで終わってはいけないと思うのです。 

 ではどうしたら良いのか、まだ結論を出せるわけではありませんが、
 まず以下のようなことが思い浮かびます。

 

1、様々な紛争を目前にして憲法九条の平和精神が大切であることに私は異論はありませんが、
 「九条」があれば平和が無条件に保証されるというほど現実は簡単なものではありません。

2、平和や独立を守るために一定度の「軍備」というものが必要であることも間違いないかも
  しれません。しかし歴史をみると、十分な軍備があれば、あるいは敵より強い装備さえあれば、
  必ず平和が守れるというわけでもありません。

3、軍の暴走を避けるためにも、「シビリアンコントロール」は不欠ですが、歴史をみると
  「制服組」ばかりが戦争に走るとも限りません。文民・官僚や国民、あるいはマスコミが
  まっ先に戦争をあおることもとても多いものです。

4、過去を振り返って反省される戦争であっても、その多くは「多数決」で国民の支持をえて
  始まりました。

5、自分の信条や考えにかかわらず「組織」の一員として「戦争」の現実に立たされたとき、
  暴走する上官の命令に直面した場合に自分がどう対応できるか。

6、政治的、あるいは組織的「権限」さえあれば戦争も止められるとも限りません。
  天皇ほどの立場であっても、終戦の決断と玉音放送の録音に至るまでは命がけのことでした。

7、国を守る強い精神と肉体をもった若い兵士であっても、「戦場という過酷な現実」のなかに
  入ると、普通の精神状態を保つことが難しくなるだけでなく、運良く生還した場合でも極めて
  厳しい精神状態におかれることになります。
      (戦場での戦死者の数よりも、生還した兵士の自殺率の方が多い時代)  

8、 戦争か平和か以上に世の中が、「不安定」であることによってこそ利益を得る人たち
  そして現代では、彼らこそが大きな影響力を持っているということを忘れてはなりません。                 (じっくり考えていくとまだまだ他にもありそうです)

 

これらのどれを取り上げても、とてもやっかいな問題ばかりです。

まさにとても「やっかい」な問題だからこそ、「戦争は政治の延長」なのであり、
対話や交渉で解決できないとき、「戦争」という力のの解決策にゆだねてしまうわけです。 

だとすれば、対話や交渉能力の欠如と諦めこそが「戦争=暴力(ゲバルト)」の最大原因ともいえます。

話しがここにくるとまたそれは、国の指導者や外交官、あるいは軍の指揮官の能力の問題としてとらえられがちですが、そうした要因もあることは事実でしょうが、その枠にとどめた話しになってしまうところが、まさに「戦争」問題の解決から遠ざけてしまっている大きな原因があるように思えます。

ちょうどそんなことを考えていたときに、エリック・C というフランス人の以下のような言葉を目にしました。

「日本の民主主義は未熟だと日本人に話すと、優秀な政治家がいないからだと言う人がいるから愕然とする。
民主主義が未熟だということの意味は優秀な人物がいるとかいないとか全然関係ない。政治に関心がない無関心層が多いか多くないかというだけのことだ。」 

 

  現代の政治の問題であっても、過去の戦争の問題であっても、それは無謀な戦争を推し進めた「彼ら」の問題として語るのではなく、「彼ら」を説得することも、止めることもできなかったそのまわりの人間=「私たち」の問題なのです。

 それを実行することが確かに容易ではないことは、誰もがわかると思います。

 しかし、それぞれの現場で、それが戦場であっても、指揮官の作戦本部であっても、議会であっても、マスコミであっても、知識人・研究者の立場であっても、会社などの組織内であっても、住民の隣近所のつきあいであっても、まさにそこに居合わせた自分(あなた)こそが歴史をつくっているまぎれもない当事者なのです。

 目の前の人間の無謀な判断や言いにくい雰囲気、あるいは言うことで自分の身の危険が増す恐れがある場合でも、自分が為せたこと、為せなかったことの積み重ねで、間違いなく歴史はつくられてきたのです。

 

 このことは、戦争にしても平和にしても、それはどこかの指導者に要求することとしてではなくて、自分がその現場で為せることの責任において、それはまさに首をかける、あるいは命をかける覚悟をともなってこそ、一歩前に進みうる問題であると思います。

 現実には、そんなことを言っていたら首(命)はいくつあっても足りないだろう、ともよく言われます。

 でも、それは戦争とまではいかなくても、私たちの職場においてもまったく同じ構図で、日々至るところでいいわけとして使われています。

 まえにも書いたことがありますが、ある教育関係者の会合に私が参加させていただいたときに、教師の責任を問うといった話しになり、それはなによりも自分の教え子たちがおかれている立場を守るためには、教師が職員室で首をかけて闘う覚悟をみせることなのではないかと初対面の先生達に恥も外聞もなく詰め寄ったことがありました。

 そのとき、会合の進行役をしていた先生が、首をかけてやめてしまっては元も子もなくなってしまうので、辞めないように努力し続けているのだといったようなことを言って、その場の空気をすこし和らげようとしてくれたのですが、私はそこでどうしても妥協することができませんでした。

 まず、首をかける覚悟のできていない腹では、いかにテクニックを駆使したところで、子どもには道理が通じないからです。
 逆にその腹=覚悟が決まった先生の行いであれば、仮に首になったとしても、それを見ていた子ども達には、それがたとえ小学生であったとしても、自分の先生のとった行動として深く心に刻まれることと思います。さらには、その先生自身もそのことによってこそ必ず次の活躍の場に出会える可能性が高くなるはずだからです。(公務員の枠内では、確かにこの次の道を求めるのは険しいかもしれませんが)

 そもそも普通の生活や仕事においては、首をかけるようなことなどということは、そう頻繁に起きることではありません。多くの場合は、10年に一度もあればよいくらいなのではないでしょうか。

 それが頻繁に起きるように見えるのは、その首をかけるような出来事にチャレンジせずにずっと持ち越し続けているから絶えずふりかかるように見えるのであるのだと思われます。

 さらに、その首をかけるようなことに出会えるときこそ、自らの真の力を試し成長できる素敵なチャンスであるわけですから、それを逃す手はないでしょう。 

 

 いかに平和のためといえども、決して命であっても首であっても阻末にしてよいものではありません。

 そもそも人の命の重さを比較などできるものではありませんが、その場において指揮官の責任と現場兵士たちの命の重さは、まず等価であるわけです。

 教師の責任と自殺に追い込まれる子どもの命の重さは、少なくとも等価であることで実態が見えるわけです。

 

 

 そもそも、戦争や平和は、あらゆる現場において首(命)をかける覚悟を伴わずに、責任を全うすることは難しいものであるはずです。
 それが難しい覚悟であるのは、まさに自分の首(命)をかけるからであり、他人の(首)命の問題になった瞬間から重い責任と覚悟は多くの人の場合、見えなくなってしまいます。 

 これを理屈で説明しつくすことはとても難しいのですが、世の母親だけは、自分の子どもを守るためには無意識に自分の身を投げ出して守ろうとする覚悟のようなものを、無条件に持っています。

 それが単純に本能といってよいものかわかりませんが、元をただせば、生命を守るということこそ、あらゆる人間や自然界の生物の基本原理であるはずです。

 この意味で、首(命)をかける覚悟のない責任は、もともと何より大切な原理=生命に基づかない反生命的行動とでも言えるような価値と実態を喪失したものと言い切ってもよいのではないでしょうか。

 

 

 私たちが歴史を語るとき、それはあまりにも政治経済史としての部分のみに目がいってしまっています。

 これまで述べたように、それは戦争に限らず、歴史とはまず何よりも

「命を受け継ぐこと」

「自然と人間社会の数多の命の再生産の歴史であること」

 が実態の圧倒的部分を占めているはずです。

 

 この命を受け継ぐこととは、そもそも

個体レベルで常に命がけの行いで成り立つものなのです。

その命を自分自身が担っている主体として背負い考えること抜きに

他人のこと、あるいは社会一般のこと、国家レベルのことに安直に置き換えてしまうことが、

わたしには民主主義の形骸化の最大原因に思えます。

 

こうしたことは当然、誰にとっても容易いことではありません。

私自身、こんなことを書いていながら、無責任ながらほとんどが敗北の歴史そのものです。

でも、だからといって「覚悟」を放棄することはできません。

首をかける覚悟に挑み続けるしかありません。

とっさに身を挺してわが子を守る母親の姿には、とても及ばないのが現実かもしれませんが、
だからこそ、その時こそ「命」の実態を知る大事な「今」に直面しているといえるわけです。

 

個人では太刀打ちできない困難に直面したとき

「だからどうすることもできない」

「仕方がない・・・」

の繰り返しでずっとやり過ごし続けるのではなく、

その個人では太刀打ちし難い現実に

3回に1回でも、

10回に1回でも、

年に一度でも、

いや100回に一度でもいいから

流れに身をまかせ続けるのではなく、立ち止まって

他人に要求することではなく自分がなすべきことで、

その困難な現実にチャレンジする勇気が欲しい。

 

答えは出せなくてもいい。

真剣にチャレンジすれば、少なくとも今までにはふれることのできなかった

沢山のものが見えてくるはずです。

 

「止められない戦争」といいのは、

それは正しいか間違っているかの問題ではなく、

こうした私たちの日々の覚悟や判断の積み重ねのうえに成り立っているものだと思います。

 

 

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