『「信」なくば立たず』
この言葉、フランシス・フクヤマの本の邦訳タイトルにも使われ、歴史は個人の強い意志や気概によってこそつくられる、といったような文脈(強いて言えばイスラエル・ユダヤ的)で使われていると思います。
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ところが、この言葉を親鸞や道元が使うときの日本的な意味は、意志や信念といったような意味での「信」ではなく、もっぱら「他力」をベースにした無条件の「信頼」といったようなニュアンス、意志よりも「委ねる」こととして、フランシス・フクヤマとは全く逆の意味で理解されています。
この「信頼」が特定の個人に対する「盲従」になるかどうかを担保するのが、鈴木大拙に言わせれば「大地性」であり、道元に言わせれば、こころや意識を介在させず、ただひたすら坐禅をくむ「身体性」ということになります。
人間である限り、意志の力や気概といったようなものは、確かに大事であることに異論はありません。
しかし、この「大地性」や「身体性」を忘れた考え方は、必然的に人間中心、あるいは自己中心の思考になり、たとえそれが「正しい」ことであっても、道を踏みはずすことにつながってしまうものです。
鈴木大拙『日本的霊性』
親鸞や道元は、かなり絶対的な「信」というものを基調においているので、とても誤解をうみやすいのですが、それは置いておくとして、どっちが正しいのかということではなく、日本人の文化として意志や信念に劣らず、「信頼」をベースにおいた社会を取り戻すことがいかに大事かということだけはおさえておきたいものです。