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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

遠い日の戦争

2013年08月15日 | 歴史、過去の語り方

今日は終戦記念日でした。

また黙っているわけにはいかないので、思うところをつらつらと書いてみます。

 

70代以上の年寄りでなければ、もう太平洋戦争の現実を体験した人はいない時代になりました。

にもかかわらず、「戦後」はまだ終わっていない、と言われます。

それは、主に以下のふたつの理由によるのではないかと思います。 

ひとつは、あの戦争そのものが何であったのかという「総括」がきちんとできていないことによるもの。

 もうひとつは、敗戦後の「占領下」という特殊環境でつくられた戦後日本の姿が、そのまま現代にまで引き継がれ、未だに独立国としての実態を持ち得ていないということによるもの。

 

 

「戦争」という事実そのものは、まぎれもなく悲惨で憎むべき出来事ですが、いつの時代でも、その紛れもないかの事実そのものは、その時々の人の感情に大きく左右され、変わりゆくものです。

 生々しい記憶が薄れれば、感情に左右されず冷静な判断ができるのではと期待したいところですが、歴史は必ずしもそうではありません。

 

 以下の二つの本は、BC級戦犯をとりあげたもので、敗戦直後か否か、生々しい記憶の大きな憎しみが背景に色濃くあるかどうかで、「客観」的判断が大きく変わる姿を描いています。

 

 

ながい旅

  大岡昇平 著
  新潮社(1982/05)  定価1,200円
  新潮文庫(1986/07)  角川文庫(2007/12) 定価 本体590+税


 B級戦犯として起訴された東海軍司令官、岡田資(たすく)中将は、自らの指揮下において、米軍の爆撃機B29搭乗員を処刑したことの罪を問われるが、それら搭乗員は国際法上の捕虜ではなく、日本の非戦闘員を意図的、計画的に無差別爆撃した戦争犯罪人であり、現場ではその判断の上で処刑をおこなったとし、当時裁かれる一方の日本側の立場のなかで、米側の戦争犯罪をひとり追及する戦いをはじる。なおかつ、米搭乗員を処刑した責任は指揮官たる自分にすべてあると、部下の生命を救うための戦いもおこない、スガモ・プリズンで信念を貫き通す。

 

 

遠い日の戦争
 吉村 昭 著
  新潮文庫(1984/07) 定価438円+税 

 敗戦後、軍人はA級戦犯、BC級戦犯などの運命をたどるが、十分な裁判などを受けないBC級戦犯ほどそれはしばしば、あやふやな証言、敗戦時にいた環境や地域、またはつかまった時期によって大きく左右される運命にあった。
 終戦の詔勅が下った昭和20年8月15日、福岡の西部軍司令部の防空情報主任・清原琢也は、米兵捕虜を処刑した。それは無差別空襲により家族を失った日本人すべての意志の代行であると彼には思えた。
 しかし、敗戦とともに連合国軍の軍事裁判を回避するために清原琢也は、長い逃亡生活の道を選ぶ。
 敗戦時の戦犯裁判の姿を知る作品としても一級の作品。

 また著者は、この主人公の目を通じて、同時期におきた九州大学医学部による捕虜の実検手術(一種の処刑)についてもふれています。





誰もが、あんな戦争は二度と起こしてはならないと思っていたはずですが、アメリカのイラク侵攻に反対出来ない人が多かったように、日本が戦争をしないという保証は、残念ながら今、わたしたちの手元にはありません。

東日本大震災と原発事故が起きたとき、それまでクリーンなエネルギーとして原発も必要であると言っていた人の多くも、脱原発への道を選択したかに見えましたが、いつのまにか再稼働もやむなしの声がジワジワと広がってきています。


いついかなる時代でも、意見は分かれるものです。

それは間違いないと思いますが、では、私たちができる「選択」とは何でしょう。

わたしは、いつもこのことを考えます。


止めることが出来ない戦争が起きてしまう。

やめることが出来ない原発、どうしてやめることができないのか。


今回の選挙結果をみても、「平和」や「安全」が、

なにか「遠い日」の戦争かのごとく手の届かないところに行ってしまうような不安にかられます。

自分の目の前に起きている現実に対する、自らの「選択」が、どうしてかくも「無力」に見えてしまうのでしょうか。


今の政治家たちの勉強不足や責任感のなさを責めることは簡単です。

でも、それは国や政治の問題である以上に、止められない現実を冷静にみると

目の前の仕事や職場で日々起きている現実を、

変えられない、

やめられない

ひとりひとりの「選択」の積み重ねであることがよくわかります。


 

どこへ行っても、

 

話の通じない人、

言ってもわからない人、

 自分とはまったく違う価値観の人、

 どう転んでもやる気の出ない人、

     ・・・・などなど

自分のコントロールの及ぶ範囲外の人は必ずいます。



常に「背に腹はかえられない」という判断の積み重ねの結果で起きている重大な結末も周りにはあふれています。


まだ作成途上ですが「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの「仕事は楽しいかね」のページは

下記の言葉の引用を軸に組み立てています。



「スタグフレーションという言葉を僕が考え出したのは、この言葉ができるまでずっと、経済学者たちが、
インフレと景気停滞とは同時には存在しないと主張し続けていたからだ。

起きるのはインフレか景気停滞のどちらかであって、両方がいっぺんに起きることはない、とね。

 だけどきみの話から、この国の経済が新たな双子の要素を生みだしたことがわかった。

今度の双子は社員レベルで生まれている。
"退屈"と"不安"という双子だ。

きみは、この二つは、同時には生じないと思うだろう。
 だけど、違う。

 

 人々は、したくもない仕事をし、
同時にそれを失うことを恐れているんだ」

 

「仕事は楽しいかね」http://kamituke.web.fc2.com/page141.html 

 

 

自分の納得のできない現実に直面したとき、

誰もが、本来はそれを変える「権利」や「権限」、

たとえそうした権利や権限が十分ない状態であっても、

 そこから「抜け出す」、あるいは「逃げ出す」権利や権限を持っているはずです。

 

しかし、戦時統制下になったら、とても怖くてそんなこと容易にはできない環境になってしまうでしょう。

確かにそうです。歴史はそうでした。

 

でも、今の日本は、戦時統制下にあるのですか?

 もしかしたら、今も戦時統制が行われているのではないかと思うようなマスコミの情報も確かにあります。

 

 だからといって、「私」や「あなた」が勇気をもって「選択」することを妨げるものはそれほど強固なものではありません。

 

「戦争」の問題、「原発」の問題を

今の自分の仕事(職場)の選択の問題に引き下げて考えれば、

決して「遠い日の戦争」の話でも、手の届かない「原発」問題でもないことに気づくと思います。

 

自分が勇気を持って世間の相場判断ではなく、自らの意思で「選択」できるかどうかにこそ、

ほんとうの答えが常に自分の目の前にあるのだという実感を感じることができるかどうかの分かれ目なのではないでしょうか。

 

確かにこれは誰もがすぐにできる容易なことではありません。

でも、自分のその一歩を抜きにして、国や政治家の無能さを責めてばかりいてもしょうがないような気がしてなりません。

 

また、「意思」と「選択」は、「コツコツ」と積み重ねる「真面目な努力」だけでは絶対に出来ません。

それは、強い意志を持つことよりも、

もっと「面白く生きる」選択をすることの方が、間違いがなく、かつ近道のような気もするのですが。

 

 

 


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