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古代朝鮮の仏像はどこにある?

2009年04月13日 | 歴史、過去の語り方
5月に奈良から吉野を経て熊野古道へ行くことになったので、藤原氏ゆかりの興福寺へは是非立ち寄ろうと思っていたら、ちょうど今主要な仏像は、東京の阿修羅展へ出張中とのことでした。

展示物は展覧会会場のほうがよく見れるので、旅行から帰ってから東京へは会期中になんとか行こうと思ってます。

それにしても、鎌倉以降の仏教が一般化している私たちにとって、興福寺や東大寺、あるいは法隆寺の仏教というのは、かなり異質な存在に感じるものだと思われます。
ひと口に奈良仏教というよりは、それぞれが独立しながらとても大きな存在としてそびています。

今回の旅行のテーマのひとつは、平野(奈良)の仏教が山(吉野、葛城、熊野、高野山や比叡山)と結びつくことで日本的な仏教(信仰)として完成させられた経緯を感覚的につかむことにあります。

こうした視点で平野(奈良)の信仰を見ると、もうひとつまだ日本化されきれていない「大陸の信仰」といった別の視点が浮き上がってきます。
 
その鍵を握るのは、古代朝鮮の仏教です。

インドから中国、朝鮮半島を経て日本に流れてきた仏教を振り返る著書や企画は、これまでいろいろ出されていますが、それらを見ると、どれも意外と朝鮮半島の古代仏教に関する資料が少ないように思えます。

あれだけ奈良に優れた仏像を残した古代朝鮮の仏師たち、本国では当然、影響を与えた奈良以上の文化遺産があって当然のことではないかと思うのですが、どうもそれらの仏像遺産があまりみあたりません。

中国や東南アジアの仏像などと比較しても、朝鮮半島の仏像のみが、日本人として納得のできる繊細な表情を持っているのに、そのルーツをたどる資料にいまひとつ欠けています。

よく言われるその理由に、戦争にあけくれた大陸では、その多くが戦火に焼けてしまい、石仏の類しか今日に残らなかったと言われます。

しかし、大陸ほどの大きな戦火ではないかもしれませんが、日本でも大きな戦いで何度となく寺院や仏像は焼けています。
運よく戦火を逃れたものだけでなく、焼けてしまったものも、歴史の中では何度となく復興、再建してきた経緯があります。

朝鮮半島では、儒教やキリスト教の勢いに押されぎみであったのかもしれませんが、それにしても同じ東アジアの文化圏として理解しがたい。

これが古いものを完全否定しないと新しいものを築けない、大陸文化というものなのだろうか。
日本のように古いものを残したまま、その上に新しいものを積み重ねていける発想の方が特殊な文化なのだろうか。

こんなことを考えても、つくづく、日本に生まれてよかったと思う。

今は出発前に読む本がいっぱい溜まってしまって大変!




補足:朝鮮の儒教隆盛による仏教排斥の経緯については、下記サイトに詳しくありました。
李氏朝鮮時代の仏像排斥
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