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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

今あらためて滝川事件に学ぶ

2022年01月29日 | 歴史、過去の語り方
 今日、ZOOMで昭和八年に起きた滝川事件のことを少し話しました。
 戦時下の厳しい思想統制が始まりだした時のことです。
 
 それまで、左右の過激思想につながる動きが監視され、そうした行動をとる組織などが弾圧されたりしていましたが、この事件を境にして、実際にそうした思想や行動とは全く関係のない立場の人でも、そうした考えにつながるような表現を使った、あるいは「考えていると思われる」というだけで、弾圧をうけるようになりました。
 
 この時、京大は学問の自治や研究の自由は、いかなることがあっても守りきらなければならないと言って、かなり頑張って京大の大学自治の基礎が作られるのですが、結局滝川教授とそれを支持する京大法学部の主要教授たちは京大を去る(辞めた教授のほとんどは立命館大学に拾われた)ことになりました。
 京大法学部の地位が落ちて立命館大法学部の地位が急速に上がり、結果、帝大(東大)法学部の突出が顕著になりました。
 
 
 同じ法律でも、解釈や運用によってどんどん変わりうるということなのですが、決定的に大事なのは、内容の正しいかどうかではなく、どんな内容であろうが研究すること、調べること、知ろうとすることは、いかなることがあっても規制の対象にしてはいけないということです。
 
 いつの間にか、大手メディアとネット社会では、現代でも簡単にそうした規制がされる時代になってしまいました。今のところ幸いなことに出版業会だけは、その自由がかろうじて守られていることに、逆にその責任の重さを感じています。
 
 戦時中、そうした規制の対象は✖︎✖︎✖︎✖︎✖︎とか墨塗りで消されましたが、戦後GHQによる規制は、どこが削除されたのか、何がダメだったのかも分からないような方法が取られました。
 
 これは、今まで考えられなかったことが次々に起こる時代、予想もきなかった変化が身の回りでどんどん起きる時代に入っているからこそ、前例やそれまでの常識、平均値からはみ出した自由な思考を育てなければならない時に、完全に逆行した発想です。
 
 すでに世界は、100点満点をとることよりも、120点とか、300点とか、採点者の想定を超えたような答えを出すことこそが求められる時代に入っているのです。
 
 世間がどうであれ私たちは、現実には起こり得ないこと、あり得ないようなことも、自由な情報環境の中でどんどん出す側にならなければいけないと改めて感じた1日でした。
 
 実際の話は、日本がアメリカから独立するなんてあり得ない?という話の流れで、フツーの国が考える真の独立(主権の獲得)を得るにはどうしたら可能なのかを、考えることすら放棄したような状態で、環境問題、食糧自給、食の安全、経済の復活、国民福祉の向上はないだろうとの話でした。
 
 黙ってはいられません。
 
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