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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

読書を自己目的化してしまうことへの危惧

2019年08月05日 | 出版業界とデジタル社会
以下は、「かみつけの国 本のテーマ館」に書いた大変古い文章ですが、
いづれ閉鎖するホームページなので、以下に転載しておきます。 
 
 
   本が読まれなくなった。
 本が売れなくなった。
 本屋の仕事をしていると、いたるところでこうした言葉が耳に入ってきます。
 
 もっとも売れない売れないといっているひとですら、それほど本を買って読んでいる時代ではないので、いわずもがなの感もある。
 もちろん、本は読まなくても立派な本を出版することは出来るし、たくさん売ることもできます。むしろ商売上では、読まなくては売ることができないと思い込んでしまうことのほうが害は大きいかもしれません。大手コンビニで成功している販売哲学によれば、作り手や売り手が下手に内容に関知することよりも、読者、利用者の需要を徹底して追いかけることの方がはるかに大事であることを強調しているのは決して間違ったことではありません。
 
 ところが、そこまで考え方も実践も徹底しない人に限って、誰かにもっと売れる本を作ってほしいとお願いするばかりであったり、誰かに本がどんどん売れる(読まれる)システムを作って欲しいとおねだりするばかりになっていることが多いようです。
 相変わらずなんでもたくさんつくり、たくさんおく、これまでの慣れ親しんだ方法が通用しなくなったと知りながらも、脱却できないでいる企業もあまりに多いのではないでしょうか。
 どう考えても、いまのままじっと待っていても、数年で良くなるような世の中ではないのに。
 
 
 こうしたお決まりの現状を見れば見るほど、こじつけといわれるかもしれませんが、本が読まれない(売れない)現実と、不況・デフレが解決する目処のたたない日本の現実は、根をまったく同じくした問題であると感じずにはいられません。
 
 
 それは、本が読まれない理由として、本以外のTVに代表されるメディアが発達したことなどがよく言われますが、本を読まずにTVなどの情報で済んでしまっている現状をみると、そうした理由だけでなく、目の前の現実に対する関心自体が薄れていること、問題を深くとらえることに意味を感じなくなってきてしまっていることの方が、より深刻な問題のような気がします。
 
 
 随分古い時代の例で申しわけありませんが、まだパソコンがMS=DOSをOSとして動いていた時代にデータベースソフトでdBASEⅢというのがありました。当時、コンピュータ書の知識もろくに無かった私は、このdBASEⅢ関係の本が突出してよく売れるのが不思議でなりませんでした。
 そんなにこのソフトは普及しているのだろうか?と疑問に思い、コンピュータ書の出版社営業の人に聞いて見ました。すると、かえってきた答えは、このソフトはそれほど普及しているものではないが、とても難しいソフトだから、本がよく売れるのだとのことでした。
 なるほど、と思いました。
 
 わからないから本を頼る。わかりにくいから本が売れる。
 これが基本なのではないでしょうか。
 
 これはなにもコンピューター書や実用書に限ったことではなく、ちょっと拡大解釈すれば、小説のたぐいであっても同じことが言えると思います。
 恋愛や家族のことなど人間関係やひとの心の問題が、誰にとっても容易にはわからないから、様々な他人の生き方を参考にしたり、励まされたり、共感したりする。ひたすら人間存在がわからないから、あらゆる本にたより、またあらゆる分野の本が売れていくのだろうと思います。
 人間存在に代表される、より難解、不可解、理不尽な問題ほど、ひとびとが本に頼るのはごく自然な姿だと思います。
 それなのに、本に頼る必要を感じないという日常生活とは、いったいどのようなものなのでしょうか。答えだけであれば、確かにTV、新聞・雑誌、などいたるところにみることが可能です。
 
 しかし、本を頼らないそれらの知識は、その多くが自ら選択した情報ではなく、川上から流れてくる情報を自動的に受け入れるばかりのものです。
        
 
 
 
 
 このことを、現実に流通している本の実態に即してみると、もっと強く感じます。
 私が以前、別の書店に勤めていたとき、あるお店の増床のために主要都市の大型店を見てまわった時に感じたことがあります。500坪1000坪の大型店といっても、結局はほとんどが「総合実用書店」ではないかといった印象をもったことです。
 
 
 とかく本について多くを語る読書好きの人びとは、どうしてもミステリーなどの小説を読む人達に集中してしまう傾向があります。ところが、現実に読書、本を読む人々の人口構成比は、実際に売れている商品の構成比からみれば、純粋な文芸小説類を読む人々の比率は意外に少なく、むしろ、日常の仕事や生活で必要になる様々な実用的専門書や実用的娯楽書のたぐいが市場の圧倒的多数を占めているのが実情です。
 
 ちょっと業界紙『新文化』に掲載されている、日販調査の「書店販売動向」のデータから、2003年6月の売上げ構成比だけをみてみましょう。
 
 ジャンル別売上構成比(%)      
分類 
平均構成比 
雑誌
37.2
コミック
19.6
児童書
3.0
実用書
10.4
文芸書
6.2
文庫
9.2
新書
2.0
学参書
3.2
専門書
5.7
その他
3.5
合計
100.0
    (2003年6月期)
 
 このなかで、いわゆる文芸小説といわれる分野の本は、文芸書の約半分未満と文庫の3分の2程度のもので、あわせても全体の1割程度。
 しかも、この調査は一般的な書店を立地別、規模別に104店のサンプル店から抽出したデータで、出版市場全体でみると、金額ベースでみれば、もっと比率の高い外売りルートの医学専門書や官庁・学校関係の販売データは含まれていないと思われます。
 
 このデータからも書籍販売に対する考えを、もっと文芸小説重点から改める必要を感じます。もちろん全国の書店の文芸書担当者が、いくら文芸小説が好きであっても、それに偏った仕入れや品揃えをしているわけではないことはわかります。
 しかし、話題にされる比率は、どうしても小説以外のノンフィクションや実用書の仕入れや販売管理については少なく、実際に棚を見れば、主要版元の常備品で埋められているだけの場合がとても多いと思います。
 
 
 
 実際の市場を支えているこれらの広義の実用書人口は、仕事で決算書についての知識が必要になった、友人の結婚式で冠婚葬祭の知識が必要になった、庭に植える花が枯れない方法を知りたい、コンピュータの操作がわからなくて困った、などなど、生活のあらゆる領域、場面の人びとに担われています。
 
 ところが、こうした需要はそれぞれの仕事や生活のさまざまな局面で遭遇する必要にせまられた手段としての読書であるため、それらの本を読んでいる人たちの間では、それが読書の時間であるという意識はあまりもたれていません。
 こうした実用的読書は目立ちこそしないものの、実際には、世の中のミステリーや文芸小説を中心に読書を考えているひとたちよりも、圧倒的多数の読書人口を担っているのが実態であるといえます。
 
 
 このことはもう一方で、先に述べた自分で考えるための読書よりも、より早く答えをみつけるための読書がものすごい勢いで進化している側面ももっています。書店の棚=市場の構造も、みごとにそのような構成に進化しているのも感じます。
 
 これは一概に悪いこととも言い切れません。
 とかくテレビなどの情報(じっと座っているだけで流れてくる「世間」の情報)に慣れてしまうと、「要は何なのか」結論がわかれば良いではないかといった発想が蔓延してきてしまいます。日常の多くのことがらは、スピード化と合理化の時代で、そうした手っ取り早い情報が多く求められているのも事実です。
 しかし、本が、競争相手であるテレビの「早くわかりやすく」の方にばかり歩みよりすぎ、本来、テレビにできない本の強みである「深くじっくり掘り下げて考える」部分を、どんどん放棄し続けてきてしまっている現実も忘れてはなりません。
 
 誰もがテレビのニュースキャスターやコメンテーターの言葉のオウム返しで、ある人を持ち上げ、翌日にはこき下ろす。
 こうした風潮が、日々目前に発生しているこれまでに経験のなかった問題に対して、自分で立ち向かえない個人を多く生み出してしまっているように思えてなりません。
 
 
 だれか早く答えを教えて!
 景気が悪いから仕方がない、会社が悪い、国が悪い、役人が悪い
 そして、誰も責任をとらない。
 いつも飛び交うのは、そんな言葉ばかりではないでしょうか。
「失われた10年」を限りなく延長し続けている原因は、この辺にこそあるのではないでしょうか。
 
 
 もし、今の日本と世界の深刻な事態に対する認識がほんとうにあれば、政治家や経済関係者だけでなく、もっと一般の多くのひとびとが、書店の棚から、国債についての本や税制に関する本、世界経済に関する本や戦争、宗教についての本、さらには企業経営についての本を、今こそむさぼるよに買って読んでいくのではないでしょうか。
 
 どの考えが正しいか間違っているかということよりも、まず、問題に食い込んでいく「気概」の方がなによりも欠落してしまっていると思います。
 今に至って、雑学、教養としての読書は、無いよりあったほうがましかもしれませんが、それだけではあまりにも無力であると感じずにはいられません。
 他人に答えを教えてもらう読書から、自分で答えを見つけ出すための読書が求められているのだと思います。
 
 
 
 
 
 もうひとつ、読書推進派の論調で気になるのは、読書することや知識を得ることは、無条件に正しいといった考えです。
 
 最近私が出会う本には、やたらと「本は読むな!」と書いてあります。
 道元を読んでも出てくるし、昔、気功を教わった先生からもしきりに言われました。
 
 まず、健康な体をつくらずにものを考えたって、いい結論がでるわけないだろう、と。
 
 体が思うように動かない人間が、頭でその矛盾を埋めようとすればするほど、良い結果はでない。健康な体をつくれば、考える前に体が動く。そして自然に良い結果がでる。
 「体は心の容器」であるから、心を問題にする前に健康な体を作れ!と。
 
 
 最近「情念論」にこだわっているお客さんがいて、いろいろ探しあてた古本を渡してあげようと思ったら、あげる前に人手に渡すのはもったいなくなってしまう本を見つけてしまいました。
 それは、中村雄二郎の『現代情念論』です。すでに文庫化されていました。
 
 「したがって、哲学にとって最大の敵ないし障壁は諸科学の細分化でも、技術の加速的な発達でも、政治の優位でもなく、活発で、自由でしなやかな否定を通して自己還帰運動を失い、凝結し、硬化した哲学者自身である。ある種の哲学者は文献学者のように精励であり、ある種の哲学者は科学者のように着実であり、また、ある種の哲学者は政治学者のように政治に対して見識をもち、ある種の哲学者は宗教家のように求道している。そうしたこと自身は大いに結構であるが、それだけに終始して事足れりとするならば、哲学者として怠慢といわなければならない。」
 
 「(略)わたしは上山春平が六年前に行った次のような提言に賛成したい。『学会にでるたびにユーウツになるのですが、わが国の学問のうちでも、哲学ほど共通の問題意識の欠けた学問はないんじゃないか、という気がします。僕は近世、君は古代。僕はカント、君はヘーゲル。僕はカントのカテゴリー論、君は道徳律、など等。テーマは果てしなく分裂します。・・・・・共通の問題意識がなかなか出てこないのも、いきた現実とまともに取り組む気構えが欠けているからじゃないか、と僕は思っています。各人がこれまで身につけた学問的知識は、いかに様々であっても、僕たちのぶつかっている現実の問題を解く手段(必ずしも直接その解決に役立たなくてもよい)としてそれを用いるつもりになれば、共通の問題意識がでてくるに相違ない、と思うのです。』」
 
 
 
 私自身何度か経験しているのですが、困難な問題にぶつかったとき、手がかりを求めてたくさんの本を買い込んで読むのはいいのですが、読んでいることだけで前に進んでいるような気になってしまい、どんどん読書量の時間は増えるが、自分のそのときの実態は、ただ目前の問題から逃げているだけで、勉強中であることを逃げ口上にしか使っていないのではないかということが多々ありました。
 
 そんなとき、いつも問題を解決してくれるのは、先に答えを見つけることよりも、およその見当をつけたら早く自分の手足を動かして走りだすこと。
 その方が常に、より早くもつれた糸が自然にほぐれてくると感じました。
             (参照ページ議論や分析ばかりしてないで「攻めてみよ!
 
 

 
 このような姿勢を、他方で、技術者や事業家は、昔から自然に身につけているように見えます。
 
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岡野雅行 著 『俺が、つくる!』中経出版(2003/02) 定価 本体1,400円+税
 
 未経験、未開拓の分野に挑む都合、膨大な文献などの資料にも頼りますが、そこで結果を出すには、自分の力を信じて自分の責任でプロセスを突き詰めるしかない。結果がでないときには絶えず仮説、理論を検証し、市場で通用する結果がでるまで、工程を突き詰めていく。
 
 いつまでも理論的に正しいか、可能かどうかにばかりこだわっていては、すばらしい成果はあげられません。
 
 それに対して、特に人文・社会科学系の研究者たちは、実験による明確な検証が難しいだけに、結果をだすために必要なスピードや個々の成果を確実に出すことにたいして、あまりにも無自覚、無責任であるようにみえます。
 まるで難しいことをいろいろやってるんだからいいだろう、とでもいうがごとく姿勢すら感じることもあります。

 
 セブンイレブンの鈴木敏文会長も、こうしたことを鋭く指摘しています。
 
「何か新しい事業やビジネスを始めようとするとき、人はとかく、“勉強”から始めようとし、それが正しい方法であるかのように考えられています。その場合の勉強とはどのようなものかと突き詰めると、結局、過去の経験の積み重ねをなぞる作業にすぎないことが多いのです。しかし、新しいことを始めるとき、最初に必要なのは仮説であり、仮説はそうした勉強からはほとんど生まれることはありません。
(略)
 われわれが常に心に銘じなければならないのは、前例のない新しいことを始めるときには、人の話を聞いても仕方がないということです」
 
 人が勉強しようとするのは、勉強すれば答えが見つかると思うからだろう。しかし、鈴木氏の言葉を借りれば、最初から答えがわかって行うなら、それは「作業」でしかない。あるいは、最初から挑戦を避けるため、勉強して「できない理由」を見つけようとする人間もいるかもしれない。誤解を恐れずに言えば、こうした考え方をするのは、「知能指数的な優秀さ」を持ったタイプに多いのではないか。  
  勝見明著 『鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」セブンイレブン式脱常識の仕事術』
プレジデント社(2005/01) 定価 本体1,238円+税
 
 
 そもそも、知識は実践のために不可欠なものですが、何を考えているかによってではなく、何を行なったか、何をなしえたかによって人は信頼されるものです。
 
 
 「学問」や「読書」を口実に、至るところでこのような事態を目の当たりにするにつけ、今、深刻な問題が山積しているこの世の中で、ただ「もっと本を読みましょう」といった言葉には、もろ手では賛成しかねる、ということをあえて言わせていただきたいのです。
 
 もちろん、学校などで行なっている読書の習慣づけや活字になれるための読書推進活動などは、教育の一環としてとても良いことだと思います。
 それから、若いときは無条件に膨大な知識を吸収できるだけの欲求、大きな胃袋があります。
 
 
 それはそれで必要なことですが、世の中全体では、「もっと良い本をたくさん読みましょう」といったスローガンではなく、
 「今あなたが直面している問題から逃げずに立ち向かいましょう」、
 「他人のせいにしないで自分のできることを実行しましょう」、
 「わからなければ立ち止まって真剣に考えましょう」
といったような言葉でなければならないと思います。
 
 
 そうすれば必然的に、自己目的化した読書よりもはるかにたくさんの本が、手段として必要になってくるのではないでしょうか。

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