86歳の冒険家三浦雄一郎さんの次男、豪太さんらは現地時間の1月21日午前11時すぎ、アルゼンチン西部にある南米大陸最高峰アコンカグア(6959メートル)への登頂に成功した。おめでとうと祝福したい。そして豪太さんの登頂以上に父、雄一郎さんの登頂断念の決断に賞賛をおくる。
冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さんは山頂を目指して標高6千メートルのキャンプに滞在中、チームドクターから「心臓に負担がかかりすぎて不整脈が出ており、耐えられる状況ではない」と告げられ、ドクターストップがかかった。6千メートルの付近のキャンプ地は空気が薄く、さらに足を進めることは命の危険につながった。
豪太さんがお父さんを説得し、雄一郎さんは苦渋の決断を下した。その時の心中を、三浦さんはNHKとの電話インタビューでこう話した。「医師と次男の豪太から強い説得を受けて、1時間ほど悩みました。はじめは非常に受け入れがたかったです」。しかし「あのときはテントが吹き飛びそうなくらいの強風が吹いていて、高所の登山ではいちばん危険な状態でもありました。高齢でもあり、撤退すべき時は勇気をもって撤退することも必要かなと思ってます」と結んでいる。
私の独断と偏見かも知れないが、我々日本人はいったん事を始めると、最後までやり遂げることに価値を見いだす傾向が強い。そして周囲の厳しい環境を無視してでも「前進」する。そして苦難に満ちた環境下で成功すると、平均的な日本人から賞賛の嵐を受ける。艱難辛苦の果てに成功する人びとの中に「人間の美」を見つけるのかもしれない。しかし状況を無視し、深入りしすぎて失敗する例が多々あることを忘れてはならない。
その代表例が、日中戦争(日華事変)だ。日本軍が中国大陸で泥沼の戦争にはまっていたとき、当時の近衛文麿首相は荻窪会談(1940年7月19日)で当時の東条英機・陸軍大臣に「この難局を打開するには、日本軍全軍を(日本の傀儡国家)満州国まで撤退させるべきではないのか」と主張した。これに対して東条陸相は「すでに30万人の将兵を戦死させているのに今さら引けるわけがない」と拒絶した。
東条陸相は感情に走り、合理的な判断を欠いた。近衛首相の提案は「非常に受け入れがたかった」。この感情的な決断は太平洋戦争(大東亜戦争)前夜にも遺憾なく発揮された。
一方、数は少ないが、撤退について紐解く。織田信長が越前の朝倉家を攻撃中、浅井長政の裏切りにあい、背後から攻撃を受けようとした。その時、「猿(後の豊臣秀吉)、しんがりを頼む」と言い残して疾風のごとく退却した。また太平洋戦争中のキスカ島撤退作戦などがある。
作家の百田尚樹氏が著書「日本国紀」で、戦後の憲法制定に絡んで幣原喜重郎(1972~1951)を糾弾しているが、彼は平和を希求した立派な外交官・政治家だった。彼が若い頃、英国の偉大な歴史家で外交官だったジェームス・ブライスに会った。
ブライスは幣原にこう述べた。「あなたは、国家の命運が永遠であることを認めないのですか。国家の長い生命から見れば、5年や10年は問題ではありません。功を急いで紛争を続ければ、終いに二進も三進もいかなくなります。いま少し長い目で、国運の前途をみつめ、大局的見地をお忘れないように願います」。ブライスは幣原が目の前のことだけを見て、遠い未来を見ない外交姿勢を憂い、彼に助言した。その後の幣原の生き方や考え方に大きな影響を与えた。
攻撃を始めることは誰でもできる。しかし撤退は勇気を必要とする。その上、タイミング(時)を失えば、撤退が死につながる。前進し続けることは精神力が強いようで弱い。撤退することは精神力が弱いようで実は強いといえよう。そして未来を予測して合理的な結論を導くことは、素晴らしい能力だ。「撤退せずに必死で頑張り勝利に邁進する」のは相手との力関係が五分五分のときと、相手より強いと分かっているとき、周囲の状況が良いときだけだと思う。
三浦さんは私情をを押さえて冷静に判断し、息子さんとチームドクターの忠告を受け入れた。彼と親交がある俳優で歌手の加山雄三さんは朝日新聞の取材に「謙虚な心で勇気ある撤退をした本当の冒険家を拍手で(日本に)お迎えしたい」と語った。
86歳の登山家は息子らのアコンカグア登頂を祝福するコメントを出した。三浦さんが登頂断念後、息子さんの豪太さんらに伴われ、標高6千メートル付近から5500メートル付近まで一緒に下山。そこからの豪太さんが登頂アタックを開始したことについて、「あんな厳しい条件から、よく頑張ってくれた」と話しているという。
三浦さんの見事なまでの引き際だった。それは明日への捲土重来につながる。三浦さんはこの登山で自信をつけたという。90歳でエベレストにチャレンジしたい、と早くも次の挑戦へ意欲を見せている。目標を持って人生を生き生きと生きる。われわれに人生の生き方を教える。見習いたい。
左が三浦雄一郎氏、右が息子の豪太さん
冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さんは山頂を目指して標高6千メートルのキャンプに滞在中、チームドクターから「心臓に負担がかかりすぎて不整脈が出ており、耐えられる状況ではない」と告げられ、ドクターストップがかかった。6千メートルの付近のキャンプ地は空気が薄く、さらに足を進めることは命の危険につながった。
豪太さんがお父さんを説得し、雄一郎さんは苦渋の決断を下した。その時の心中を、三浦さんはNHKとの電話インタビューでこう話した。「医師と次男の豪太から強い説得を受けて、1時間ほど悩みました。はじめは非常に受け入れがたかったです」。しかし「あのときはテントが吹き飛びそうなくらいの強風が吹いていて、高所の登山ではいちばん危険な状態でもありました。高齢でもあり、撤退すべき時は勇気をもって撤退することも必要かなと思ってます」と結んでいる。
私の独断と偏見かも知れないが、我々日本人はいったん事を始めると、最後までやり遂げることに価値を見いだす傾向が強い。そして周囲の厳しい環境を無視してでも「前進」する。そして苦難に満ちた環境下で成功すると、平均的な日本人から賞賛の嵐を受ける。艱難辛苦の果てに成功する人びとの中に「人間の美」を見つけるのかもしれない。しかし状況を無視し、深入りしすぎて失敗する例が多々あることを忘れてはならない。
その代表例が、日中戦争(日華事変)だ。日本軍が中国大陸で泥沼の戦争にはまっていたとき、当時の近衛文麿首相は荻窪会談(1940年7月19日)で当時の東条英機・陸軍大臣に「この難局を打開するには、日本軍全軍を(日本の傀儡国家)満州国まで撤退させるべきではないのか」と主張した。これに対して東条陸相は「すでに30万人の将兵を戦死させているのに今さら引けるわけがない」と拒絶した。
東条陸相は感情に走り、合理的な判断を欠いた。近衛首相の提案は「非常に受け入れがたかった」。この感情的な決断は太平洋戦争(大東亜戦争)前夜にも遺憾なく発揮された。
一方、数は少ないが、撤退について紐解く。織田信長が越前の朝倉家を攻撃中、浅井長政の裏切りにあい、背後から攻撃を受けようとした。その時、「猿(後の豊臣秀吉)、しんがりを頼む」と言い残して疾風のごとく退却した。また太平洋戦争中のキスカ島撤退作戦などがある。
作家の百田尚樹氏が著書「日本国紀」で、戦後の憲法制定に絡んで幣原喜重郎(1972~1951)を糾弾しているが、彼は平和を希求した立派な外交官・政治家だった。彼が若い頃、英国の偉大な歴史家で外交官だったジェームス・ブライスに会った。
ブライスは幣原にこう述べた。「あなたは、国家の命運が永遠であることを認めないのですか。国家の長い生命から見れば、5年や10年は問題ではありません。功を急いで紛争を続ければ、終いに二進も三進もいかなくなります。いま少し長い目で、国運の前途をみつめ、大局的見地をお忘れないように願います」。ブライスは幣原が目の前のことだけを見て、遠い未来を見ない外交姿勢を憂い、彼に助言した。その後の幣原の生き方や考え方に大きな影響を与えた。
攻撃を始めることは誰でもできる。しかし撤退は勇気を必要とする。その上、タイミング(時)を失えば、撤退が死につながる。前進し続けることは精神力が強いようで弱い。撤退することは精神力が弱いようで実は強いといえよう。そして未来を予測して合理的な結論を導くことは、素晴らしい能力だ。「撤退せずに必死で頑張り勝利に邁進する」のは相手との力関係が五分五分のときと、相手より強いと分かっているとき、周囲の状況が良いときだけだと思う。
三浦さんは私情をを押さえて冷静に判断し、息子さんとチームドクターの忠告を受け入れた。彼と親交がある俳優で歌手の加山雄三さんは朝日新聞の取材に「謙虚な心で勇気ある撤退をした本当の冒険家を拍手で(日本に)お迎えしたい」と語った。
86歳の登山家は息子らのアコンカグア登頂を祝福するコメントを出した。三浦さんが登頂断念後、息子さんの豪太さんらに伴われ、標高6千メートル付近から5500メートル付近まで一緒に下山。そこからの豪太さんが登頂アタックを開始したことについて、「あんな厳しい条件から、よく頑張ってくれた」と話しているという。
三浦さんの見事なまでの引き際だった。それは明日への捲土重来につながる。三浦さんはこの登山で自信をつけたという。90歳でエベレストにチャレンジしたい、と早くも次の挑戦へ意欲を見せている。目標を持って人生を生き生きと生きる。われわれに人生の生き方を教える。見習いたい。
左が三浦雄一郎氏、右が息子の豪太さん