大川小学校(宮城県石巻市)の全校児童108人の7割に当たる74人が東日本大震災の津波に巻き込まれ死亡、行方不明となってから8年。ようやく最高裁判所は石巻市と宮城県の上告を棄却する決定を下し、14億円余りの賠償を命じた判決が確定した。
せめて何人かの先生が結果責任を負う強い責任感を持って勇気を奮い起こし、反対意見を押しのけて直ちに行動を起こしていれば、悲劇は起こらなかった。最高裁の決定を聞き、あらためてそう思う。これは人災だと確信する。
津波により多くの幼い命が奪われてしばらくの間は自然災害だと思われていたが、教師らが「小田原評定」をして貴重な時間を費やしたことがわかってきた。
地震は2011年3月11日午後2時46分に起こった。私はそのとき、栃木県南部で車を運転し赤信号で停車していた。突然起こる強い揺れ。車が踊り始め、一瞬エンジン故障だと思いエンジンを切った。それでも強い揺れを感じ、地震だとわかった。信号機を見ると故障していた。
栃木県南部よりも強い揺れを感じただろう大川小学校の教師は当然、生徒全員を校庭に集合させた。しかしこの日、指揮命令する校長は出張のため、不在だった。このため“避難派”と“待機待ち派”の意見が真っ二つに分かれ、「小田原評定」に落ちいり、いつ果てるともない議論を続けていた。貴重な時間はどんどん失われていく。
地震発生から3分後に津波警報が出された。消防団や市の広報車数台が市民に避難を呼びかけ始めた。そのうちの一台が大川小学校に到着。運転手は車から降り、早く避難するように先生をせかした。説得もしたが、教師は「これからどうするか」で頭がいっぱいだったようで、広報車の運転手の呼びかけに耳を傾けなかった。
この光景を見ていた当時小学校6年生の故今野大輔君は先生に向かって「裏山に逃げよう」と大声で先生を促したが聞き入れられなかったという。大輔君のお父さんは今回の裁判の原告団長の浩行さん。今野さんの妻ひとみさんは、先生は息子の必死の進言を聞き入れなかったと聞いていると話す(12日付朝日新聞3面)。
大輔君と同じ見解を持っていた先生もいた。最高権限を持つ教頭は当初、裏山への避難に傾いたが、強硬に「裏山避難」に反対する先生を説得できずに、議論は続けられた。
“強硬待機派”は「津波はこないかもしれない。もし津波が来ずに裏山に登って生徒がけがを負ったら、教師の責任が問われる」と強調し、裏山退避に強硬に反対した。教頭がこの意見を聞いて、裏山退避をためらったとしても不思議ではない。
そのうえ、スクールバスが来ても、生徒を乗せなかった。先生の何人かは生徒全員がバスに乗れないことがわかり、「不公平だ。何度も往復するのは時間がかかる」と言ったという。
貴重な時間は費やされ、津波が海岸に迫っていた。広報車の運転手が、津波が堤防を越えているのを先生に知らせた。それでも5分間、教師らは避難すべきかどうか議論を続けたという。裏山に避難した学校付近に住む住民は眼下を北上川へ向かって歩き出した先生と生徒を見た。その直後、轟音とともに川の堤防が決壊し、児童74人と先生約10人が津波にのみ込まれていった。
最後尾を歩いていた先生1人と生徒数人は裏山に逃れて助かった。津波が来るとわかってからでも避難できるほど校庭と裏山は近かった。5分で安全な場所に行ける距離だった。最後尾を歩いていて裏山に逃れ、生き残ったただ1人の先生は未だに口を堅くつぐんでいるという。
この経緯を知った人々の何人かは「なぜ教師が2派に分裂して校庭で口論を続けたのか、校長不在のなかで教頭派と反教頭派が派閥闘争をしていた疑いが強い。おそらく反対派の教師にとって避難は口実に過ぎず、教頭を批判して打撃を与えたかったのではないだろうか」と推察する。
私はそうは思いたくない。たとえ派閥闘争だったとしても。自らの命がかかっているときにこんな非常識な行動に出るだろうか。しかし教頭を含む教師のほぼ全員が保身に走ったことはいなめないと思う。責任をとりたくなかった。直ちに行動を始める勇気がなかった。状況を的確に判断できなかった。的確に判断できなくとも、最悪を想定して行動することができなかった。このことだけは確かだった。
先生の何人かでも結果責任を負う強い意志を持ち、勇気を抱き、反対派を押しのけてでも裏山に生徒を連れて行く行動をとっていれば、生徒全員が助かった。先生や生徒は課外授業で裏山を行くことがあり、裏山の安全な場所に行く道を知っていたという。明らかに人災だと思う。
先生に強く進言した今野大輔君は天国でチャーチルに激賞されているだろう。先生に進言するには勇気がいったことは想像に難くない。チャーチルは失敗を恐れず、リスクを避けずに勇気を抱いて行動する人間が大好きだったからだ。
最高裁が最後の審判を下しても大輔君やほかの生徒が生き返ることはない。しかし、この悲劇から教訓を引き出すことが大輔君らへの供養と鎮魂になる。
われわれは命を失うかもしれない差し迫った危機に直面したとき、少しの勇気と結果責任を負う気持ちを持って迅速に行動を始める。それが危機を乗り越えるチャンスを切り開く唯一の方法だ。それが大川小学校の先生にはなかった。われわれはこの致命的な失敗を肝に銘じ、この教訓を後世の人々に伝える義務がある。
(写真)無残な姿をさらけだす大川小学校の校舎
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せめて何人かの先生が結果責任を負う強い責任感を持って勇気を奮い起こし、反対意見を押しのけて直ちに行動を起こしていれば、悲劇は起こらなかった。最高裁の決定を聞き、あらためてそう思う。これは人災だと確信する。
津波により多くの幼い命が奪われてしばらくの間は自然災害だと思われていたが、教師らが「小田原評定」をして貴重な時間を費やしたことがわかってきた。
地震は2011年3月11日午後2時46分に起こった。私はそのとき、栃木県南部で車を運転し赤信号で停車していた。突然起こる強い揺れ。車が踊り始め、一瞬エンジン故障だと思いエンジンを切った。それでも強い揺れを感じ、地震だとわかった。信号機を見ると故障していた。
栃木県南部よりも強い揺れを感じただろう大川小学校の教師は当然、生徒全員を校庭に集合させた。しかしこの日、指揮命令する校長は出張のため、不在だった。このため“避難派”と“待機待ち派”の意見が真っ二つに分かれ、「小田原評定」に落ちいり、いつ果てるともない議論を続けていた。貴重な時間はどんどん失われていく。
地震発生から3分後に津波警報が出された。消防団や市の広報車数台が市民に避難を呼びかけ始めた。そのうちの一台が大川小学校に到着。運転手は車から降り、早く避難するように先生をせかした。説得もしたが、教師は「これからどうするか」で頭がいっぱいだったようで、広報車の運転手の呼びかけに耳を傾けなかった。
この光景を見ていた当時小学校6年生の故今野大輔君は先生に向かって「裏山に逃げよう」と大声で先生を促したが聞き入れられなかったという。大輔君のお父さんは今回の裁判の原告団長の浩行さん。今野さんの妻ひとみさんは、先生は息子の必死の進言を聞き入れなかったと聞いていると話す(12日付朝日新聞3面)。
大輔君と同じ見解を持っていた先生もいた。最高権限を持つ教頭は当初、裏山への避難に傾いたが、強硬に「裏山避難」に反対する先生を説得できずに、議論は続けられた。
“強硬待機派”は「津波はこないかもしれない。もし津波が来ずに裏山に登って生徒がけがを負ったら、教師の責任が問われる」と強調し、裏山退避に強硬に反対した。教頭がこの意見を聞いて、裏山退避をためらったとしても不思議ではない。
そのうえ、スクールバスが来ても、生徒を乗せなかった。先生の何人かは生徒全員がバスに乗れないことがわかり、「不公平だ。何度も往復するのは時間がかかる」と言ったという。
貴重な時間は費やされ、津波が海岸に迫っていた。広報車の運転手が、津波が堤防を越えているのを先生に知らせた。それでも5分間、教師らは避難すべきかどうか議論を続けたという。裏山に避難した学校付近に住む住民は眼下を北上川へ向かって歩き出した先生と生徒を見た。その直後、轟音とともに川の堤防が決壊し、児童74人と先生約10人が津波にのみ込まれていった。
最後尾を歩いていた先生1人と生徒数人は裏山に逃れて助かった。津波が来るとわかってからでも避難できるほど校庭と裏山は近かった。5分で安全な場所に行ける距離だった。最後尾を歩いていて裏山に逃れ、生き残ったただ1人の先生は未だに口を堅くつぐんでいるという。
この経緯を知った人々の何人かは「なぜ教師が2派に分裂して校庭で口論を続けたのか、校長不在のなかで教頭派と反教頭派が派閥闘争をしていた疑いが強い。おそらく反対派の教師にとって避難は口実に過ぎず、教頭を批判して打撃を与えたかったのではないだろうか」と推察する。
私はそうは思いたくない。たとえ派閥闘争だったとしても。自らの命がかかっているときにこんな非常識な行動に出るだろうか。しかし教頭を含む教師のほぼ全員が保身に走ったことはいなめないと思う。責任をとりたくなかった。直ちに行動を始める勇気がなかった。状況を的確に判断できなかった。的確に判断できなくとも、最悪を想定して行動することができなかった。このことだけは確かだった。
先生の何人かでも結果責任を負う強い意志を持ち、勇気を抱き、反対派を押しのけてでも裏山に生徒を連れて行く行動をとっていれば、生徒全員が助かった。先生や生徒は課外授業で裏山を行くことがあり、裏山の安全な場所に行く道を知っていたという。明らかに人災だと思う。
先生に強く進言した今野大輔君は天国でチャーチルに激賞されているだろう。先生に進言するには勇気がいったことは想像に難くない。チャーチルは失敗を恐れず、リスクを避けずに勇気を抱いて行動する人間が大好きだったからだ。
最高裁が最後の審判を下しても大輔君やほかの生徒が生き返ることはない。しかし、この悲劇から教訓を引き出すことが大輔君らへの供養と鎮魂になる。
われわれは命を失うかもしれない差し迫った危機に直面したとき、少しの勇気と結果責任を負う気持ちを持って迅速に行動を始める。それが危機を乗り越えるチャンスを切り開く唯一の方法だ。それが大川小学校の先生にはなかった。われわれはこの致命的な失敗を肝に銘じ、この教訓を後世の人々に伝える義務がある。
(写真)無残な姿をさらけだす大川小学校の校舎
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