西遊記で有名な三蔵法師、
孫悟空、猪八戒、沙悟浄を連れて
天竺(インド)へ経典求めて旅出る、
という物語ですが、
ふと気になったのは
なぜ、国禁を犯してまでインドへ
そしてあの膨大な経典を
どうやって持って帰ったのだろう。
三蔵とは、
経(経典)・律(戒律)・論(経典の解釈)
この三つのことで
この三蔵を修めた人を「三蔵法師」
といいます。
ですから、三蔵法師は
たくさんいらっしゃたのです。
西遊記で有名になった玄奘三蔵が
三蔵法師といえば玄奘を指すようになりました。
玄奘がいた頃、
経典というのはまとまった形で
入って来たのではなく、
インドから来た坊さんがその部分部分を
断片的に伝えていたのです。
まして、インドの方が中国語に
翻訳したということでどことなく
ぎくしゃくしていて、
その当時は口伝という講義を
書き写して巻物にしていた
ということです。
これを体系立てて作らなければ
というのが玄奘の願いだったのです。
そして、一番興味を持ったのが
「唯識」というお経です。
玄奘が生まれる50年前
真諦(パラマールタ)という方によって
断片的に伝えられたのですが、
真諦が途中で亡くなり
完全なものは伝わらなかった。
真諦が伝えたかったのは
「ヨーガーチャーラブーミ」といって、
後に玄奘によって、
『瑜伽師地論』と訳されますが、
そのこともどうしても完成させたい
一つの経典だったのです。
玄奘の旅は、17年間にも及びました。
普通は旅するだけで
それなりの価値はあったのですが、
玄奘にとっては無事に経典を
持ち帰って、それを訳さなければ
いけないという使命があったのです。
657部という膨大な経典
やはり、インドですから象さんに
乗せて運んだようです。
しかし途中、象さんも倒れてしまい
玄奘は時の皇帝「太宗」(たいそう)に
手紙を書きます。
唐からいろいろの国を通り
インドへ行って、お釈迦さまの経典を
唐へ持ち帰っている、
どうか助けてほしい。
唐の「太宗」にとっては
周辺の国々の事情を知りたい
ということもあって、
便宜を図って無事に長安へ
帰れるように手配します。
「太宗」の思惑は
玄奘から周辺の国々の
様子を知りたかったのでしょう。
玄奘を還俗させて、外務担当
とかの役職を与えようとしたのです。
しかし、
玄奘にとってはこの膨大な経典
を翻訳するという大事な使命があります。
そして、
翻訳するにはあまりにも時間がない、
自分の寿命は限りがある。
丁寧にお断りをして、
どうか翻訳のために
援助してほしい、と願い出ます。
翻訳するにはそれを書き残す
紙が必要になってきます。
その当時としては紙はとても貴重で
ふんだんに使うためには
どうしても国の援助が必要なのです。
それで、周辺の国々の事情を
弟子に資料を渡して
書かせたのが「大唐西域記」です。
翻訳作業は
1.玄奘が原典を中国語に訳して、
それを「筆受」が意味を確認して
書いていく。
2・「証義」という係はサンスクリットと
照らし合わせて検討する。
3.「字学」はサンスクリット語を音写
するにあたって中国語を探す。
般若とか、あえて訳さない言葉が
適切かどうか見極める。
4.「証梵語梵文」という
正確に訳されたたか再チェック。
5.「綴文」(てつぶん)、
最後につづって明確な文章にする。
こういう手順だったようです。
玄奘三蔵の翻訳が素晴らしいのは
ただ個人がコツコツと訳した
ということでなく、
こういうプロジェクトチームを組んで
翻訳していったということです。
しかし、「太宗」は折にふれて
玄奘を呼び出し、話を聞いたようで
玄奘としては時には集中できなかった
ということです。
たしか、60歳のころ
「大般若経六百巻」の
翻訳に取り掛かっています。
ただでさえ、行くことだけで
大変な事業なのに、
行って、象さんに経典を乗せて
帰ってきて、翻訳する。
その合間を縫って
「太宗皇帝」のご機嫌を取り、
資金の援助や翻訳場の提供
人員、紙などなど、
西遊記の孫悟空・猪八戒・沙悟浄
などは、玄奘にとっては
「太宗皇帝」や周りの人々
いろいろの困難を象徴しているのでは
ないかと、考えてしまいました。