本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

利益とご利益

2015-12-12 21:31:34 | 十地経

利潤追求ということもあって

利益を出すということは

会社や企業にとっては

重大な問題です。

 

宝くじ買って、

神さまや仏さまにお願いしたら

当たった 

いや~、ご利益があった!!

 

というように、

「利益」という字も

読み方によってずいぶんと違った

意味になってきます。

 

というのも、お経の中に

「如来利益三昧」

という言葉が出てきたから、

利益という字が気になったのです。

 

『利』という字

禾(カ)と耜(スキ)からできていて

穀物を作るために耕すこと

から、都合がよいという意味になり

転じて、するどいという意味になった。

だから本来は「するどい」ということが

そのもとの意味のようです。

そこから意味も発展し

「もうけ」という意味も生まれたようです。

 

『益』も、

皿から水があふれている

という字の形から、

多いとか、ます・ふえる

という意味になってきたようです。

 

「如来利益三昧」ということも

この如来利益三昧の力によって

怯弱(キョウジャク)というような

心を対治すると、

そういう内容で出てきます。

ちょっとわかりませんが???

 

利他、ということがあります。

自利利他と

利他ということが仏教の根本です。

伝教大師・最澄のことばに

「己を忘れ他を利するは

 慈悲の極みなり」

というのがあります。

『忘己利他』(もうこりた)です。

 

自利をもって利他となし

利他をもって自利とする、

ということが完成したのが

如来利益三昧

ということでしょうか。

ところがこれがなかなかできない。

 

むかし、修行には行った時、

師匠は、

『如実に修業しなさい』

といわれました。

「如実」 

とてもいい響きをもった言葉です。

興味半分の人からは

がんばれよ!とか

怠けるんじゃないぞ!とか

揶揄されたりもしました。

「如実修行」

実践する人にはとても

勇気をもらう言葉です。

 

如実、ということも

実はまこと、如はかなう、

実相のごとく真実にかなう

ということです。

 

これは私たちの生活を見ていても

生活自体が手段になっている

目的になっていない。

なにかのための手段としての生活

 

ノーベル賞をもらわれた方の

お話を聞いていると

ノーベル賞をもらうためとか

生活のためとか

そんなことで研究されたのではない

もうその研究そのものが目的

なのです。

研究が手段ではない。

 

私たちは、

仕事そのものが手段だから

するとどうなるかというと

面白くなくなってきて

疲れるんです。

そして、

手段になると矛盾が出てくる

人を立てると自分が犠牲になる

自分を立てたら人を犠牲にせんならん

ここのところを

上手に誤魔化し妥協して

折り合いをつけて

人と自分の距離感を保って

きわどいところをやっている

というのでしょう。

 

というより、

お経の中では、

「立場を変えろ!」と

修行してだんだんに

如来になるのではない。

(それは手段です)

それよりも如来から出発せい!

如来の立場に立つんだ!

如来の精神に生きるんだ!

ということを説いています。

 

「志を起した時

すでに心には如来が来ている」

といいます。

若い修行僧を見ていると

よくわかります。

緊張した面持ちで修行に臨む

まだ体は未熟だけれど

その心には仏が宿っている。

 

なにか実践してみると

よく分かると思います。

 

利益(りやく)ということも

本来は自利利他円満ということが

完成したということです。

私たちの行いはどこまで行っても

手段になりがちですが

それが立場を変えて

仕事そのものが目的になると

そこに、

本当の御利益(ごりやく)

が生まれてくるのではねいでしょうか。

 

利益(りえき)といっても

数字の上で生み出すのではなく、

真に人のことを思って

人の立場に立ってやったとき

生み出されてくるものが

本当の利益(りえき)ではないでしょうか。

 

そうなると、

利益(りやく)も利益(りえき)も

根本は同じものを含んでいる

ようにも思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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