本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

負けて勝 !!

2015-12-10 17:26:13 | 住職の活動日記

「負けて勝!」

今どきは流行らないかもしれません。

負けは負けやと、

人生にも勝負にも勝たなければ!

ということが、

今どきの考え方でしょう。

 

子どもの頃、

祖父の膝に抱かれて、

お念仏みたいに

「負けるが勝ちぞ、」

と、繰り返し聞かされたものです。

子ども心にも

何で負けるのが勝ちなのか

分かりませんでした。

 

十地経の中で

「障り」ということが

繰り返し出てきます。

本来持っている力でも

障りがあるために発揮できない。

障りが無くなると

自由自在にはたらけると、

その障りというものの

克服が丁寧に記されています。

 

般若心経にも、

「心無罣礙 無罣礙故無有恐怖」

という一文に

無罣礙(むけげ)という言葉が

でてきます。

これは障りのないという

無礙(むげ)という言葉と

同じ言葉なのです。

 

障りが無くなったと、

十地経では

「無障礙智」という言葉で、

無礙の智という。

障りが無くなった智慧と、

ちょっと分かりにくいですが、

たとえば、

川の水が石の間を流れていく

水は意志とは喧嘩しませんね、

水は石が邪魔したと、さえられた

とはいいません。

さえぎられたと言わず、

その間をぬっていく。

だから水の方から負けていくんです。

しかし、

次第に避けられた水に

石の方が丸められていく、

削られていくのです。

何も水が石を削っているわけでも

なく、かえって

石の方が丸くなっていく。

だから、

水が石に負けて、

そして石を丸くしていく。

 

そういうことが一つの無礙という

たとえになるのでは?

無理やり障りを取り払うのではなく、

こちらから負けていく、

そこに負けて勝という

妙味があるようにおもうのですが。

 

しかし負けて勝ということも、

何でもまけていりゃいいかというと

そうなってしまうと、

腰砕けというか、腰抜けになってしまう。

もう自分はあかんと!!

そういうことを怯弱(きょうじゃく)

という言葉で表してある。

怯、卑怯の怯ですね、

 

そういう私も怯弱なのです。

教えを聞くのもきつくて、

自分にとっては無理難題を

押し付けられているようで、

もう勘弁してくれと、

自分はほっといてくださいと、

根をあげたことがあります。

しかし、

それは許してもらえず、

つまり怯弱の心は

自分が可愛いとかばってしまう

ということです。

修行においてはこの怯弱という

心は対治しなければ、

ならない問題です。

聞いてもわからない、

逃げることもできない、

どうにもならない切羽詰まった

ことでずいぶん悩みました。

 

佛教の中では怯弱のことを

下劣心といっています。

いい加減なところで満足してしまう、

そんな深い仏法は要らない、

まあ、ほどほどのところで、

結構です。

そういうのを下劣心というのです。

なんともきつい言葉です。

 

だから、足るを知るといっても

ほどほどのところで

満足することではありません。

内面的には

無限の欲求を持っている。

どんな問題でも引き受けていこうと

もう結構ですとは言わない

そういう心が生まれてくると

始めて、足るを知る

ということがでてくるのです。

足るを知ると、

内面的に求めていくから

外面的には貧しくとも

それは平気になってくるんです。

有名になりたいとか、

名誉な勲章が欲しいとか

そういうことが必要で無くなってくる

そういう心境になってこそ

少欲知足ということが

成り立つと思います。

 

負けて勝ということも

内面への深い欲求がなければ

内への勇敢なチャレンジというか

勇猛心というものがなければ

出てこないように思います。

 

負けて勝つ

今また考え直してみると

なかなか深いものがあるように思います。

祖父も幼心にえらいものを

植えつけたものだと

あらためて考え直しております。

 

 

 

 

 

コメント
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