ヨーガの会も無事に終わりました。
週一ぐらいではあまり成果は
望めません、
だんだん固くなっていく身体、
昔は楽にできていたことができなくなる。
けど無理せず、
出来る範囲で …
すこしずるしながら、
身体を曲げながら痛いところで
キープする、
片足で立つ、集中が切れると、
足をついてしまう。
不思議に思うのは、
ヨーガは相応と訳します。
そして、瑜伽唯識といって、
仏教の心理学の唯識もヨーガです。
お釈迦さまは、苦行は捨てたけど、
三昧に入るヨーガの方は残された。
インドで行といえばヨーガか苦行です。
だれもやったことのない苦行もされ、
けれども、苦行は体を痛めつけるだけで
悟りを得る道ではないと
苦行は捨てられた。
そして、三昧という定(じょう)の方は
仏教に取り入れられた。
けれども、面白いことに
行といえば、
お釈迦さまが棄てられた
苦行の方が行ということで
注目を浴びるようです。
水をかぶったり滝に打たれたりと
断食したり、不眠不休でとか
そういうことが行のように思いますが
それは行でもなんでもなく、
行に入るための準備段階です。
お釈迦さまが用いられたのは
定(じょう)に入り、
これもただ無念無想になるという
ことだけではなく、
そこには、非常に活発に内面を見る
という「観」ということがあります。
ですから、行といえば「止観」という
ことに尽きるのです。
止と観、
止ということは内ということで
今の言葉では「内観」ということです。
「禅」ということも定の一つで、
dhyana(ディアーナ)が禅那と
訳されて、それが短くなり
単に「禅」と呼ばれるようになりました。
禅宗の禅です。
禅宗の開祖は「達磨大師」です。
本来は座って瞑想して悟りを開く
ということですが、
そのための体力づくりとして
始められ、
達磨大師も少林寺におられて、
そこで体を鍛えるために
行ったのが「少林寺拳法」
ということのようです。
本来は人間の心と体は
切っても切れない関係です。
心と体の一つになったもの
ということで「身体」と書きます。
ヨーガも少林拳も
同じ三昧というか定、禅ということを
得るのが目的ですが
どちらも健康体操のヨーガに
格闘技としての拳法になったり
本来とは違った歩みをしてきた
のではないでしょうか。
玄奘三蔵もやはりインドへの
求道の旅の一つの目的は
「瑜伽師地論」と訳されていますが
ヨーガの経典、「唯識」の
正しい理解が欲しい、ということ
のようです。
ふと面白く思うのは
お釈迦さまが棄てた「苦行」
の方がもてはやされるのは
私たち人間の弱さなのかもしれません。
私はできないけれど、
苦行に励む人に憧れるものです。
けど、
お釈迦さまは仏道とは
特別な人のものでなく、
だれでもが通れる道なのだ
ということを説いておられます。
人より違った行ができるから
偉いのではなく、
だれでもがどこでもできる
そういう道を説かれたのだと思います。
ヨーガも体を無理に曲げたり
することが目的ではなく、
呼吸を整えることによって
三昧に入っていく
ということが本当のことでは
ないかと思っています。