「無住処涅槃」(むじゅうしょねはん)
ということがあります。
涅槃といえば
お釈迦さまが涅槃に入られる
というように亡くなられる
ということもさしますが、
完全な悟りに入られた、
ということも意味しています。
ですから、涅槃に対しては
生死(しょうじ)といって、
これは、迷いの世界ですが
ということをいうのです。
普通には迷い・生死を超えて
悟り・涅槃へ行く
ということが一番の大切なこと
なのです。
しかし、ここでもさらに考えて
悟りに行ってしまって
腰を落ち着けてしまえば、
それは迷いではないか
という疑問も起こってきた。
そこで、悟りにも住しない
また迷いの生死にも住しない
ということで、
「無住処涅槃」ということが
でてきたのです。
そこに腰を落ち着けて安住してしまう
そこが一番の迷いではないかと、
これはどっちつかずということではなく
その場その場で涅槃になる
つまり、ものそのものになる。
ということです。
先日、崇正住職が掲げる
今月の言葉、
木村拓哉さんの言葉で、
「手を抜く方が疲れる」
というものでした。
ひょっとしたことから、
フェイスブックで取り上げられたり、
ヤフーニュースにも載ったり、
はたまた、「週刊女性」の記事にも
載せて頂き、ちょっとした
本蔵院もミニブレイクです。
「手を抜く方が疲れる」
なるほど、私にも思い当たる。
月参りのとき、
少々耳のご不自由なご老人
どうも会話もうまくいかず、
適当に相槌を打ちながら
取り繕っていたのですが、
ある時、少々立て込んで
ちょっとお経を省略して短めに
と思ったのですが、
お経というものは最初から
流れるようにつながっていて
途中どこかを抜くととんでもないことに
ということで、
お経は間違うわ!
別なお経を言えばそれもとちり
結果的には長いお経になって
しまいました。
「今日は立派なお経を有り難う
ございます。」
と、
「あなたのお経はどういうわけか
よく聞こえるのです。」
それからというもの、
どんな場所であろうと丁寧に
間違いなく読む
ということに心がけています。
本当に、手を抜く方が疲れるのです。
無住処涅槃ということも、
その場その時に全力を尽くす。
手を抜くということは
馴れてきて驕りがあるのです。
まあ、ここだったら
これくらいでとか!!
「住」というのは「安住」ということで
安心して腰を落ち着けてしまう。
そこが一番の落とし穴です。
だから、無住処と
休む場所がないということです。
「ちょっと一服」
三浦先生からは一番注意された
ことです。
「一服する時は死ぬときでいい!」
と、一服しようとする心が
一番の修行の妨げであると、
しかし、
仕事して、一服して、また仕事に
というようなことが
一番いいように思うのです。
それはよく見ると、
いい加減なところでうろうろして
生活しているというのが
私たちの姿ですが、
それでは真の安らぎというか
安住はできないのです。
そうではなく、
一服しようという心をなくす、
安住しようとする腰掛を
取ってしまう、 …
なんか難しい話ですが
木村拓哉さんは一言
「手を抜く方が疲れると」
今までごちゃごちゃ言ってきたことを
ほんの一言でいい現されています。
安住する腰掛を取る、とか
難しそうですが、
事実やってみると
人間、集中力をもった時は
自然とそうなってくるのです。
三昧の中で眠り、
三昧の中で起き、
三昧の中で歩む、
というようなことが
お経に書いてあります。
木村拓哉さんも
自分の事実の中から
ふっと出てきた言葉なのでしょう。
本当に恐れ入る一言です。