陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

取っておくものたち

2012-08-25 11:08:42 | weblog
いまちょうど実家の母が、住んでいた家をたたんで、街中にある集合住宅に引っ越そうとしているところで、わたしも行ったり来たり、あわただしい日を送っている。

わたしが実家を離れたあとに引っ越した田舎の家なので、行くのも大変である。街暮らしが長かった母が、父方の田舎で自分には縁もゆかりもない不便な場所に住むことを強いられていたのだから、そこから一日も早く離れたいという気持ちはよくわかるのだが、なにしろ古い家なので、不要な家財道具が山のようにある。その処分に頭を抱えているのだが、一方で、引っ越しに持って行くものの方も大変だ。本やレコードばかりでなく、母がせっせと録りためたビデオテープがこれまた山のようにあって、これも全部持って行く、と主張しているのである。

昔はテレビなど、と軽蔑して、一貫して子供たちにも見せないように教育してきたのに、いったいどこで宗旨替えしたのか、時代劇やKinki Kids(! 堂本剛君が好きなんだそうだ。あのふたりは兄弟じゃなかったのね)が出演した音楽番組のビデオがおびただしくある。『鬼平犯科帳』ならDVDがあるよ、そっちの方が場所を取らないよ、と言っても、自分が録画したものがいいらしい。そんなにあって、実際に見直したりするものなのだろうか。

おまけにネコを撮った写真がこれまた山のようにあるのだが、それがまた同じような、決してうまいとは言えない写真ばかりなのである。「似たような写真ばっかりなんだからさ、少しは処分したら?」とでも言おうものなら、もう大変である。その写真を撮ったときにネコがいくつだったとかなんだとか、そのときはどうしたこうしたで……と、よくもまあ覚えているものだ、とあきれるほど、一枚一枚の「かけがえのなさ」を聞かされる羽目になる。

ビデオにせよ写真にせよ、何かを取っておく、ということは、「そのときの自分」を合わせて保存しておく、ということなのかもしれない。

わたしは身の回りに不要なものがあると、それだけでイライラしてしまって、端から捨ててしまい、ごくたまに「ああ、あれくらいは取っておけば良かったな」と思うこともないではないのだが、そんなときはまあ、縁がなかったのだ、と自分を納得させることにしている。

実のところ、「そのときの自分」を取っておきたくなるような(そうしてそれをときどき取り出して、眺めて楽しもうとするような)心持ちが、気恥ずかしいのだ。いったい誰に対して恥ずかしいのかは定かではないのだが。ちょうど、洗面所で鏡を見ている自分を、誰かに見られたときの気恥ずかしさ、とでも言おうか。

言葉を換えれば、「自己愛」というものをもてあましているのかもしれない。

そう考えてみれば、母などは、そんな逡巡など達観してしまって、自分のほしいものはほしい、やりたいことはやりたい、という境地に達しているのかもしれない。

長く生きている、ということは、おびただしい「そのときの自分」とともに過ごすことでもある。そうしてそれが老いの孤独を少しでも和らげてくれるのであれば、物がたくさんある、ということも、悪いことではないのだろう。