hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

黒井千次「老いるということ」を読む

2009年05月11日 | 読書2
黒井千次著「老いるということ」2006年11月発行、講談社現代新書1865を読んだ。

著者は、NHKラジオ第二放送の講座「こころをよむ」の2006年4月から6月にかけて13回「老いるということ」をタイトルとした講座を持った。そのテキストに加筆・修正を加えたものがこの本だ。

紀元前44年に書かれたというキケローの対話篇「老年について」から2001年に刊行された伊藤信吉の詩集『老世紀界隈で』に至る14人の先人の小説、随筆、詩集、戯曲、映画などの作品を通して老いるということの意味を探った本だ。



これまで、枯淡と呼ばれるような状態が成立しにくくなったのは、老いの形、理想の老年の像が崩れて身を寄せるべき場の失われたことがその原因ではないか、と考えて来たのですが、あるいは、老いの器とも呼ぶべき枯淡の場とは本来一つの虚構ではなかったか、との疑念が頭を提げて来るのを覚えます。

老いるということは、どこかに到達することではなく、延々と老い続けることであり、老い続けるとは生き続けることに他なりません。
 そして積み重なったその瞬間の層が経験として身の内に生き続けているのですから、老いの一瞬は若い日に比して較べものにならぬほど豊かなものである筈です。人間の生にとって、大きくて、広くて、深い領域へと進む可能性を秘めているのが老いの世界ではないでしょうか。老いるとは、その領域に向けて一人一人が自分の歩幅で一歩一歩足を前に出すことであるに違いありません。


著者は、いつまでも若いことが称揚される昨今の風潮に疑問を呈し、青春はせいぜい20年も生きれば出会えるが、老年はその3倍も4倍も生きなければ手に入らないという。

思い出すとは現在の場にしっかり足を踏みしめた上で過去を甦らせる仕事なのです。二重の時間を生きるための前提は、それらが全く異なる二つの世界である、との認識がなければなりません.。


「老年には体力が欠けているか?いや、老年に体力は要求されない」と、紀元前149年に85歳で亡くなった大カトーは言う。要求や期待もされないものが欠けていると嘆くのは滑稽で、自分の欲望が過剰であるにちがいない。
(このあたりは赤瀬川源平の「老人力」を思い出させる)

「ドライビング・ミス・デイジー」における男女の深い友情は、20代、30代で始まった25年の付き合いでなく、70代から始まった付き合いだったためいぶし銀の花が咲いた。



黒井千次は、1932年東京生まれ。東京大学経済学部卒。1955年富士重工業に入社し、勤務しながら創作活動。1969年「時間」で芸術選新人賞。1970年退社。「群棲」で谷崎潤一朗賞、「カーテンコール」で読売文学賞、「羽と翼」で毎日芸術賞、「一日夢の柵」で野間文学賞受賞。



私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)



現在では、米国流に若さ、活力を称える雰囲気が強く、アンチエイジングという言葉があるように、老いを否定しようとする傾向が強い。しかし、いにしえから、人は老いについて悩み、割り切り、凛として立ち向かってきた。老いについて、現代を踏まえたうえで、先人に学ぼうという著者の考えには納得できる。

年取ると出来ることが出来なくなるという現実を見つめ、老人は老人としてメリットを生かす道があるはずだと著者は主張しているようだが、それが何かは答えていない。それぞれの人が長らく生きてきた歴史により答えは違うということなのかもしれないが。

一方、著者の選んだ先人に最近の人が少なく、現在における老後をとらえた作品がないことが残念だ。紀元前の世界から基本的に変わらない点もあるが、家族構成、老人に対する見方など世の中が大きく変わりつつある現在では「老いる」ということはより厳しさをましている。「老いて得たものがあるはずだ」と言われても、どうしても「失いつつあるもの」を数えてしまう。
まあ、だからこそ、老人、老人予備軍は、この本を読む価値があるともいえるのだろう。

著者は、「楢山節考」の歯の抜けたきれいな年寄りとして山へ行くことを自ら希望する「おりん」が、まず、自分の置かれた現状を真正面から受け止める、そして、それから逃げたりそれをごまかしたりするのではなく、老いの中心に向けて一歩を踏み出す決断をくだすという気概をたたえている。
これに対し私は、著者の深沢七郎はギターを抱えた相当な年寄りだとの印象があったのだが、1956年発表当時42歳だったと知って、つまらないことに驚いてしまった。まあ、当時13歳の私からみれば年寄りだったのだろうが。

私はまだ現実に老後を考えるのには、少しだけ早いかなと思っていたが、著者はこう言っている。

老いはある日突然に訪れるものではなく、そこまで生きて来た結果として人の前に徐々に姿を現すのです。としたら、そこで慌てて老いについて考えようとしたり、いかに対処するかに悩んでも本当は手遅れかもしれない。・・・焦りが、昨今の老年論の溢れ返りの中にちらほら見えるような気がします。




私が、身体のほうぼうが痛み出し衰えに悩まされるのはこれからだろう。今は、静かに老いを認め、わずかに出来ることを積み重ね、飄々として正面から老いに向かって行こうと思う。



参考までに目次を以下に示す。

老いの長さ・老いる場所
古代ローマの老い―キケロー『老年について』をめぐって
二十世紀イギリスの老い―E.M.フォースター「老年について」の発想
老いの伝承―深沢七郎「楢山節考」の伝えるもの
老いと時間―「ドライビング・ミス・デイジー」の場合
老いの年齢―マルコム・カウリー『八十路から眺めれば』の示唆
老いの形―幸田文の随筆から
老いの現在・老いの過去―映画「八月の鯨」の表現するもの
老いと病―耕治人の晩年の三作より
老いの完了形と老いの進行形―芥川龍之介「老年」、太宰治『晩年』の視点
老いる意志―島崎藤村の短文から
老いと性―伊藤整『変容』の問題提起
老いの温もり―萩原朔太郎のエッセイと伊藤信吉の老年詩集から
老いのまとめ


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「定額給付金」を民主党に寄... | トップ | オーストラリア旅行をキャンセル »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書2」カテゴリの最新記事