1940年代(小学校入学まで)
食事に使っていたちゃぶ台は、丸テーブルの四隅の足を折りたたむことができて、使わない時は部屋の隅に立てかけてあった。食事は八畳間で、父は床の間の前、母は台所側、私は母の向かいの廊下側に座った。出てくるのはスイトン、グリンピースが多く、たまに出てくる薄い雑炊にも米はほとんどなく、筋張ったさつまいもが幅をきかせていた。まれに登場する米飯は、細長く、パサパサし、小石混じりの外米だ。当時を考えると、母は大変だっただろうが、私はともかく毎日腹ペコだった。
1950年代(高2まで)
居間の掘りごたつの上が食卓になった。お米は米穀手帳による配給米で、布団でくるんだお櫃(ひつ)から茶碗に移すご飯は今思うと美味しいものではなかった。ある日、珍しく肉が少しだけ登場した。あっという間に食べてしまった私を見て、母が言った。
「何かお腹が一杯になっちゃったわ。俊ちゃん、これ食べてくれる?」
母が腹一杯でないことぐらいはわかっていたが、つい箸をのばした。
飯と味噌汁と煮魚など主菜の3品だけの食事がほとんどだったと思う。
1960年代(高校、大学、就職)
父母共に年とっていたので、煮物など年寄食だった。それがいやで、何かというとアルバイトで得た金で外食して、やたら脂っこい唐揚げをよく食べた。ひどい油なのにと、今は思うのだが。
新宿へ出た時は西口のたそがれ横丁の鯨カツ屋へ寄った。ある日、カウンタで食べていると、階段をカッカッと勢いよく登って来て、大きな声で「鯨カツ一丁!」と声を掛けた女性がいた。いなせな女性に惚れそうになった。
1970年代(結婚)
社宅のダイニングキッチンにあるテーブルと椅子で二人向かい合って食事した。おなじみのない料理が出て来て楽しみだったのだが、新聞ばかり見ていて、具体的に覚えているのは安く水っぽい西友豆腐ともやしが多かった。ともかく金がなく、女房には苦労をかけた。
1980年代(母と同居し息子誕生)
テーブルに四脚の椅子が並び、3人共に幼い息子を見て、何やかやと話題にしながら食事が進んだ。メニューは3世代を揃えるのは無理なので、子供向けと中高年向けの2種類になった。母が90歳を超えた頃からは3種になった。
1990年代(2.5人の頃)
母がいなくなり3人になったが、我々夫婦も年寄り食を好むようになり、息子は別メニューのままになった。やがて大学へ進んだ息子は朝食べずに出かけ深夜帰宅することが多くなり、食卓を共にするからこそ家族なのにと思うようになった。
2000年代~今日まで(2人に戻り)
そして息子は結婚し家を出て、5人座れるテーブルに2人だけになった。ヤル気がでないためか、品数はわずかで簡単な料理が並ぶようになったが、私もアッサリ食、少々で満足するようになった。
食事の支度が遅くなり、そして辛そうで、「私に定年はないの?」と嘆く相方に、考えて見ればそれもそうだなと、昼飯は暇な私の分担になった。
やがて、TVをのんびり眺めている私の傍で、一人でバタバタと夕飯の支度する相方の気持ちが、50年経ってようやくわかるようになり、夕飯の下ごしらえなどを手伝うようになった。「二人ですると早いのね」と少し楽しそうな様子に、「確かに料理って、話しながらするものかもな」と思うこの頃です。
「今が一番幸せな時なんじゃない」と、いつでも思う私は、家族に恵まれてきて、能天気のままとなりそうなのです。
確かに仲は良い方だと思っています、私の方は。もっともブログには良いことしか書きませんからね。
ブログでは「相方」と書いていますが、実際は当初から一貫して「〇〇さん」と、互いにさん付けで呼んでいます。子供ができた時、相方は互いに「おとうさん」「おかあさん」と呼びたいと言いましたが、断固拒否しました。互いの関係はそのままにしたかったのです。
誉め言葉につれれて、ついつい変なこと書いてしまいました。失礼しました。
家族の歴史は食卓の歴史に重なるのですね。
いつも思うのですが、冷水さんは良い奥様をお持ちで仲良しでいいなあと思います。
良く一緒にお出かけしてらっしゃいますものね。
うちも同居家族は2人になり、これから同じように過ごすのでしょうが、結構各々自己主張強めなので、お互いの譲り合いも必要だわねと反省したりします(その時だけ)