hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

皆川明『生きる はたらく つくる』を読む

2023年01月03日 | 読書2

皆川明著『生きる はたらく つくる』(2020年6月27日つるとはな発行)を読んだ。

 

つるとはな社の内容紹介

魚市場でアルバイトをしながら、たったひとりで始めたブランド「ミナ ペルホネン」。創業25周年を迎えて初めて明かす、これまでの人生と、はたらくことの哲学。

手描きの図案によるオリジナルのテキスタイル、流行に左右されない息の長いデザイン、生地をつくり、服を縫製する工場との二人三脚のものづくりの姿勢など、独自の哲学と方法により、比類のない服づくりをつづけているブランドは、いかにしてつくられていったのか。

幼い頃に両親が離婚。小学校時代はスポーツに夢中になり、中学高校時代は陸上選手を目指したものの、大きな怪我を負い、断念。目標を失い、ヨーロッパを旅行するなかで、偶然、ファッションの世界に出会う。やがて、人の仕事を手伝いながら、はたらくこと、つくることの価値を発見してゆく。

しかし、自分のブランドをスタートした当初は、とてもそれだけでは食べてはいけなかった。白金台に初めての直営店をスタートさせたとき、預金通帳の残高は五万円、しかも金融公庫からの借金は五百万円、という「崖っぷち」の状態だった。それでもなお、前を向くことを諦めなかったのはなぜか。

 

「ミナ ペルホネン」という(ファッション?)ブランドの創業者・皆川明さんの生い立ちから、ブランド創設・発展、その理念・方針が語られる。

 

ファッションからもっとも遠いところにある私・冷水が皆川さんを知ったのは、あるブログ「new 本当の優しさにふれると。。。」のおかげだ。記事中の写真の、なぜか心に沁みてくる生地の絵柄を見て、その「ミナ ペルホネン」なるものを調べた。また、愛視TV番組「美の壺」に皆川さんが登場し、その考え方に共感、感心した。そして、この本へとつながった。

 

 

第1章 少年時代  幼少時の記憶、陸上選手への挫折

第2章 旅立つ   欧州放浪、ファッションショーの手伝い

第3章 学ぶこと  縫製のアルバイトしながら文化服装学院夜間部で学ぶ

第4章 ミナをはじめる

「せめて100年つづくブランドに」と考えて「ミナ」を一人で創設、マグロ解体のアルバイトしながら頑張る

が売上は伸びず、家庭が壊れる。対価なしなのに長江が初めてのスタッフとなる。

同じころ、コムデギャルソン、イッセイミヤケ、ユウジヤマモトなど若手が自分のブランドを始めていた。

 

第5章 直営店をオープンする

白金台店オープン当日、預金通帳の残高は5万円、金融公庫からの借金は500万円。お客が目に見えて増えていき、やっと皆川が20万円、長江が15万円の月給が出た。

第6章 国内で服をつくる理由

第7章 ブランドを育てる

第8章 よい記憶をつくる仕事

第9章 生きる はたらく つくる

「ミナ ペルホネン」(フィンランド語で「みんな 蝶))

 

 

私の評価としては、★★★★★(五つ星:読むべき、 最大は五つ星)

 

皆川さんは、思いもつかないようなデザインの服を創造し華々しくスタートした日本の有名デザイナー達とは違う。多くの回り道をして、ゆっくり着実に根を張ってきたデザイナーだ。


いろいろな人に助けられ、引き立てられて、立ち上がり、しぶとく広がってきた。それは長距離走者だった皆川さんが先の先を見て着実に努力を重ねる姿を、見るべくして見た人が応援したのだし、困難な状況でも自分の流儀を崩さなかった皆川さんが時代の小さな波に飲み込まれずに、大きな流れに乗って成長したのだろう。

 

順風満帆の会社成長の記録ではないし、成功者の自伝によくあるような後付けの理由による自慢話でもない。

私には、皆川さんのなにより地に足がついた成長戦略と、しぶとい頑張りが頼もしかった。

 

皆川さんへの17時間・10回のインタビューをもとに松家仁之氏が構成した本なのだが、文章はわかりやすかった。

 

 

以下、メモ

 

皆川さんはさまざまな仕事をしたが、それはいつも「手伝わないか?」と声をかけられて始まるものばかりだった。壁の手前で自分にやれることをやっていると、壁と思っていたドアが向こう側から開いた。自分の強い意志で突き進んだことではない。(p46)

他人は案外、自分の姿をよく見ているものではないか。ひょっとすると、自分が思っている自分より、正確に見ていることだってあるのではないか。(p47)

(きっと、皆川さんが、未経験のことでも、工夫して、一生懸命働いていたから声がかかったのだろう)

 

ファッションを仕事にしようと思い定めたとき、ひとつだけ心に決めたことがある。それは、「絶対にやめない」ということだった。 そもそも、苦手なことをしようと決めた理由は、数年ではなく数十年もつづけてやっていれば、なんとかなるだろうと思ったからだ。……

苦しい時期になんとか耐えていくことができたのは、中学高校の六年間の陸上での経験があったからかもしれない。……ファッションの仕事においても、少しずつでも成長できる、と想像することが、自分を助けてくれたと思う。(p59)

 

ブランドが成長してくると、セカンドラインとしてのブランドをもうひとつ立ち上げる、というやり方がある。価格を少し低く設定して、より多くのお客さまが手を伸ばしやすい姉妹ブランドを用意すれば、裾野が広がり、トータルでさらなる成長が期待できる――アパレルの世界でしばしば採用される方程式だ。……

そのような広げ方ではなく、日常生活を特別なものにする服をブランドの軸に据えながら、日常生活のディテールについて、さらなる提案をするのはどうだろうと考えた。…日常こそ高揚すべき時間とぼくは考えている。…普段使いの日用品をつくって届けて裾野を広げるのであれば、ブランド本体の服にもよい影響を与えることになる。ファブリックの余り布をブローチやクッション、バッグなどの小物類に変えてゆく商品づくりにも一層力を入れるようにした。(p174)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 元旦の井の頭公園 | トップ | 傘寿の花 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書2」カテゴリの最新記事