hiyamizu's blog

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宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』を読む

2018年12月07日 | 読書2

 

宮崎賢太郎著『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(2018年2月22日KADOKAWA発行)を読んだ。

 

表紙裏にはこうある。

江戸初期から明治国家誕生まで、命がけで信仰を守り通したとされる潜伏キリシタン。
だが、宣教師たちのたどたどしい日本語でキリスト教の三位一体の意味を理解できたのだろうか。
まして、禁教時代は一人の宣教師もいなかったのだ。
著者は、かねてからこの点に疑問を抱いてきた。
そして、今なお長崎県下で信仰を伝えるカクレキリシタンたちの調査研究から、
彼らが信じてきたものはキリスト教ではないことを突き止める。
キリシタン=「夢とロマン」の幻想に一石を投じる書。

 

一般的にはこう考えられている。

キリスト教は1549年に日本に伝来し、1614年には禁教令が出され、1644年には最後の宣教師が殉教した。1873年(明治6)まで約230年間、仏教を隠れ蓑にした信徒だけの「隠れキリシタン」の時代が続いた。

以下、後藤真樹『かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅』より、

大浦天主堂竣工の翌年、1865年、祈りを捧げるプチジャン神父に「あなたと同じ心だ」と話しかけ、サンタ・マリアの像の場所を聞く女性がいた。230年の時を経て、神父が「信者発見」した瞬間だった。潜伏キリシタンにとっては7代待ち続けたパードレ(神父)との出会いだった。

 

これに対して、著者の主張は、以下だ。

16世紀後半、日本では大名から庶民まで30万~40万人がキリスト教に改宗したが、その多くは、貿易による利益のために改宗した領主から強制的に集団改宗させられたのだ。また、当時日本にいた宣教師は日本語ができず、無学な庶民が果たして、キリスト教の教理を理解できたとは思えない。

そして、潜伏キリシタンは、キリスト教の言葉らしきものが混じった祈りの言葉(オラショ)を受け継ぐが、それは単に先祖から伝わる呪文を、五穀豊穣や無病息災などご利益のために唱えていたに過ぎず、キリスト教信仰とは言えない。
著者は、「迫害されても仏教を隠れ蓑として秘かにキリシタンの信仰を守り通した」というロマンを否定する。
さらに、1865年の「信徒発見」の奇跡も、神父側の創作だと想像する。土着宗教化した信仰を持つ一農民が初対面の外国人神父にいきなり「ここにいる私たちはあなたさまと同じ心の者です」と告白できるはずがないと考える。


私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

死を覚悟し、迫害から身を隠し、代々伝えてきたキリシタンの教えを、伝え通り7代、200年以上経ってから神父であうことができたという「信徒発見」の奇跡、「隠れキリシタンの夢とロマン」にひかれて、これらの本を読んでいる身には、冷水を浴びせられる本だ。

潜伏期のキリシタンの信仰は、実際は土着化した先祖崇拝信仰で、キリスト教とは呼べないものだったし、「信徒発見」もカトリック側の脚色だという著者の主張には興ざめだ。

 

しかし、これまでの定説、人々の夢を打ち破るには、推理が強引で、ほとんどが状況証拠だ。

 

 

宮崎賢太郎(みやざき・けんたろう)
1950年、長崎市生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学科卒業。同大学院人文科学研究科修士課程中退。純心女子短期大学教授などを経て、長崎純心大学人文学部教授。2016年3月退官。キリシタン時代から現在まで、日本人のキリスト教の受容と変容のあり方を追求。カクレキリシタンたちが暮らす地域でのフィールドワークも続けている。著書に『カクレキリシタン』『カクレキリシタンの信仰世界』など。

 

 

以下メモ

 

韓国ではキリスト教信者が総人口の30%なのに、日本は1%以下。

 

フランスでは、1958年には35%のフランス人が日曜日のミサに参加していたが、2004年には5%。

 

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