子どもの頃住んでいた所は、代々木八幡宮の近くだった。木々がうっそうとしたちょっとした山になっていて、境内の林の中には、復元された縄文時代の堅穴式住居があった。作家の平岩弓枝の父親が宮司だった。
9月にはお祭りがあり、八幡様の階段の登り口から、お社まで出店がずらりと並ぶ。小学生の頃は、お祭りのときだけもらうお小遣いを握り締めて、出店を端から一つずつのぞき込んでいくのが楽しみだった。居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、なにしろまだ戦後の匂いの残る昭和20年代である、ちっと変わった、というか、いかがわしく、いんちきくさい店も多かった。
先に針をたらした棒が円盤の上で回転するルーレットのようなゲームがあった。針が止まったところに書いてある商品がもらえる。もう少しですばらしい商品のところで止まりそうになるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのをじっと見ていて、友達と、「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているんだぜ」「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、今度こそとついつい見とれてしまう。
実際にがまの油売りもいた。林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面に円を書いて、「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、あの有名な口上をはじめる。日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、高く放り上げて落下の舞とのたまう。そして自分の腕を切って赤く血が出るのを示す。次に、缶から指にがまの油を取って腕につけ、手拭いでふき取ると、あら不思議、傷口もなくなっている。そしていよいよ、がまの油を入れた小さなカンを売る。最初は「千円だよ、千円!」と言ってもお客さんが互いに顔を見合わせているだけなのだが、取り囲んだ輪の外側から誰かが「一つ頂戴」と言って買うと、何人かが争うように買い始める。一度すべてが終わってからもう一回見ていると、また同じ人が最初に買う。「ほらあれを“さくら”って言うんだぜ」と友達が得意げに解説する。
望遠鏡のような筒状のおもちゃを売っていた。おじさんが言う。「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだよ」。手の指を広げて、このおもちゃでのぞいて、「ほら、骨が透けて見える」。覗かせてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。おじさんが私の耳元でささやいて追い討ちをかける。「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」。色気が付いた中学に入ってからだったと思う。握り締めて汗をかいた百円玉2枚を渡して、さっそく買った。家まで待ちきれず、帰りがけに「物」を見てみる。なんだか、スカートの周りがぼやけて見えるだけだった。
家へ帰って、腹立ち紛れにすぐにばらしてしまった。目を当てるところに鳥の羽が一枚入っていて、物がずれて二重に見え、周辺がぼやけるだけのものだった。
絶対に騙されまいと思っていたのに、あっさりなけなしの小遣いを巻き上げられて、悔しかった。しかし、考えてみれば、色気づいた中学生の男子をだますのは簡単だ。約60年経った今でも悔しいが、なんだかその悔しさも甘酸っぱくなってきてしまった。