hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

父の職業

2007年11月26日 | 個人的記録
私が物心ついてからは、父は定職を持たない時期が多かったが、この時は、易者をしていた。夕方になると、手相を描いたいくつもの看板とくさい臭いのするアセチレンガス、竹ひごの筮竹(ぜいちく)、算木と天眼鏡などの商売道具を自転車に積んで出かけていく。母親は準備を手伝い、「いってらっしゃい」と送り出す。

見栄っ張りな私は、大道易者という父の職業が恥ずかしく、「なんで皆みたいに会社員じゃないんだ」と思っていた。中学に提出する書類には父親の職業という欄があった。以前は無職と書いていて、これも恥ずかしかったが、易者とは書きたくなかった。
私は父に、「易者なんて書けない」と文句を言った。父は、「なら、観相家と書け」と言った。それなら誰も分からないかなと、しぶしぶ観相家と書いた。

体育の授業だったのだろうか、プールサイドに座っていると、前回書いた田中先生が隣に座った。そして、ニコニコして言った。「君のお父さんは易者をしているのか?」
ギィクとして、「ばれた、やばい」と思って、下を向いた。先生のことだから、易者をばかにしているわけではもちろんないし、私に同情してそう言っているわけでもない。ごく普通に「ホホウ」と思って言っていることは分かった。しかし、その後、どんな話になったのかは覚えていない。


「日本一短い父への手紙」だったろうか、当選作の中に、「お父さん。わたし、お父さんが極道だって、一度もいやと思ったことないよ。ほんとだよ」といったような作品があって、「マジかよ」と感動したことがあった。また、「死ねと言った、あの日の私を殺したい」と言ったような作品もあったと思う。

私の父は当時60歳近かっただろう。50年以上前のことなので働くには高齢で、それでも大道に出て頑張っていた。易者を廃業してからも、いろいろな人が家に相談に来て「先生、先生」と言って慕っていた。隣の部屋で話を聞いていると、来る人はたいてい、話しを聞いてもらいたいだけか、あるいはこれで行きたいと既に思っている。父はじっくり話を聞いて、背中を押してあげるだけのことが多かった。
単純理工系の私は、占いはまったく信じないし、拒否感がある。しかし、一言もそんなこと言えなかったが、半世紀遅れで言います。「おとうさん、感謝して、誇りに思っています。ありがとう。そして、ごめんなさい」




コメント (1)
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