hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

母 (7)死

2007年09月21日 | 個人的記録

母が10月末の深夜に死んだ。93歳、老衰で、特に苦しむことなく逝った。もう5年前のことである。

毎日のように病院通いをしていた妻によれば、それまでは食事も、だんだんゆっくりになってはいたが、一人でスプーンを口に運び、受け答えもできていた。
その日は昼飯は食べたようだったが、呼びかけても反応が少なく、眠っているようだったので、そのまま帰って来たと言う。

夜23時ごろだったろうか、2階にあがって寝始めたとき、寝付かれない妻が起きて、導眠剤を取りに階段を降りて行くときにちょうど電話がなった。厳しい顔で戻ってきて、病院から「様子がおかしいから病院へ来て欲しい」と言われたと言う。「何なんで?」と思いつつタクシーを呼び,すぐ着替えて、15分ほどの病院へ掛けつけた。

ナースステーションのそばのいつもの病室へ行くと、看護婦さんが出てきて、「深夜なのでバタバタすると他の人に迷惑となるから個室に移しました」と言いながら、ちょっと離れたところの個室に案内する。ドアが半分閉じられていて、中にいた別の太めの看護婦さんが出てきて、「いまお医者さんが来て説明しますからちょっと待っていてください」と言われて部屋へ入れてくれない。のぞくと、酸素吸入マスクをかぶっていて、「もう駄目なのかな」、「一体どうなっているのか。まさか?」とも思う。

小柄な医者がやって来て、部屋の中に案内された。母を見ると、ピクリともせずに横たわっている。なんだか母のような気がしない。“もっとも最近どんどん痩せてきたからな。子供の頃と人生最後の頃は急激に変わるんだ”と思う。医者がムニャムニャとしゃべっている。
「11時ごろから呼吸が止まっています。タンがからんだのを取ることができなかったからね」

今度ははっきりした声で「それではこれから死亡を確認しますから」と言う。心電図の平らになった線と脳波がどうのこうのと言ってから、「よろしいですか?0時21分ご臨終です。死因は老衰ですね」と威厳のない声で告げる。なんだか死因も、そして今死亡なんてことも納得できないが、事実は事実として認めないと、と頭がきっちりしない。

「タンが取れなかったつて言うのは一種の医療ミスじゃないの」と一瞬思ったが、93歳だし、しかたないかなと思う。最近、母はいつも「もう十分よ。何にもできなくなっちゃって、早く死にたいのよ」と僕に何度も言っていたのを思い出す。

看護婦さんと妻がしゃべっている。
「着替えの洋服は持って来ていませんよね。」
「急だったもので。こんなことになるとは思ってませんでしたので。今日来たときはなんでもなかったんですよ。眠っていると思っていてそのまま帰ったので」何でも自分のせいだと思ってしまう妻はオロオロしている。「誰もあなたに、あれ以上面倒を見るべきなどとは言えないよ」と思ったが、何も言わない。

「お年寄りは急変することがありますからね。それでは身体をきれいにしますので、ちょっと部屋を出ていただけますか」
「はい」
事が一段階ずつ進んでいく。

「ご遺体はこの病院に出入りしている葬儀屋さんに預けるように連絡しましょうか?このまま病院に置いておくことも、申し訳ありませんができませんのでね。それともご自分でご自宅に運びますか?」と、いかにもしっかりした看護婦が聞く。
妻と顔を見合わせながら、「こんなことになった場合は、自宅近くの葬祭場、○○祭典に決めているのですが?」と話す。看護婦さんは、「そうですか」、すこし間をおいて、「すでに互助会など葬儀屋さんが決まっている場合もありますからね。それでもこちらは結構ですよ。では、連絡をとってご相談ください」と言う。
「家に帰ればわかるのですが、電話番号が今わからないので、どうしようかな」と言うと、「では、こちらで調べて、電話をかけてみましょう。○○祭典ですね」と意外にあっさりと看護婦さんが言い、奥へ姿を消す。

妻と二人、ただ突っ立ったままでいると、しばらくしてからさっそく掛けつけた葬儀社の男の人が、もう一人の若い人を連れて挨拶にくる。母は簡単な棺おけに入れられた。地下だろうか、いつも使わない出入り口にバンが止められていて、後ろから棺おけが積まれる。いつのまにか、そばにさきほどの医者と看護婦さんが来ている。車が出るとき皆一斉に手を合わせてお辞儀をする。すべてが、流れるように進む。

結局その晩は、一晩葬祭場に母を預かってもらうことになった。
午前2時頃、家に帰ってから、妻は一睡もできなかったらしい。私が、ぐっすり寝てしまったのを、「自分の親が死んだのに。信じられないわ」と未だに非難される。

翌朝10時頃病院へ行って死亡診断書と入院中の身の回りの荷物を受取った。帰りに葬儀社へ寄り、係員のいかにもやり手の女性が、我が家の菩提寺に電話で相談しテキパキと通夜と、告別式の日程を決定する。

写真の載ったノートを見せ、いろいろなオプションから葬祭のメニューを決定する。母の希望でもあったように、簡単に簡単にと思っていても、敵はプロ、そうはならないようになっている。3,4段階のレベルがあっても、一番下は、どうみてもこれではと言う内容になっていて、選択できない。どれもこれも、一番下と一番上を避けることになり、皆さんこうしていますと言われると、結局普通どおりの、想定よりも華美な式になってしまった。


最初に母がおかしいと思ったのはいつだろうか? 横浜に引越した直後、母は80半ばだったが、歩いて数分のコンビニに行き、帰り道に迷ってしまい、自分で電話して来たり、近所の人に連れてこられたりしたことが数回あった。しばらくすると、一人で行き帰りできるようになり、慣れるのに時間がかかっただけだなと思った。
それまでもあったのだが、92歳になったころからもの忘れがひどくなった。何かと言うと女房を呼んで、物を探させる。そのうち、物が無いといって探すと、まともなら入れないようなところにあることが出てきた。吐血して入院してからは、あれよ、あれよというまにおかしくなっていった。しかし、正常なときと、おかしいときが波のようにやってくるので、家族はついつい希望的に考えてしまう。

年老いるとはどうゆうことなのか、哀しくも、むなしくも、悔しくも、しっかり見させてもらった。母のように、多趣味で意欲旺盛でも、身体が利かなくなると、何もすることができなくなる。
あきらめが早いだけがとりえの私は、早めに判断して、家族に負担をかけたくないと、それだけを思う。

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