父は80歳まで元気で普通に生活していて、旅行先で突然死亡した。私は当時30代で、老いと死いうものを自分のものとして実感できなかった。私が60歳になろうとするとき、母は93歳で亡くなった。このときは、老いてゆき、死に至る母を見て自分自身の将来を見た。
個人的で、暗い話だが、年老いた母について何回かに分けて書いてみたい。
母は私たち家族3人と同居していたが、90歳までは本当に元気だった。足が丈夫で急ぎ足でどんどん歩いていった。子供のころは学校はじまっていらいの秀才と言われていたようで、生活苦の中で懸命に働き、そして年とってからも、日本舞踊、墨絵、詩吟など熱心に学ぶ努力家だった。
90歳になってからは毎月のようにどんどんと身体が弱ってきて、自分で作っていた昼飯も女房に頼むことになり、本を読むことも、墨絵も、詩吟も自分が納得するようにできなくなり、毎回出席していた老人会へも欠席しがちになってしまった。このころから、何にもすることがないと、嘆くようになった。いくらのんびりすれば良いといっても、働き者で、勉強家なので、何もしない状態に我慢できず、嘆いてばかりだった。一方では、「何も心配することもない今が一番幸せだわね」とも言っていた。
90を過ぎてからだろうか、物をどこに置いたのか忘れることがたびたびとなった。「K子さん、○○がないのよ。どうしても、どこにもないの。不思議ね」と毎日のように女房のところに駆け込んでくる。一緒に探してみると、何と言うことない場所にちゃんとある。「あった、あった。やーね、どうしてわからなかったのかしら」と当人は笑っている。
そのうち、一日何度ともなり、当人も不安になり、「おかしいわ」と繰り返す。ときどき、考えられない変な場所にあったりする。女房から話しを聞いた私はこのときは、「ぼけたのかな。でも90過ぎで良いほうじゃないの」とか言って、仕事に逃げて他人事だった。
老人会が開かれる自治センタへ毎月通っていたが、歩いて数分の距離なのに帰りに道に迷い、知らない人に送られて家に帰って来た。会社から帰って、その話を聞いて、「しっかり者のおふくろが、まさかボケたんじゃないだろうな」と思った。本人もショックなようなので、母の部屋へ行って、「今日、道に迷ったんだって?この辺の道はクネクネしてるからね。一度間違えるとわけわかんなくなるよね」と話しかけた。あまり反応がなかった。以後、老人会へは、お友達に迎えに来てもらうか、女房が送り迎えするようになった。そのうち近所へも出かけることは少なくなっていった。
そういえば、土日にときどき母を連れ出して近所を散歩することがあったが、以前は花など咲いていると、うれしそうにしていたが、反応が鈍くなったような気がした。
「することもないし、もういつ死んでも良のよ。尊厳死なんて当たり前よ。安楽死よ、安楽死。誰かしてくれないかしらね」と毎日のように嘆く。女房も、「そう言われても、どうしたら良いかなんて分からないし、毎日暗い顔して言われると、私も気分が暗くなってしまうわ」とぼやいていた。今考えると、どうみてもうつ病になっていたのだと思う。
夜中に何回もトイレに起きる。「とっても辛いのよ。分かる?」と何回も言われた。私はそれより夜中に転ぶのが心配だった。深夜、ドンと音がして、行ってみると、部屋からトイレまで数メートルしかない廊下で転んでいる。
それまでまったく知らなかったのだが、知人の勧めで介護認定を受け、介護保険で廊下、トイレ、風呂場に手すりをつけた。自己負担額が少ないのもありがたいが、なによりケアマネージャーにいろいろ相談できるのが心強かった。大げさだが、国家のありがたみを始めて実感した。
そして、6年前の暮れ、92歳のときのことだった。
「お母さんて、ときどき口の周りに何か付けている」と、女房が言っていた。シーツも茶色に汚れているようで、血かなとも思ったが、お菓子をいつも食べていて、口の周りが汚れているし、本人もとくに何処が痛いと言うわけでもないので、新年に入ってから以前入院したことがある病院にでも行ってみるかということになった。
翌年1月2日の深夜、母の呼ぶ声で目が覚め、下へ降りて母の部屋へ行くと、布団に寝たままで、枕元が数10cmの広さでチョコレート色になっていた。特に苦しそうでもなかったので、シーツ、寝巻きなどを取替えて、その時はそのまま寝かした。翌日、病院も休みに入っていたが、どうみても、血を吐いているとしか思えなかったので、電話して、病院が始まる1月4日に病院へ行った。
胃カメラ検査の結果により、胃には異常がないが、食道に潰瘍があることがわかり、たいしたことではなかったが、食事のこともあり、入院することとした。今回は、特に入院をいやがることもなく、素直に従った。夜中の寝言がうるさいことや、以前の白内障手術の入院で興奮状態になり、他人に迷惑をかけたことから、本人は高額なため嫌がったが、個室にした。1週間ほどは特に何と言う事も無く、食事も美味しいなどと言っていて、女房が毎日見舞いに行っていたせいもあるのだろうか、落ち着いていた。しかし、この入院があの波乱の引き金となったのだった。
続き、母(2)