日本の歌百選+赤い靴の女の子の話
「親子で歌いつごう日本の歌百選」として、文化庁が、6671通895曲の応募の中から101曲を選定した。 http://www.uta100sen.jp/
一位:「仰げば尊し」。昔は卒業式の定番で、誰でも知っていたのだが、「送る言葉」を歌いだした頃からなのか学校で歌わなくなったようだ。童謡ではないこの歌を家庭で、親子で歌い継ぐのは難しいと思う。
二位:赤い靴。赤い靴の女の子は童謡では外国に行ったことになっていて、横浜の山下公園に海のかなたを見ている「赤い靴はいてた女の子」像がある。しかし、墓参りのとき(1月24日のブログ)に通る麻布十番商店街には、モデルになった「きみちゃん」の像があり、実際のきみちゃんは外国に行くことなく麻布十番近くの孤児院でなくなったのだ。*
3位―8位:「赤とんぼ」、「朝はどこから」、「あの町この町」、「あめふり」、「雨降りお月さん」と童謡が続く。8位の「あめふりくまのこ」は知らない。
9位-15位:谷村 新司の「いい日旅立ち」、吉田 正「いつでも夢を」、「犬のおまわりさん」、「上を向いて歩こう」、「海」、「うれしいひなまつり」と続き、15位の「江戸子守唄」日本古謡はわからない。
以下、童謡、スタンダードがつづく。比較的新しいところでは、「川の流れのように」、「秋桜」、「時代」、「世界に一つだけの花」、「涙そうそう」が入っている。
* 以下、赤い靴の女の子のモデル「きみちゃん」の話 麻布十番商店街HP http://jin3.jp/kimi/kimi.html
大正10年に野口雨情によって書かれた童謡「赤い靴」の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、「岡その」さんという人の投稿記事「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」がきっかけでした。
当時北海道テレビ記者だった菊地 寛さんが「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのです。菊地寛著、「赤い靴はいてた女の子」 現代評論社発行、絶版
母「岩崎かよ」は再婚相手の鈴木志郎と北海道の開拓地へ入植します。厳しい環境から当時3歳の岩崎きみちゃんをやむなくアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。結局火事などもあり、志郎は札幌に出て小さな新聞社に職を見つけ、野口雨情と知り合います。幼子を亡くした野口雨情は、「かよ」の自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出した話を聞き、 「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」との会話があり、赤い靴の女の子のイメージ生まれたのではないでしょうか。後年、母「かよ」は、赤い靴の歌をよく歌っていたそうです。
しかし、きみちゃんは船に乗らなかったのです。ヒュエット夫妻が帰国しようとしたとき、きみちゃんは当時不治といわれた結核に冒され、長い船旅が出来ず、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院に預けられたのです。そして、明治44年9月15日の夜、幸薄い9歳の生涯を閉じたのでした。せつない話ですが、母が最後まできみちゃんは外国で幸せにくらしていると信じていたことがせめてもの救いです。
1989年2月麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置きました。それがチャリティーの始まりでした。以来、1円、5円、10円という小さな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付されてきました。昨年1千万円に達したそうです。
「親子で歌いつごう日本の歌百選」として、文化庁が、6671通895曲の応募の中から101曲を選定した。 http://www.uta100sen.jp/
一位:「仰げば尊し」。昔は卒業式の定番で、誰でも知っていたのだが、「送る言葉」を歌いだした頃からなのか学校で歌わなくなったようだ。童謡ではないこの歌を家庭で、親子で歌い継ぐのは難しいと思う。
二位:赤い靴。赤い靴の女の子は童謡では外国に行ったことになっていて、横浜の山下公園に海のかなたを見ている「赤い靴はいてた女の子」像がある。しかし、墓参りのとき(1月24日のブログ)に通る麻布十番商店街には、モデルになった「きみちゃん」の像があり、実際のきみちゃんは外国に行くことなく麻布十番近くの孤児院でなくなったのだ。*
3位―8位:「赤とんぼ」、「朝はどこから」、「あの町この町」、「あめふり」、「雨降りお月さん」と童謡が続く。8位の「あめふりくまのこ」は知らない。
9位-15位:谷村 新司の「いい日旅立ち」、吉田 正「いつでも夢を」、「犬のおまわりさん」、「上を向いて歩こう」、「海」、「うれしいひなまつり」と続き、15位の「江戸子守唄」日本古謡はわからない。
以下、童謡、スタンダードがつづく。比較的新しいところでは、「川の流れのように」、「秋桜」、「時代」、「世界に一つだけの花」、「涙そうそう」が入っている。
* 以下、赤い靴の女の子のモデル「きみちゃん」の話 麻布十番商店街HP http://jin3.jp/kimi/kimi.html
大正10年に野口雨情によって書かれた童謡「赤い靴」の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、「岡その」さんという人の投稿記事「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」がきっかけでした。
当時北海道テレビ記者だった菊地 寛さんが「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのです。菊地寛著、「赤い靴はいてた女の子」 現代評論社発行、絶版
母「岩崎かよ」は再婚相手の鈴木志郎と北海道の開拓地へ入植します。厳しい環境から当時3歳の岩崎きみちゃんをやむなくアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。結局火事などもあり、志郎は札幌に出て小さな新聞社に職を見つけ、野口雨情と知り合います。幼子を亡くした野口雨情は、「かよ」の自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出した話を聞き、 「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」との会話があり、赤い靴の女の子のイメージ生まれたのではないでしょうか。後年、母「かよ」は、赤い靴の歌をよく歌っていたそうです。
しかし、きみちゃんは船に乗らなかったのです。ヒュエット夫妻が帰国しようとしたとき、きみちゃんは当時不治といわれた結核に冒され、長い船旅が出来ず、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院に預けられたのです。そして、明治44年9月15日の夜、幸薄い9歳の生涯を閉じたのでした。せつない話ですが、母が最後まできみちゃんは外国で幸せにくらしていると信じていたことがせめてもの救いです。
1989年2月麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置きました。それがチャリティーの始まりでした。以来、1円、5円、10円という小さな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付されてきました。昨年1千万円に達したそうです。