歴史探偵が残した言葉 週のはじめに考える
2021年2月14日 中日新聞
ざっくばらんな語り口で、歴史を生き生きと伝えてくれた作家、半藤一利さんが先月、九十歳の生涯を閉じました。
「歴史探偵」「昭和史の語り部」という愛称がぴったりあてはまる人でした。
東京・向島生まれ。十四歳の時、東京大空襲に遭って死線をさまよいます。終戦を告げる玉音放送は、勤労動員で駆り出された工場の中で聞いたそうです。
悲惨な戦争に対する疑問
大学を卒業後、出版社で雑誌や本の編集に携わりました。「日本はなぜ、こんな悲惨な戦争を始めたのか」。昭和史に関する半藤さんの探究は、こんな素朴な疑問からスタートしたそうです。
まだ存命だった陸海軍人たちへのインタビューを繰り返します。会った人は計二百人以上にも。
そこで分かったのは、指導者たちが根拠なき自己過信に陥り、精神論で突き進んだことでした。
「軍人が人間をいかに強引に動かしたかの物語」(半藤さん)である昭和史に関する執筆は、会社を辞めた六十四歳の夏から本格化しました。
遅めの再出発でしたが、戦争体験のない人にも理解しやすい言葉を使って数々の著作を発表、多くの読者を得ました。
ここ数年は対談を重ねていました。歴史から得た教訓を、半藤さんの口から直接聞きたい人が多かったということでしょう。
手元にあった著作を読み返してみました。そこから浮かぶのは「日本人は、歴史から学んでいないのではないか」という強い危機感です。代表作の一つである『昭和史1926〜1945』の後書きにこうあります。
「歴史は教訓を投げかけてくれます。反省の材料も、日本人の精神構造の欠点もしっかり示してくれます」。ただし「それを正しく、きちんと学べば」という条件があるというのです。
かつての国民と同じ姿
われわれは、ちゃんと学んでいるでしょうか。都合の悪い歴史に目をつぶり、スマートフォンなどから好きなニュースだけ見て、それで満足していないでしょうか。
「かつてこの国にはおなじことがありました。戦争中の大本営発表を信じて、国民の多くが日本は勝ちつづけていると信じた。(中略)戦争中の国民の姿がダブって見えてくるんですがね」(『令和を生きる』)
終戦までのメディアの在り方についても、つねに厳しい目を向けていました。軍と癒着し、国民を動かした過去についてです。
「新聞は情報をもらうために軍に迎合していって、それまでの軍縮をよしとする主張を吹っ飛ばしてしまう。それからの新聞はいろんな意味で軍に代わって太鼓を叩(たた)いたと思いますよ」(『いま戦争と平和を語る』)
報道に携わるものが忘れてはならない指摘でしょう。
半藤さんの関心は、太平洋戦争だけでなく、幕末、明治維新にも広がりました。
そこで気がついたのは、日本という国は外圧に直面した時、時代に関係なくナショナリズムが高揚するということでした。
日本人は時代の空気に順応しやすい。「そんな人たちは、戦争の悲惨の記憶が失われて、時間が悲惨を濾過(ろか)し美化していくと、それに酔い心地となって、再び殺戮(さつりく)に熱中する人間に変貌する可能性があるのじゃないでしょうか」(『あの戦争と日本人』)
「熱狂してはいけない」というのも、半藤さんが繰り返した警告の一つでした。
メディアが先導して作り上げた「世論」を権力者が悪用し、民衆の間にナショナリズムを高揚させる危険性を指しています。
「熱狂に流されないためにはどうしたらいいか、と問われれば、歴史を正しく学んで、自制と謙虚さを持つ歴史感覚を身につけることです、と答える」(前掲書)
日本には国としてのしっかりした基軸があると半藤さんは書きます。それは、日本国憲法です。
「この平和憲法こそが人類を生かすための最大の理想であると思います」。そして「今がチャンスなんです。日本が率先して理想主義をどんどんやっていけばいいんです」(『使える9条』)。
平和で穏やかな日本を
半藤さんは、東京大空襲で焼け死んでいく無数の人たちを目にしながら、次第に慣れっこになり、無感覚になった自分のことを反省を込めて振り返っています。
そのこともあってでしょう。著作の中で再三「日本よ、平和で穏やかであれ」と記しています。戦争のない平凡な美しさこそ、われわれが守るべきものだ、と。
大切な「語り部」の一人がいなくなってしまいました。
今度はわれわれが昭和の歴史に向き合い、その教えを引き継いでいかねばならないでしょう。