私宅監置 消された沖縄の精神障害者
2021年4月13日 中日新聞
精神障害者を自宅の一室や粗末な小屋に閉じ込める「私宅監置」が認められていた時代があった。明治時代に合法化され、1950年に法が廃止されたが、沖縄では72年の日本復帰時も続いていた。沖縄戦で心に傷を負った結果、隔離に至った人も多いといわれる。戦争と共に沖縄の人たちが長く担わされた「もう一つの犠牲」とはどんなものだったのか。
(木原育子)
本土廃止後、20年超続く 実態を映画化
垂れ流されたままの排せつ物、浮き出る肋骨(ろっこつ)、生気なく天を見上げる無精ひげの男性がいれば、相手を射抜くような眼光を檻(おり)の外に向ける人もいる−。
沖縄における私宅監置の調査のため、六〇年代に国が初めて派遣した東京の精神科医が撮影した写真。フリーのテレビディレクターだった原義和さん(51)は二〇一一年、別の取材の過程で手に入れあまりに悲惨な状況にショックを受けた。
一九〇〇(明治三十三)年施行の精神病者監護法で精神障害者は社会にとって危険とされ、取り締まりの対象になった。監置の責任は家族が負わされ、自宅一部を仕切った座敷牢(ざしきろう)や小屋での監禁が合法化された。法廃止後も、米国の統治下にあった沖縄では本土より二十年以上長く残された。
「写真に『あなたは何者か』と言われているような気がした」。原さんは沖縄の現実を世に問わなければいけないと考え、映画製作を決意。監置されたのはどんな人で、何が理由か。写真の脇にメモ書きされていた名前や撮影場所を手掛かりに、彼らが生きた証しを探す日々が始まった。
十年たち、原さんが監督を務めた映画「夜明け前のうた−消された沖縄の障害者」が完成。全国で公開されている。
名古屋で17日公開
「夜明け前のうた−消された沖縄の障害者」は十七〜三十日と五月三〜七日、名古屋市千種区の名古屋シネマテークで上映される。十七、十八日の上映後には原監督らが舞台あいさつする。
当人も家族も尊厳奪われ深い傷
沖縄における精神障害者の歴史は、戦争と切り離せない。国立精神衛生研究所(当時)によると、六六年時点で精神障害の有病者数は千人当たり二五・七人。本土の一二・九人(六三年)と大きな開きがあった。
年代別では三十代四四・三人、四十代四五・九人と、五十代の三四・二人より多い。多感な青少年時代に沖縄戦を体験した人が、戦後の米国統治時代を含めて精神がむしばまれていったとも考えられるという。四二年に九十八人だった私宅監置も、五八年は二百三人に増えている。
「監置された当人を見捨てる形になった家族も、尊厳を奪われて深い傷を負った。歴史を振り返り、精神医療の在り方をいま一度考える契機に映画がなれば」。精神障害者の家族会でつくる沖縄県精神保健福祉会連合会の高橋年男事務局長(68)は訴える。
沖縄に残る監置小屋の遺構を保存する取り組みに力を入れている高橋さんは「自分を守るため、何かを排除した経験は誰にでもあるはず。監置小屋の遺構は沖縄の捨て置かれてきた歴史を照らすとともに、人間の心にある『檻』も可視化する。『うちあたい』なのです」と話す。
うちあたいとは沖縄の言葉で、思い当たる節があり、落ち着かないとの意。その一言は原さん自身にも響いている。
名古屋市出身で高校卒業後に上京。フリーのディレクターをしながら、二〇〇六年に精神障害者の取材を始めた。映画撮影中だった一八年七月、母が自死した。「死にたいって言った時、『何ばかなこと言ってんだ』と聞く耳さえ持たなかった。あの時『どうしたの』って向き合えていれば救えた。悔やみ切れない」。原さんは、母がしていた女性用腕時計を肌身離さず着けている。
原さんは言う。「私宅監置と自死の共通項は、社会的に強いられた孤独と孤立であり、助けてと言っても誰からも手を差し伸べてもらえなかった絶望だ。僕自身、『どう考えるんだ』と突き付けられる思いを抱きながらカメラを回した」
精神障害者の隔離は続いている。一九年の国内の精神科病床は三十二万床。年々減ってはいるものの、千人当たりの数(二・六)は、経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の約五倍と突出している。平均入院日数も、欧米の約二十日に比べ二百六十五日と長い。地域に受け皿がなく、治療が必要ないのに退院しない「社会的入院」を余儀なくされる人も多い。
一六年七月に相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者十九人が殺害された。施設は人里離れた場所にあり、裁判では被害者のほとんどが匿名で審理された。原さんは「障害者は事件前から見えない存在になっていて、私宅監置の頃とあまり変わっていないのではないのか」と疑問を投げ掛ける。
映画では、小屋から毎夜、女性の美しい歌声が聞こえた、症状が緩和して出てきた人がほほ笑んでくれたといった周囲の人の話も出てくる。ラストには沖縄の県花、デイゴが力強く咲く映像が流れる。原さんは「私宅監置は、果たして過去のものとなったのか。小指の痛みは全身の痛みではないのか。彼ら彼女らは一体誰に殺されたのか。過去を直視することでしか、確かな未来は開けない」と強調した。
「痛み共有のきっかけに」
原さんは映画の公開前、東京都豊島区の会議室で五人の大学生と向き合った。映画を見てもらい、感想を聞くのが目的だった。映画では、精神障害者を隔離し、排除することで世間体を守ろうとした家族の葛藤や、劣悪な環境と知りながら見て見ぬふりをした地域の人の悔いなどが丁寧に描かれている。
「沖縄というと基地問題。全く知らなかった」。立教大の荻野旦(わたる)さん(22)が口火を切った。津田塾大の下園晴歌さん(21)は「入管施設では劣悪な環境が問題になっている。形を変えて今も続いているんじゃないか」と訴えた。
映画に写真で出てくる人の大半は亡くなっている。原さんは遺族に許可を取り、ぼかしを入れず、実名を出した。「人となりが伝わる映像になっていた」「実名の方がリアルで、迫ってくる」という意見が出たほか、自由学園最高学部(大学部)の木村翠(あおい)さん(19)は「複雑な問題は複雑なまま社会が引き受けないといけない」と述べた。沖縄・宮古島出身で、会の進行役を務めた立教大の砂川浩慶(ひろよし)教授(メディア論)は「映画が社会の闇を明らかにし、痛みも含めて共有していくきっかけになってほしい」と語った。
私宅監置 身体的拘束が長い日本の精神医療の源流とも指摘され、精神衛生学会などの資料では1935年に全国で7188人が隔離されていた。沖縄の監置小屋は3畳前後が多く、排せつスペースがない上、外に出ることも許されなかった。医学博士の呉秀三が1918年、人権上の観点から「この病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」と批判した報告書を国に提出したが、見直されなかった。
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