今年、村上春樹はノーベル文学賞をもらえるだろうか。
純文学系は「ノルウェイの森」しか読んでいないけれど、エッセイはほぼ欠かさず読んでいる。
『サラダ好きのライオン』(マガジンハウス)は雑誌アンアンに連載されていたものをまとめたものである。
相変わらず論理明快弁舌爽やか。フムフムそうやそうやと読み進む。
大橋歩の銅版画の挿絵もすてきだ。
『これも書かなくっちゃ…新しいトピックを思いつくのは、なぜかベッドに入って眠りに着く前。翌朝目が覚めたときにはすっかり忘れてしまっている。どうして寝る前に限ってネタを思いつくんでしょうね』
これは私もしょっちゅうやってる。
ブログ記事の文章を思いつくのはたいてい寝床だから、わざわざ起き出してメモを取るのも面倒で、しっかり記憶しておいたつもりが、朝になったらうろ覚え。
あーあ、もっと気の効いたええ文章やったのになぁと消えてしまった記憶を惜しがる。
ま、たとえ覚えていたところで一夜明ければ、名文も駄文でしかなくて、夜書く文は悪魔だ憑くんである。
ラブレターは夜に書いてはいけません。
『分かりやすい文章を書くには、まず自分の考えをクリアに整頓し、適切な言葉を選ばなければいけない。時間も手間もかかる』
です、です。
置き換えたり、前後させたり、組み替えたり、私はいじくりまわさないと読めるような文章にならない。
手書きで原稿用紙に言葉を連ねていける人はすごいと思う。
『人にとって一番大事なのは知識そのものではなく、知識を得ようとする気持ちと意識』
読んだこと見たこと聞いたこと書いたこと言ったこと、忘れてしまってもええんやな。
知りたいという気持ちがあればいいのだ。
『どんなに美しい言葉も、洒落た言い回しも自分の感覚や生き方にそぐわなければ、あまり現実の役には立たない』
文章や言葉ではないけれど、服選びのときに、つくづくそう感じる。
どんなにおしゃれで美しい服でも自分の好みでなかったら、結局、たんすの肥やしになるのである。
『僕はどちらかというと無口です。状況次第相手次第で口が滑らかになることもあるが、ふだんはろくすっぽしゃべらない。』
上に同じ。相手次第でべらべらしゃべることも少なくはないけど、基本的にはだんまりです、私。
家ではほとんどしゃべらない。家族間コミュニケーションがほとんどないことに以前は後ろめたかったけれど、今は開き直っている。
『京都の街はずれの某女子大の正門の掲示板に「愛欲の根を絶たなければ、人生の苦悩は永遠に去らない」と書いてあり、二十歳前後のぴちぴちした健康な女性たちが愛欲の根を断ってしまったら、人口問題にもかかわってくる…』
前後のエッセイに三十三間堂の話が出ていたので、この仏教系の女子大というのは私の卒業したとこでは?
なんだか可笑しくて笑えた。
そして、いちばん共感したのは、
『昼寝の達人。年をとって若いときより楽になったということは、意外にたくさんある。傷つきにくくなる。誰かにひどいことを言われても、それがグサッと突き刺さって夜も眠れなくなるということは少なくなる。まあ、しょうがないやと、昼間からぐうぐう寝てしまう。こんなことで傷ついていたらやってられないやと開き直ったり、刃先をうまく急所から外すコツを覚える…が、気持ちは楽になるけれど、感覚が鈍くなっているということである。…もし、嫌なことがあったら、布団をかぶってぐっすり寝ちゃう』
私は中学生のころから、悲しいことや辛いことがあったら、とりあえず、お布団にもぐって寝てしまった。食より睡眠である。
年を取ったら分別がつくというけれど、どうやってつくのかと若いときから不思議だったけれど、こういうことである。
まぁ、ええか、と、穏やかにやり過ごせるようになりました、私もね。
翻って、落胆というか、アホらしいというか、つまんねぇというのが、以下の挫折本。
仕事場(ミニ図書館みたいな場所)では年に2回数十冊の新刊図書が入り、本の選別は私たちスタッフがやっているんだけど、今年の上半期は我ながら失敗かも。
ベストセラーとはいえ、よりによって、よくもこんなに辛気臭い本ばっかり、選んだもんやわ。
「置かれた場所で咲きなさい」 渡辺和子
「新・幸福論」 五木寛之
「前向き」 吉沢久子
「悩むヒマありゃ、動きなさいよ!」 内海桂子
「ぎん言」
どれも飛ばし読み、パラパラ読みで読んだ気に。
落ち込んだとき、病気のとき、人生のあらゆる苦悩でいっぱいいっぱいのとき、いくらええこと書いてあっても、現実問題として、本なんか読む気力ないと思う。
が、しかし、やっぱり、村上春樹好きやなぁ。これなら沈んでいるときでも読んで元気が出ます。