今朝目が覚めると窓の外に初霜を見た。昨日までは比較的温かい日が続いていたのに、ついに冬将軍の到来か。
昨日の事、「まほろば健康パーク スイムピア奈良」主催のハイキングに参加して新大宮駅から奈良市法華寺町、佐紀町、山陵町に跨る古墳群の間を通り秋篠寺まで歩いてきた。右に左に沢山の古墳が在って「佐紀盾列古墳群」(さきたてなみ古墳群)と呼ばれる陵墓参考地だそうだ。「ウワナベ古墳」と「コナベ古墳」と「平城坂上陵」(ならのさかのうえのみささぎ)は確り確認したものの数が多くて他の物は、何がどれで誰の何か等よく解らないままであったが、頂いた資料を見ながら印象に残った所だけでも辿っておこう。
距離にして約15km、お天気良し、気温9℃は一月にして絶好のハイキング日和であった。
1月12日(火)
国道24線が一条通りと交差する歩道橋に来て一条高校の横手を進んでいくと、濠に囲まれた巨大な「ウワナベ古墳」(宇和奈辺古墳)が見えてくる。全長が205,4mの前方後円墳だそうで前方部は南の方角を向いている。幅広の濠にたっぷり貯えられた水は波風を立てることなく静かで、数羽の鴨の描く線だけが輪になっていた。こんな大きな堂々たる古墳に一体どんな権力者が葬られているのかしらと思っていたら、宮内庁推定によると仁徳天皇の皇后・八田皇女だとか。
我がバカチョンカメラでは最初に見えた景色の全景は収まらず、左側面から始めよう。
そしてその近く北西に「コナベ古墳」(全長204m)が在って、仁徳天皇皇后陪塚となっている。陪塚というからには皇后の側近または親戚の人が埋葬されているのかな?・・・・・いずれにしても陵墓参考地で宮内庁の管轄になっているので発掘研究が進まないわけだ。
(画像はクリックすると拡大する)
ところで第16代仁徳天皇陵(全長486m)は堺市にある「大山古墳」(だいせんこふん)であるのは良く知られているよな。コナベ古墳の北西に在る前述の「平城坂上陵」(全長219m)も仁徳天皇の皇后・磐乃媛命(いわのひめのみこと)の陵であるというから、仁徳天皇皇后は2人居たことになるなぁ~・・・・・西になるほど古墳の年代は古くなるようで、磐乃媛命が先妻で八田皇女が後妻のようだ。
それにしても天皇と皇后様がこんなに遠く離れた所に葬られている事に少々驚いた。。。。。。。
ハイキングコースは整備され、「歴史の道」道標があちこちにあり、石燈籠型の立派なのも数基置かれていた。次の石燈籠を探しながら歩いていると、真ん中に小さい島が2つ在る大きな溜池「ハジカミ池」の傍を通る。端てには1本の大きな木が在ってその根元に小さな石仏が並んでいた。真新しい真っ赤な前掛けは新年の始まりを象徴しているかのようで気持ち良く、村の人達の篤い信仰心を感じた。
民家と民家の間の狭い道に入り直進して右に折れると、突然平城宮跡の第一次「大極殿」が見えた。「あっ 大極殿だ!」あちこちで声がする。
大極殿を左前方に見ながら道路の右手を見ると「平城天皇楊梅陵」(へいぜいてんのう やまもものみささぎ)の案内板が在って、人家と人家の間の先に瑞垣が見えた。平城天皇とは第51代天皇で、誰もがその名を良く知っている嵯峨天皇のお兄さんだそうだ。そしてこの陵も元は前方後円墳(全長250m)であったのが、平城宮造営の折に前方部と周濠が取り壊され円墳となったとか。ふぅ~ん。。。。。
午前11時25分、大極殿を背にして柵の周辺で少し早めの昼食タイムとなり、12時再び歩き出した。大極殿の真正面で記念撮影となった。冷たい地面に寝転んでポーズしている元気な人は誰ですか?(笑)正面のカメラマンさんの横後ろからちょっと失礼して撮らせてもらいました。
催しの行事がある時はいつも朱雀門の方から出入りしていたのでこちらの出入り口は初めての私、なんだか嬉しくなった。
車道を隔てて南方に短い柱のような刈込みが沢山並んでいる所があって、そこは「太膳職」(だいぜんしき)と言われる役所跡だそうだ。宮中の食事や儀式の饗膳などを調理したり、食材の管理等を担当するところだったようである。そしてその刈込みは単なる植え込みではなく昔の建物の柱が在った位置を示しているのだと、お仲間の方が教えて下さった。ふぅ~ん・・・
こちらのゴミ捨て穴から出土した木簡(幅約3cm、長さ20cm前後、厚さ3mm程の板状)、その木片に書かれた文字の解明によって当時都に届けられた全国各地の米や海産物の貢物(みつぎもの)が何時何処の誰から何がどれだけ届けられてきたかが解るらしい。
さらに進むと「佐紀神社」の鳥居の前に来た。そして大きな鯉がバシャバシャ音を立てている釣り堀だったような池を過ぎると又「佐紀神社」があった。池を挟んで同名の神社が在るわけで、後で見た西の神社は「亀畑の佐紀神社」と呼ばれ、神名帳にも記載のある式内社らしい。確かに鳥居の右側に式内と刻まれた石標があった。両神社の御祭神は同じだとか。
境内に踏み込む時間は無く、神社横の道を行くと先ほどの池・「御前池」に囲まれた「釣殿神社」(つりどのじんじゃ)に突き当たる。こちらの御祭神も西の佐紀神社から分神鎮祀と案内板に書かれていた。
小さい竹藪を抜けると立派な八幡神社があって、鳥居の前には私の大好きな蝋梅が満開で思わず撮ったよ。(笑)
続いて第11代垂仁天皇皇后陵(すいにんてんのうこうごう陵)・「日葉酢媛命陵」(ひばすひめのみこと陵)の傍らを通る。正面を見る事叶わず右手斜め後ろに白い瑞垣を見て通り過ぎる。ちなみに垂仁天皇陵「宝来山古墳」(全長227m)は奈良市尼辻駅の近くに在り近鉄電車の車窓から良く見えるのでお馴染みの人が多いはず。
「日葉酢媛命陵」と道路を挟んで直ぐ左手前方に第13代成務天皇(せいむてんのう)陵「狹城盾列池後陵」(さきのたたなみのいけじりのみささぎ )(全長220m)があった。正面に立つと目障りになる物は何もなく、緑の小山と濠、広く敷き詰められた綺麗な砂利地を挟んで伸びる白い瑞垣に、心は落ち着き清々しい気持ちになれる古墳であった。
たとえ一ケ所でいいから是非瑞垣の前から眺めてみたくなり、意を決して突然小走りに走った我儘な私を待っていて下さったお三方様にありがとうございました。1900年近く静かに佇む御陵の景色をずっとずっと心に残します。
こちらの周濠の道路脇に咲いていた花、この季節に凛として咲く「つつじ」は何とけな気な事か!誰にも認められずに閉じるかも知れないところ、今日のお仲間のお一人の目に留まり私も楽しませてもらった。今日が一番綺麗だったかも知れないね。良かったね。この寒空だけど一日でも長く輝いておくれ、シャッターを切りながらそうつぶやいていた。
近鉄京都線「平城駅」を目の前に線路を超えると第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)皇后の「神功皇后陵」(じんぐうこうごうりょう)(全長275m)が在った。「狹城楯列池上陵(さきたたなみいけのえのみささぎ)」と言うらしい。全長の長さからいうと、佐紀盾列古墳群の中で一番大きいのではないだろうか。ハイキングコースの道からは濠は見えず案内板も小高い山の上に在るかのように見えていた。
ところで佐紀盾列古墳群の西の果てがこの「狹城楯列池上陵」で、東の果てが「ウワナベ古墳」のようだ。
ふとエジプトのギザに在る三大ピラミッドの中で最大の「クフ王のピラミッド」(高さ146,4)mを思い出した。ピラミッド内の階段を登って頂上部に置かれた石棺を見た時の感動は忘れられないし、奈良県斑鳩町に在る「藤の木古墳」の朱の石棺を見た時の感動も忘れられないなぁ~。。。。。。。
午後1時、秋篠寺の東門に到着。山門をくぐり苔むした綺麗な林のような庭を通って本堂の前に立つ。40年以上も前に訪れて以来である。国宝の本堂の美しさも、重文の「伎芸天像」のお顔も忘れて、苔庭だけが脳裏に残っている乏しい私。年齢を重ねると観賞の仕方が変わるものだよな。お賽銭を入れながら、今日はご本尊の「薬師如来像」の前で今日在る自分に感謝の気持ちを申し伝えた。
頂いたお寺の沿革略記によると、奈良時代末期776年に第49代の天皇・光仁天皇の勅願により、善殊(ぜんじゅ)僧正の開基になるらしい。平安時代末期(1135年)に兵火で焼失した東西両塔と金堂跡が今の苔庭で、講堂跡に今の本堂が鎌倉時代に再建されたそうだ。それにしても、すっきりしてシンプルで優美な曲線を描く屋根の反りはいかにも優しい感じがするなぁ~。
奈良時代の作「伎芸天像」は兵火で損傷し、頭部のみ当初のままの脱活乾漆(だっかつかんしつ)造りで体部は鎌倉時代に寄木造りで補われているそうだ。ちなみに脱活とは内部が空洞になっている事を言うらしい。美の感じ方は人様々であるが、やや左後ろを振りかえり加減のふっくらした身体の曲線はまるで人間を想わせる様な姿勢で、薄暗い明かりの入り口近くに立っていた。諸技諸芸の祈願を聞き入れて下さるそうで確かにじっと見れば見るほどその魅力は伝わりそうだ。
「面白い石が在るよ。」とAさんが教えて下さり行ってみると、鐘楼の傍らに「かみなり石」と刻まれた石標がぽつんと立っていた。昔、秋篠のこの辺に雷が頻繁に落ちたようで、「もし落ちたら雷さまをこの石に閉じ込める」という伝説があるらしい。自然信仰の時代、雷小僧は人間のいたずら小僧と同じ感覚で愛されていたのかな?(笑)
そうそう上段右端の写真は本堂の手前西側の隅に在る大元堂である。重文の別尊「大元帥明王」(だいげんすいみょうおう)が祀られているそうだが秘仏で、6月6日、年に一度だけ拝観可能なご開帳日があるらしい。お賽銭箱の側に置かれた写真では憤怒の形相で6本の手には蛇が巻き付いている。ちょっと怖いが鎌倉時代に作られたそうな木彫り極彩色の立像、たった一日の拝顔の機会、今年は来てみようかな。
午後1時半、歩きもいよいよ終盤となり南門から秋篠寺を後にしてゴールの西大寺駅へ向かう。
皆んな(25名)は快い疲れを感じながらお互いに「良かったね。」「良かったね。」と笑顔で言い合っていた。
実在か否かわからない天皇、皇后のお名前を沢山読んだけれど、古事記や日本書記には縁遠い私はそれを素直に信じることにしたい。いい景色を眺めながら遙か昔のロマンに浸って歩けたこのハイキングに大満足。本当にありがとうございました。
昨日の事、「まほろば健康パーク スイムピア奈良」主催のハイキングに参加して新大宮駅から奈良市法華寺町、佐紀町、山陵町に跨る古墳群の間を通り秋篠寺まで歩いてきた。右に左に沢山の古墳が在って「佐紀盾列古墳群」(さきたてなみ古墳群)と呼ばれる陵墓参考地だそうだ。「ウワナベ古墳」と「コナベ古墳」と「平城坂上陵」(ならのさかのうえのみささぎ)は確り確認したものの数が多くて他の物は、何がどれで誰の何か等よく解らないままであったが、頂いた資料を見ながら印象に残った所だけでも辿っておこう。
距離にして約15km、お天気良し、気温9℃は一月にして絶好のハイキング日和であった。
1月12日(火)
国道24線が一条通りと交差する歩道橋に来て一条高校の横手を進んでいくと、濠に囲まれた巨大な「ウワナベ古墳」(宇和奈辺古墳)が見えてくる。全長が205,4mの前方後円墳だそうで前方部は南の方角を向いている。幅広の濠にたっぷり貯えられた水は波風を立てることなく静かで、数羽の鴨の描く線だけが輪になっていた。こんな大きな堂々たる古墳に一体どんな権力者が葬られているのかしらと思っていたら、宮内庁推定によると仁徳天皇の皇后・八田皇女だとか。
我がバカチョンカメラでは最初に見えた景色の全景は収まらず、左側面から始めよう。
そしてその近く北西に「コナベ古墳」(全長204m)が在って、仁徳天皇皇后陪塚となっている。陪塚というからには皇后の側近または親戚の人が埋葬されているのかな?・・・・・いずれにしても陵墓参考地で宮内庁の管轄になっているので発掘研究が進まないわけだ。
(画像はクリックすると拡大する)
ところで第16代仁徳天皇陵(全長486m)は堺市にある「大山古墳」(だいせんこふん)であるのは良く知られているよな。コナベ古墳の北西に在る前述の「平城坂上陵」(全長219m)も仁徳天皇の皇后・磐乃媛命(いわのひめのみこと)の陵であるというから、仁徳天皇皇后は2人居たことになるなぁ~・・・・・西になるほど古墳の年代は古くなるようで、磐乃媛命が先妻で八田皇女が後妻のようだ。
それにしても天皇と皇后様がこんなに遠く離れた所に葬られている事に少々驚いた。。。。。。。
ハイキングコースは整備され、「歴史の道」道標があちこちにあり、石燈籠型の立派なのも数基置かれていた。次の石燈籠を探しながら歩いていると、真ん中に小さい島が2つ在る大きな溜池「ハジカミ池」の傍を通る。端てには1本の大きな木が在ってその根元に小さな石仏が並んでいた。真新しい真っ赤な前掛けは新年の始まりを象徴しているかのようで気持ち良く、村の人達の篤い信仰心を感じた。
民家と民家の間の狭い道に入り直進して右に折れると、突然平城宮跡の第一次「大極殿」が見えた。「あっ 大極殿だ!」あちこちで声がする。
大極殿を左前方に見ながら道路の右手を見ると「平城天皇楊梅陵」(へいぜいてんのう やまもものみささぎ)の案内板が在って、人家と人家の間の先に瑞垣が見えた。平城天皇とは第51代天皇で、誰もがその名を良く知っている嵯峨天皇のお兄さんだそうだ。そしてこの陵も元は前方後円墳(全長250m)であったのが、平城宮造営の折に前方部と周濠が取り壊され円墳となったとか。ふぅ~ん。。。。。
午前11時25分、大極殿を背にして柵の周辺で少し早めの昼食タイムとなり、12時再び歩き出した。大極殿の真正面で記念撮影となった。冷たい地面に寝転んでポーズしている元気な人は誰ですか?(笑)正面のカメラマンさんの横後ろからちょっと失礼して撮らせてもらいました。
催しの行事がある時はいつも朱雀門の方から出入りしていたのでこちらの出入り口は初めての私、なんだか嬉しくなった。
車道を隔てて南方に短い柱のような刈込みが沢山並んでいる所があって、そこは「太膳職」(だいぜんしき)と言われる役所跡だそうだ。宮中の食事や儀式の饗膳などを調理したり、食材の管理等を担当するところだったようである。そしてその刈込みは単なる植え込みではなく昔の建物の柱が在った位置を示しているのだと、お仲間の方が教えて下さった。ふぅ~ん・・・
こちらのゴミ捨て穴から出土した木簡(幅約3cm、長さ20cm前後、厚さ3mm程の板状)、その木片に書かれた文字の解明によって当時都に届けられた全国各地の米や海産物の貢物(みつぎもの)が何時何処の誰から何がどれだけ届けられてきたかが解るらしい。
さらに進むと「佐紀神社」の鳥居の前に来た。そして大きな鯉がバシャバシャ音を立てている釣り堀だったような池を過ぎると又「佐紀神社」があった。池を挟んで同名の神社が在るわけで、後で見た西の神社は「亀畑の佐紀神社」と呼ばれ、神名帳にも記載のある式内社らしい。確かに鳥居の右側に式内と刻まれた石標があった。両神社の御祭神は同じだとか。
境内に踏み込む時間は無く、神社横の道を行くと先ほどの池・「御前池」に囲まれた「釣殿神社」(つりどのじんじゃ)に突き当たる。こちらの御祭神も西の佐紀神社から分神鎮祀と案内板に書かれていた。
小さい竹藪を抜けると立派な八幡神社があって、鳥居の前には私の大好きな蝋梅が満開で思わず撮ったよ。(笑)
続いて第11代垂仁天皇皇后陵(すいにんてんのうこうごう陵)・「日葉酢媛命陵」(ひばすひめのみこと陵)の傍らを通る。正面を見る事叶わず右手斜め後ろに白い瑞垣を見て通り過ぎる。ちなみに垂仁天皇陵「宝来山古墳」(全長227m)は奈良市尼辻駅の近くに在り近鉄電車の車窓から良く見えるのでお馴染みの人が多いはず。
「日葉酢媛命陵」と道路を挟んで直ぐ左手前方に第13代成務天皇(せいむてんのう)陵「狹城盾列池後陵」(さきのたたなみのいけじりのみささぎ )(全長220m)があった。正面に立つと目障りになる物は何もなく、緑の小山と濠、広く敷き詰められた綺麗な砂利地を挟んで伸びる白い瑞垣に、心は落ち着き清々しい気持ちになれる古墳であった。
たとえ一ケ所でいいから是非瑞垣の前から眺めてみたくなり、意を決して突然小走りに走った我儘な私を待っていて下さったお三方様にありがとうございました。1900年近く静かに佇む御陵の景色をずっとずっと心に残します。
こちらの周濠の道路脇に咲いていた花、この季節に凛として咲く「つつじ」は何とけな気な事か!誰にも認められずに閉じるかも知れないところ、今日のお仲間のお一人の目に留まり私も楽しませてもらった。今日が一番綺麗だったかも知れないね。良かったね。この寒空だけど一日でも長く輝いておくれ、シャッターを切りながらそうつぶやいていた。
近鉄京都線「平城駅」を目の前に線路を超えると第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)皇后の「神功皇后陵」(じんぐうこうごうりょう)(全長275m)が在った。「狹城楯列池上陵(さきたたなみいけのえのみささぎ)」と言うらしい。全長の長さからいうと、佐紀盾列古墳群の中で一番大きいのではないだろうか。ハイキングコースの道からは濠は見えず案内板も小高い山の上に在るかのように見えていた。
ところで佐紀盾列古墳群の西の果てがこの「狹城楯列池上陵」で、東の果てが「ウワナベ古墳」のようだ。
ふとエジプトのギザに在る三大ピラミッドの中で最大の「クフ王のピラミッド」(高さ146,4)mを思い出した。ピラミッド内の階段を登って頂上部に置かれた石棺を見た時の感動は忘れられないし、奈良県斑鳩町に在る「藤の木古墳」の朱の石棺を見た時の感動も忘れられないなぁ~。。。。。。。
午後1時、秋篠寺の東門に到着。山門をくぐり苔むした綺麗な林のような庭を通って本堂の前に立つ。40年以上も前に訪れて以来である。国宝の本堂の美しさも、重文の「伎芸天像」のお顔も忘れて、苔庭だけが脳裏に残っている乏しい私。年齢を重ねると観賞の仕方が変わるものだよな。お賽銭を入れながら、今日はご本尊の「薬師如来像」の前で今日在る自分に感謝の気持ちを申し伝えた。
頂いたお寺の沿革略記によると、奈良時代末期776年に第49代の天皇・光仁天皇の勅願により、善殊(ぜんじゅ)僧正の開基になるらしい。平安時代末期(1135年)に兵火で焼失した東西両塔と金堂跡が今の苔庭で、講堂跡に今の本堂が鎌倉時代に再建されたそうだ。それにしても、すっきりしてシンプルで優美な曲線を描く屋根の反りはいかにも優しい感じがするなぁ~。
奈良時代の作「伎芸天像」は兵火で損傷し、頭部のみ当初のままの脱活乾漆(だっかつかんしつ)造りで体部は鎌倉時代に寄木造りで補われているそうだ。ちなみに脱活とは内部が空洞になっている事を言うらしい。美の感じ方は人様々であるが、やや左後ろを振りかえり加減のふっくらした身体の曲線はまるで人間を想わせる様な姿勢で、薄暗い明かりの入り口近くに立っていた。諸技諸芸の祈願を聞き入れて下さるそうで確かにじっと見れば見るほどその魅力は伝わりそうだ。
「面白い石が在るよ。」とAさんが教えて下さり行ってみると、鐘楼の傍らに「かみなり石」と刻まれた石標がぽつんと立っていた。昔、秋篠のこの辺に雷が頻繁に落ちたようで、「もし落ちたら雷さまをこの石に閉じ込める」という伝説があるらしい。自然信仰の時代、雷小僧は人間のいたずら小僧と同じ感覚で愛されていたのかな?(笑)
そうそう上段右端の写真は本堂の手前西側の隅に在る大元堂である。重文の別尊「大元帥明王」(だいげんすいみょうおう)が祀られているそうだが秘仏で、6月6日、年に一度だけ拝観可能なご開帳日があるらしい。お賽銭箱の側に置かれた写真では憤怒の形相で6本の手には蛇が巻き付いている。ちょっと怖いが鎌倉時代に作られたそうな木彫り極彩色の立像、たった一日の拝顔の機会、今年は来てみようかな。
午後1時半、歩きもいよいよ終盤となり南門から秋篠寺を後にしてゴールの西大寺駅へ向かう。
皆んな(25名)は快い疲れを感じながらお互いに「良かったね。」「良かったね。」と笑顔で言い合っていた。
実在か否かわからない天皇、皇后のお名前を沢山読んだけれど、古事記や日本書記には縁遠い私はそれを素直に信じることにしたい。いい景色を眺めながら遙か昔のロマンに浸って歩けたこのハイキングに大満足。本当にありがとうございました。