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筒井順慶の通った道

2015-06-10 | 日記
近鉄線平端駅踏切から東方へ50m程の所にある筒井順慶の五輪塔覆堂の前をよく通るのに、歴史に弱い私は「順慶さん」(地元では尊敬と親しみを持ってこう呼ばれているそうな)についてあまりよく解っていない。兼ねてよりもう少し知ってみたいという気持ちがあったので、大和郡山市の「郡山再発見ウォーク〈筒井順慶の通った道〉」に参加する日を待っていた。

  筒井順慶(1549~1584)
 天分18年(1549)筒井で生まれる。父・順昭は28才で病死。幼名・藤勝2才で家督を継ぐ。18才で得度、陽瞬坊順慶を名乗る。筒井順慶が織田信長の援護で宿敵・松永久秀を滅ぼしたのが、天正5年(1577)10月10日。松永久秀が多聞城戦東大寺を焼いてから10年の事。その後、天正8年(1580)織田信長より大和国中一円存知の朱印状を授かり、大和一国の支配を任される。
 筒井順慶は、神仏を信仰し、謡曲・茶の湯に名手の呼び声があった。戦いに明け暮れた日々であったが、36才の若さで病死。 (「郡山再発見ウォーク」で当日頂いた資料より)

  
  6月10日(水)
梅雨に入って今日は早や中休みか?晴れた。歩きのコースは筒井駅に集合して筒井城跡~菅田比売神社~請堤~千体寺~八雲神社~郡山八幡神社~近鉄郡山駅で、順慶公が天正8年に先祖伝来の居城・筒井城を棄て郡山城へと移る時に通ったと思われている吉野街道を歩く。

民家の間の狭い路地を抜けると石標「筒井順慶城跡」が在って、レンコン畑と畦道の北側に金網のフェンスで囲まれた空き地が筒井城跡。そしてその蓮池は筒井城の濠跡だという。へぇ~・・・こちらのレンコンにはロマンがあって、美味しそうだなぁ~(笑)
筒井城は外堀で囲まれた範囲が東西500m、南北400mの平城で、中世のお城としては大きかったそうである。発掘調査では堀を埋める祭祀(さいし)に用いられた沢山のカワラケや大規模な石組の井戸が見つかっているらしい。石仏も出たそうなので何処に保管されているのかと尋ねたが、ボランティアガイドさんの返事はなかった。
       (画像はクリックすると拡大する)

城跡の北側、道路を挟んで「光専寺」というお寺が在った。
こちらには江戸中期の作とされる高さ70cmの木造順慶座像(市の指定文化財)が保管されているそうで、毎年9月の第1日曜日には順慶公の命日法要が営まれるという。そして9月第2日曜日に行われる「順慶祭り」の日には一般公開されるらしいので、今年はその機会に是非訪れてみたいと思う。(この神社の裏手がお城の外堀遺構。)

道路を東に進むとすぐ近くに「菅田比売(すがたひめ)神社」があった。ここは筒井城本丸の一角に位置するそうだ。境内東側の水路は内堀跡らしいが、南側に残っているという土塁は確認できなかった。延喜式神名帳に記載のある式内社で、御祭神は天照大神の姉・伊豆能売神(イズノメ)らしい。難しい事はさておき、拝殿前の狛犬の一方は玉を取り一方は子どもの獅子がひっついていて私には珍しく新発見であった。
ところで同じ郡山市八条町にある菅田神社と何らかの関係があるのかなぁ~。
           

北に進んでスーパー・オオクワの裏手を更に北に進むと量川(はかりがわ)に直面するのだが、ここが「順慶請堤」(じゅんけいうけつづみ)と言われている。
筒井城を洪水から守る為に順慶公が築いた請堤だそうだ。洪水の時は筒井側に堰を立てたので北側の集落丹後庄(たんごのしょう)が水に浸かったそうである。そのような訳で本当か冗談か、筒井町と丹後庄町は今もあまり仲は良くないとか・・・・・そんな事ないよネ。

そこから歩く事15分、「千体寺」に来て驚いた。古めかしい山門と鉄筋コンクリート造りの本堂を見たのである。千体寺縁起によると創建は平安時代(980)とか。
本堂には鎌倉時代に作られたという国の重要文化財、高さ198cm、幅142cm、奥き89cmの紫檀塗螺鈿厨子(したんぬりらでんずし)が有って、阿弥陀三尊が安置されているそうだ。正面と左右には千体仏と言われる小さな阿弥陀千体仏が置かれているらしい。きっと綺麗なお厨子の様で見たい気がするが、拝観には大和郡山市役所の許可が要るとのことである。

のどかな田園風景の広がる中をさらに北へ進むと石の鳥居が見えてくる。
八雲神社」(やくもじんじゃ)で、江戸時代中期の建築、創立や由緒は不詳らしい。小原池という〝ため池”の中の島に建っている。池を掘った土を盛り上げて造られた神社だといわれている。拝殿の右手奥に廻ると朱の一間社春日造りの社殿を直に拝する事ができた。
鳥居と拝殿の間には表門が在って、かつては屋敷が建っていたと考えられているそうだ。
丹後庄の人達には大切な神社のようだが「郡山に住んでるけどこんな神社が在ったなんて知らんかったわ。」「私も」という声が参加者のあちこちで聞こえてきた。
       
 
それからは柳6丁目に続く吉野街道を歩いた。
金魚の養殖場もあって「金魚が泳ぐ城下町」を感じながら天井町を過ぎ、市街の中心地に入るのだが、何度か車で走ったことのある道ながら歩くとこんなにも距離があるのかと・・・・・
「郡山城外堀 八幡堀池跡」の石標を見て間もなく四辻に来ると、銭湯「大門湯」(おおもんゆ)が在って「郡山城外堀・柳町大門跡」の石標を見た。へぇ~。大門湯の名はきっと大門跡の大門 から付けられたんだろうなぁと一人で納得したよ。(笑)
これで郡山城は筒井城よりはるかに大きかったのが解かるよな。     

ところで郡山城跡は桜の名所、石垣に枝垂れる桜が実に美しい。いまは天守台の整備工事中だが平成29年3月末に終わったら、昔の友と一緒にもう一度あの天守台に登ってみたいなぁ~。
「大門湯」の横に噂に聞いていた「金魚が泳ぐ電話ボックス」が在った。何処に在るんだろう一度見てみたいなぁ、とずっと前から思っていたので嬉しかった。(笑)

目の前が「柳八幡宮」とも言われている「郡山八幡神社」である。歩きも終わりに近づいてきた。
こちらの神社の創建は室町時代初期だそうで、元は郡山城跡西側に在ったのが郡山城築城に際し錦町に移され、その後文禄3年(1593)に今の柳町に移されたそうだ。郡山鎮護の八幡宮として歴代城主の尊崇を得て今日に至っているらしい。
境内には金毘羅宮等7つの摂社がある大きな神社で柳町の人達の篤い信仰があるようだ。
      
八幡神社を後に路地を曲がり曲がって歩いて行くと「郡山城 中堀跡」の石標を見た。 郡山城は内堀・中堀・外堀と3つのお堀が有ったのだ。歩いてこそ目に留まる小さい石標にはちょっとした感動を覚えるなぁ~。
一角にお地蔵さんの祠が在って皆んなでお参りした。ついでながらお地蔵様の日は23日と24日で、お参りの際に鰐口を四回打つそうであるが、4回とは知らなかったよ。ご真言は確か「オン カカカビサンマエイ ソワカ」だったかな。
       午前11時30分、ゴールの近鉄郡山駅に到着。ハイ お疲れ様。


 順慶に関するお話
1つ、皆がよく知っている「元の木阿弥」という諺は順慶に由来しているという説。
父の順昭が28歳で病死し順慶が2歳で家督を継ぐわけだが、戦国時代故に攻められるのを防ぐ為、遺言に「自分の声によく似た木阿弥という盲人を寝所において、病中だと見せかけるように」と命じたそうだ。やがて順慶が成長し、木阿弥は沢山のご褒美をもらって元の木阿弥に戻ったという。

1つ、順慶が秀吉に献上したという「筒井筒」と呼ばれる修復茶碗が重文に有るそうで、写真を見せて下さった。
秀吉の家来がうっかり割ってしまって打ち首にされそうになった時、才ある武将細川幽斎が「筒井筒 五つに割れし 井戸茶碗 咎をば我に 負いにけらしな」と詠んで秀吉の怒りを鎮めたという。

知らなかった事いろいろ見て聞いて、参加してよかった よかった。
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