しいかのブックトーク

毎月読んだ本や日常の諸々を記録します。

晩菊・水仙・白鷺

2007-05-06 17:47:48 | こんな本読みました

Bannkiku   林 芙美子  著     講談社文庫

 六編の短編集。

 この短編集は、時代背景ほとんどが戦後すぐのもの。

 傑作「晩菊」は、昭和23年発表、女流文学賞受賞作。

 かつて愛し合った男と女が、戦後、再会。

 男は、年上の女に金を借りる事が目的なだけで、会いにくるのだけれど、女は、男に久しぶりに会う事にときめきを覚える。

 けれど、実際に相対すると、かつての恋もさめ、女はもう男に興味を失い、男は金を貸さない女に殺意すら抱く。

 初老の女の内面、心の動きが描かれて、見事である。

 

 時というのは、人の心を変化させる。

 二人は、並行して年をとり、現在を比較しあい、幻滅の輪の中に沈み込んでしまっている。

 恋とか愛が、本能的なもので、一時期にぱっと燃え上がり、急速に終焉する。

 精神面の理想は、もろくも崩れ去る。

 寂しいけれど、現実はこんなものなのだろうと思う。

 男と女の哀しさ、人間の哀しさ、それでも、人はそれを踏み越えて生きていくのだ。


清貧の書 他

2007-05-06 17:36:32 | こんな本読みました

Seihin  林 芙美子  著   講談社文庫

 昭和8年刊行された「清貧の書」ほか5編の短編集。

 林は、自身の生い立ちや男性遍歴を基に書いている。

 貧しさや恵まれない環境は、切々として哀しい。

 20代の頃、これらを読んでいたら胸に響いてこなかったであろう事柄が、現在の私にはしみじみと胸に沁みこむ。

 関川夏央著『女流』で有吉佐和子と林芙美子の評論を読んだけれど、二人のなんという違い。

 時代も無論ちがうけれど、裕福で恵まれた環境に育った有吉と、逆境の中でもがきながら育った林では、考え方や生き方が当然異なる。

 「清貧の書」では、一組の夫婦の愛情を描いたものだが、これはまさに林の経歴そのもの。

 実生活の林は、最後に画家の男性と暮らすが、この小説はそれがモデルとなっている。

 ひとりで暮らしたいと願いながらも、次々と男を変えていかなければ生活できない暮らし。

 その母親もまた、貧しく、貧しい女と貧しい男がくっついて、ようやく暮らしていけるという生活。

 せつない暮らしだからこそ、浮かび上がる夫の愛情、母の想いが、救いである。

 「屋根裏の椅子」は、林が実際にパリに留学していた頃の生活が窺えて、興味深い。


花伽藍

2007-05-06 17:10:46 | こんな本読みました

Hanagaran  中山 可穂  著   新潮社

 5つの短編集。

 恋愛物とは知っていたけれど、すべてレズビアンのものと読んでわかった。

 私には、異世界の話だけれど、それぞれの愛がひたむきで、いやらしさを感じさせないのは、主人公が自立して、まっすぐに生きている点。

 一番印象に残ったのが、『驟雨』。

 学校の女性美術教師と保護者の母親。 最初は気の合う女同士?だったのが、次第に求めあうようになり、母は家を出て、2人で暮らすようになる。

 レズの女性の晩年を描いたもので、一緒に暮らして30年でも愛想をつかすどころか、愛が深まるばかり。

 寝たきりになった伊都子の、下の世話までゆき乃は喜んでするのである。

 互いに枯れ木が朽ちるように、一緒に死にたいというのが2人の願いで、高齢化社会には、こんなカップルもあるのかもしれないなと思う。

 男であれ、女であれ、人間同士の結びつきは、その相性がぴったり合う人と巡り合うのは、まれな事で、そんな相手にめぐりあった幸せを感じさせる。


愛の流刑地

2007-05-06 15:58:39 | こんな本読みました

Airuke1

Airuke2  渡辺 淳一  作   幻冬社

  日経新聞の連載で「愛ルケ」として話題になった小説。

  映画も、ドラマも観ました。

  この物語については、賛否両論色々あり、読んだ人の年齢や立場、人生経験、そして、恋愛経験値により、まったく感じ方、感想が異なるはず。

 以前の不倫物『失楽園』でも「愛の結末は、死によってあがなう」、という点で、似ている。

 「失楽園」では、ものがたりの小道具、「薪能」や2人が死ぬ前に飲んだ「シャトーマルゴー」が印象に残っていて、今回の大きな道具は「越中おわらの風の盆」である。

 渡辺氏は、こういう演出がとても上手い。 読み手にこの小道具に大きな興味を抱かせるのである。 薪能は、ずい分とブームになったよね。

 さて、小説の大半は、情事の場面が細かく描かれていて、エクスタシーを知らない冬香が、菊治により目覚めて、その深みにのめりこんでいく、という、刺激的な内容。

 読んでいるとドキドキしてくるし、きっとこれ読んで興奮したりするんだろうなと思う。

 でも、私が衝撃と感動を受けたのは、「愛」について。

 今、中年のおばさま方にブームになっている、韓国ドラマや、若者に人気の純愛ドラマや小説、これらは、「体より心」に重きをおいている。

 確かにそれは美しいし、私も「体より心」が大事と思っていました。

 それに真っ向から対立しているのがこの『愛の流刑地』なのです。

 とにかく「体」、会えばすぐ結びつき、互いの性格とか考え方で惹かれあうのでなく、体の相性のみ、という印象。  

 しかし、これも、人間の本質ではないか、むしろこちらが重要で、この部分にむりやり目をつむって、「美しさ」を強調し、自我を抑えて社会的に生きる事を正しいとする傾向の方が、無理なのではないか。
 みんな、本当はわかっているのに、いやわからなくとも本能的には知っているはず。
 社会にまっとうに生きようとするから、この気持ちを殺して、「正しく生きている」だけなのだと思うのです。
 渡辺淳一は、この愛の究極の姿を小説にしていて、だから、たくさんの論議を呼ぶのです。
 
 冬香のこんな終わり方には、ものすごく羨ましく、気持がよくわかるのです。
 確かに、これが死をもって終わるのでなく、冬香が子供3人連れて菊治と再婚したら、あるいは、2人の不倫が何年も続いたら、互いに飽きやマンネリ化が生じ、ありきたりの破局になるはず。
 そうならない為の終わり方、それが恋愛の美学、なのである。
  実際には反社会的で眉をひそめる事だけど、こういうのも人生の生き方として、ありなのかもしれない。 それが、文学であり、この小説の価値の大きさなのである。