渡辺 淳一 作 幻冬社
日経新聞の連載で「愛ルケ」として話題になった小説。
映画も、ドラマも観ました。
この物語については、賛否両論色々あり、読んだ人の年齢や立場、人生経験、そして、恋愛経験値により、まったく感じ方、感想が異なるはず。
以前の不倫物『失楽園』でも「愛の結末は、死によってあがなう」、という点で、似ている。
「失楽園」では、ものがたりの小道具、「薪能」や2人が死ぬ前に飲んだ「シャトーマルゴー」が印象に残っていて、今回の大きな道具は「越中おわらの風の盆」である。
渡辺氏は、こういう演出がとても上手い。 読み手にこの小道具に大きな興味を抱かせるのである。 薪能は、ずい分とブームになったよね。
さて、小説の大半は、情事の場面が細かく描かれていて、エクスタシーを知らない冬香が、菊治により目覚めて、その深みにのめりこんでいく、という、刺激的な内容。
読んでいるとドキドキしてくるし、きっとこれ読んで興奮したりするんだろうなと思う。
でも、私が衝撃と感動を受けたのは、「愛」について。
今、中年のおばさま方にブームになっている、韓国ドラマや、若者に人気の純愛ドラマや小説、これらは、「体より心」に重きをおいている。
確かにそれは美しいし、私も「体より心」が大事と思っていました。
それに真っ向から対立しているのがこの『愛の流刑地』なのです。
とにかく「体」、会えばすぐ結びつき、互いの性格とか考え方で惹かれあうのでなく、体の相性のみ、という印象。
しかし、これも、人間の本質ではないか、むしろこちらが重要で、この部分にむりやり目をつむって、「美しさ」を強調し、自我を抑えて社会的に生きる事を正しいとする傾向の方が、無理なのではないか。
みんな、本当はわかっているのに、いやわからなくとも本能的には知っているはず。
社会にまっとうに生きようとするから、この気持ちを殺して、「正しく生きている」だけなのだと思うのです。
渡辺淳一は、この愛の究極の姿を小説にしていて、だから、たくさんの論議を呼ぶのです。
冬香のこんな終わり方には、ものすごく羨ましく、気持がよくわかるのです。
確かに、これが死をもって終わるのでなく、冬香が子供3人連れて菊治と再婚したら、あるいは、2人の不倫が何年も続いたら、互いに飽きやマンネリ化が生じ、ありきたりの破局になるはず。
そうならない為の終わり方、それが恋愛の美学、なのである。
実際には反社会的で眉をひそめる事だけど、こういうのも人生の生き方として、ありなのかもしれない。 それが、文学であり、この小説の価値の大きさなのである。