「幕末という事で読んでみた。大名家が崩壊する寸前の最後のお姫様達の運命はそれぞれである。徳川・松平家を中心に他藩(松前藩・盛岡藩・秋田藩・二本松藩・佐倉藩・請西藩)などなじみのない藩のお姫様達の嫁ぎ先をめぐるあれこれが興味深い。写真で見る姫さま達は一様に細面であり、小柄ながら、凛としたお顔立ちである。武家の娘としての風格がにじみ出ている。薩摩藩篤姫や、「八重の桜」の松平容保に嫁ぐはずだった照姫の話が印象的。解説者が独自の目線で自分の見解も交えて書いているのがみえみえで、読み物としても面白い。」
・・・ここまでは読書メーターの引用。
読書メーターでは文字数に限りがあって全部を書ききれないので、ここに追記する次第。
私の印象に残った会津松平家の松平容保(かたもり)の話。
NHK『八重の桜』で八重の兄、山本覚馬の仕えるお殿様である。
ここではお姫様にスポットが当てられている。
会津藩23万石の第8代当主松平容敬(かたたか)には後継ぎがいなかった。
生まれてもすぐ夭折して、育たなかったのである。
会津初代藩主の保科正之は、2代将軍秀忠の庶子であり、その親戚の保科正丕(まさもと)の側室の娘、照姫は「聡明な美少女」として10歳に育っていた。
そこで照姫を養女に迎え、次に婿養子を探した。
美濃高須藩3万石の当主松平義建(よしたつ)の六男銈之充(けいのすけ)、後の容保を養子とした。
時に容保9歳、照姫12歳。
ところが皮肉な事に、この年に容敬の側室が敏姫を出産。
当然、血の繋がるわが娘と容保を結婚させたく、照姫を豊前中津藩主奥平昌服(まさもと)へ嫁がせた。
けれど照姫は美男で心も優しい容保に恋慕の情があり、泣く泣く嫁していったのである。
確かに、陣羽織姿の容保は凛々しく、いい男にみえる。
ところが敏姫はうつ病となり、心配した照姫は婚家を去り、会津藩江戸屋敷へもどってきてしまう。
そして容保と敏姫の義姉として、鶴ヶ城の奥を束ねる事となる。
22歳になった容保は14歳の敏姫と祝言をあげるが、敏姫は19歳で亡くなってしまう。
翌年妻に死に別れた容保は、文久2年、京都守護職を受け、上洛する。
孝明天皇から下賜された衣を仕立て直した陣羽織の写真がこれであり、照姫のもとに届けられ、照姫は感動して句を詠んでいる。
精神誠意仕えた容保が諸々の出来事により、新政府から討伐の対象となり、会津鶴ヶ城に戻り、籠城戦となったのは周知のごとくである。
その際に城内で中心人物となり、負傷兵の看病や奥女中を監督したのが照姫なのである。
なんだか八重だけがすごく活躍していたように思えたけど、そうじゃないんだね。他にも活躍した女性のドラマはたくさんあるようだ。
結局、会津藩が降伏開城して、照姫は実家に戻り、53歳で生涯を閉ざすが、初恋の相手は松平容保、と言われている。
この写真は、鶴ヶ城で家臣と写したもので、本を読んでいるのが容保、隣が照姫といわれている。
もうひとつのお話。
信濃国上田藩最後の殿様、松平忠礼(ただなり)。
9歳で家督を継いだ忠礼は写真好きで幕末から明治初期の写真を数多く残している。
藩がなくなり、廃藩置県で知藩事を任ぜられた忠礼は米国に7年、留学する。
留学前に結婚したのが遠江国掛川藩主の娘、宝姫であり、15歳で嫁いで留学前に3年間一緒に生活したが、忠礼は米国から宝姫と離婚したいと手紙を出している。
その理由が「宝の無口で、感情のない態度や、自分に対しての無関心さ」という事であり、米国でかなり進んだ結婚観をもっている為、はっきりとした態度を示したのである。
忠礼はまた、「結婚とは、互いに慕いあうものでなければ、一生を共にすることはできない。」とも言っている。
当時の環境であれば、慕い合うもなにも、結婚は家と家の繋がりであり、互いの感情などなくて当たり前の世界であったはずだ。
まわりの人間は当然反対を唱え、「夫人は飾りものにして、気に入った側室をおけばいい」などと勧める。
けれど忠礼は「それは日本の旧慣で、支那あたりではあるかもしれないが、開明の米国ではありえず、そこで学んだ上は妾を持つことなどはできない。」と強く主張。
なんてかーっこいいんでしょう。
結局、離婚が成立。
忠礼は帰国後、高知新田藩藩主の娘、山内豊子と結婚。
満足のいく相手とめぐり合えたようである。
けれど、豊子に子ができず、かねという側室を持つも、子に恵まれず、家督は弟が継ぐことになり、忠礼は45歳で死去。
豊子は81歳まで生きている。
他にも仙台藩最後のお姫様、伊達保子は蝦夷(北海道)へ移住し、「開拓の母」と呼ばれている、とか大垣藩最後の藩主と結婚した、岩倉具視の娘、極子(きわこ)の話とか、ドラマがたくさんあって、大河ドラマを沢山観たような気分になれる本である。