お寺さんぽ Ver.03

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山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 [後編]

2007年12月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も武田・北条の両将と激戦を交えながら、一歩も引かなかった名将「長野業正(ながの・なりまさ)」、その子「業盛(なりもり)」です。

侵攻する武田勢を度々撃退し続けた、智勇兼備の名将「長野業正」
彼が強かった理由の一つとして、配下である「長野十六槍」という勇将らの存在がありました。

そのメンバーは後に新陰流の祖となる「上泉信綱」を筆頭に、「白川満勝」、「大道寺信方」、「岸信保」といった顔ぶれでして、武田氏はこうした将らの活躍にも手を焼いていたようなのです。
後に長野氏を撃退した「武田晴信」は配下の将をできる限り雇用しようとしていましたから、苦戦すると同時にどれだけ高く評価していたのか、分かるでしょう。

こうして衰退する名門・上杉家の防波堤として活躍した業正ですが、永禄四年(1561)に無念の病死。

”その死が分かれば、すぐ武田は仕掛けてくるだろう”

そんな理由で業正の死は秘せられていましたが、いつしか露見して攻撃を受けることとなってしまうのです。
晴信(※写真)は業正の死に小躍りして喜んだという話も残されています。

さて、上野国箕輪城主はその嫡男「長野業盛」となっていました。
これを組みし易しと見た武田勢はさっそく出陣したのです。

永禄四年(1561) ⇒あるいは九年という説のが正しいかもしれません。
上野国へと進出した武田勢。
これには川中島合戦での信濃攻略によるリスク(※もちろん「上杉謙信」です)に懲りたため、関東方面へ兵を進める方策をとったようです。
兵を率いた晴信は瞬く間にその支城を次々攻略。
これまでどうしても落とせなかった業正の嫡男「長野業盛」が守る箕輪城へと迫ったのです。

若いながら勇敢な業盛は果敢に兵を出し、若田原にて野戦を挑みます。
しかし、二万とも称される武田の大軍にはかなわず、消耗・撤退した末に籠城策をとりました。
この時、守備隊はわずか千五百程度の小勢。
それを二万という大軍でとり囲んだ武田勢。
各所の小競り合いによって双方に多数の犠牲者を出しながら、ついに守備隊は業盛以下二百程度にまで減少してしまうのです。

病を得た父「長野業正」が業盛を枕元へ呼び寄せて残した遺言。
わしが死んだ後は塔婆を立てず、仏事を営まずに喪を秘せ。敵が来攻しても決して降伏はするな。もし、武運尽きたなら潔く討死せよ。それこそが最大の供養となる

業盛はそれを守り、最後まで降伏することを潔しとしませんでした。
最後を覚悟した業盛。
気力を振り絞って出陣した際には、白柄の太刀を振るって自らも奮戦。
全員で一斉に打って出た後に城へ戻って、ここで自害するのでした。

なお、後に「武田晴信」はここを上野攻略の拠点として、頼れる「内藤昌豊」を城主とするのです。

余談ですが。
十八歳となる業盛の正妻は美女として知られ、晴信に側室となるよう強要されましたが、これをかたくなに拒み、斬られたそうです。
うふふ、フラれてやんの。


【 戦国メーター★長野業正・業盛 】
 家柄: ■■■■□ 在原業平・祖先が真実ならば。
 実力: ■■■■□ 二人平均化しちゃいました。業正は智勇兼備の名将。
 地理: ■■■□□ まぁ、天下とか関係ないでしょうけどね。

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※ひでるさんは武田キライなんですが。
 氏康かるた、とかないかな。ないか。


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