楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

ハワイアン・ウエディング・ソング(Hawaiian Wedding Song)

2021年01月21日 04時34分35秒 | 海外旅行2
思い出があまりにも強烈で、
2021年に掲載したものの再掲です。

(2015/8/1 )暑い陽射しの中、PM13:00頃、
家から散歩に出ました。
十メートルも歩かないうちにどっと汗が出て、
引き返そうかと思ったほどでした。

今日も予想では猛暑日になりそうです。
日陰を選んで歩くのですが、家に帰るまでの一時間の内、
日差しの中は25%、十五分程度ですが、
家に帰ると汗で着ていたものが搾れるくらいになります。


その日は近所のスーパーの日陰で
ハワイアン・ミュージックのイベントがあり、
生演奏のベースギター、ウクレレが2人、
エレキギターでハワイの音楽を奏で、
前には三名のダンサーが居て、
フラダンスショウを見せていました。
ついハワイアンの音楽に聞きほれて、
立ち止まりました。


思えば、結婚して七年目に良い仕事をしたと言うので、
会社からご褒美に「ハワイ旅行」に夫婦で参加の案内がありました。
ちょうど二人目の子供が二歳になったばかりで、
カミさんは行けなかったので、ボク一人で参加しました。
ボクを入れて総勢33人で、その他はみんなカミさん連れで、
つまらなかった10日間の思い出。

これが最初のハワイ。


その後、二回目のハワイは、
第一次オイルショックのあと、
省エネがどのように進んでいるかの調査に、
(調査は建前で、業績が良かった人7名のご褒美)
アメリカに一か月間の出張。2月から3月に掛けてでした。
シカゴ、ワシントン、ニューヨーク、カナダ、ナイヤガラ、ラスベガス、
グランドキャニオン、テキサスのヒューストン、
ニューオルリーンズ、サンフランシスコ、ロサアンジェルス、
最後にハワイから日本へ。
出張の仕事はその間、一週間程度。


三回目のハワイ。
勤続30周年の会社からの労(ねぎら)いで、
お祝いで夫婦そろって10日間のハワイ旅行、
お小遣いに30万円付き、これは出張手当?
ボクは通算ハワイ滞在30日。
思い出は、やはりカミさんと一緒の三回目が多い。

その思い出の1番は、
ビュイックのリムジンの送迎で、
翌日オアフ島一周観光。
途中、運転手さんの友達が経営しているパイナップル農園で休憩。
冷たいパイナップルを戴いて食べたパイナップルの美味しかったこと。
パイナップルをボクはそれまで缶詰でしか食べたことが無かったので、
こんなに美味しいものかと感激したこと。

思い出の2番は、
エルビス・プレスリーのブルーハワイで有名になったハナウマ・ベイ。
透き通る海に点々と見える青いサンゴ礁、
群れ泳ぐ魚に、
千切ったパンを自分の手から食べさせたこと。
海で遊んでいる間、
一時間後には帰ってくるからとタクシーを待たせたこと。
どのように英語で話したか覚えていないが、
英語を話すボクにカミさんが目を白黒させて驚いたこと。
こんな特技があったのかと思ったのか、
変な英語を話していると思ったのか・・・。
それは知らない。

(ブルー・ハワイ/Blue Hawaii - Elvis Presley)
 

思い出の3番は、
マウイ島のしだの洞窟を見学の時、
二人で洞窟から出てきたら、
出口でギターをかき鳴らし、
声高らかに、朗々と唄ってくれたハワイアンのウエディング・ソング。
サプライズと感動で、この時はチップ(御祝儀)をはずんんでしまった。

(思い出3)(ハワイアン・ウエディング・ソング)
HAWAIIAN WEDDING SONG - Rudi van Dalm
  

思い出の4番、
ハワイ島の火山で、冷(さ)めて黒くなった岩の下に赤く流れる溶岩、
その黒い予熱のある岩の上に立たせてカミさんの写真を撮った事。

思い出の5番、
今までコーヒー豆は、茶色なものと思っていたし、
マメはえんどう豆のように莢(さや)の中にあるものと思っていたが、
マメは枝に並んでついていて、
色も艶のある緑だったり赤い色だったりしたのには驚いた。


そして強烈な最後の思い出、
ハワイ島から飛行機でオアフ島に帰るに当たって、
ハワイ島の観光を終えて飛行場についたら、
乗客が空港に溢れていて、
それもどの顔もすごく緊張しているのに出会ったことだ。
どうしたのかと搭乗口に行くと、
ボクたちが乗る飛行機の一つ前に離陸した飛行機に事故があって、
空の上で客席の屋根が飛んでしまった。
乗客はシートベルトをしていたので全員助かったが、
シートベルトをしていなかったCA(キャビンアテンダント)が
上空で放り出された。
後に映画になったこの事故に、
一つ間違えば乗っていたかもしれない。


こんなことを思い出しながら、
暑いのに30分もハワイアンを聞き入ってしまった。
そしてもう一度、ハワイへ行きたくなった。
美味しいパイナップル、
太平洋戦争のきっかけになったパール・ハーバー、
香りの良いコナ・コーヒー、
サンセット・ディナー・クルーズ、
数えだしたらきりがない・・・。

もう一度元気なうちに、カミさんを連れて、
ハワイに行きたいと思うが、
こんな感動はもうないかもしれない。

しかし、なによりも真っ先に、
体力面から希望は叶わないに違いない?

だろうか・・・。

アロハ!
(Aloha!)


【和訳付き】アロハ・オエ(ハワイ民謡)"Aloha Oe" - カタカナ付き

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五輪真弓 恋人よ 

2021年01月19日 04時08分22秒 | ひとり歩き旅
昭和55年ころは、カラオケ全盛とい言っても過言でない。
その時、流行した唄「恋人よ」は、
女性の思いをよく現わした歌だ。
しかし歌うにはとっても難しく、
音痴のぼくはさっさと諦めたが、
大好きな歌だ。


五輪真弓「恋人よ」/Mayumi Itsuwa「MY ONLY LOVE」
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玄奘の悲願(インド紀行8)

2021年01月16日 04時23分12秒 | 海外旅行1

(玄奘の悲願)


(ラン展より1)

玄奘三蔵は17年の歳月を経て、
故郷の唐の国へ帰るが、
出国の際 禁を破って脱出したため入国するに当たって、
国に入る許しを得る手紙を皇帝に送っている。


(ラン展から2)

切々と訴える手紙の一部を紹介したい。

【沙門玄奘は申し上げます。
(昔から、学者は知識を求めて遠方まで出かけていることを、
例を挙げて説明している、だから玄奘も天竺へ赴いたと説く。
その一部を省略。)
インドにおいて釈迦が衆生に利益を与えた神々しい跡とか、
教えに深く通じた高僧たちが明らかにされた、
類まれな高説にいたっては、これらが大変遠方にあるからといって、
手をこまねいて慕い訪ねないでおられましょうか。
釈迦が西域にお生まれになって教えをおこされ、
残された教えは中国に伝わり、優れた経典がやってきました。
しかし、それでもなお、十分というわけではなく、
欠けたところがあります。

わたくしは身も命もかえりみず、
以前から常にこの方面の学問を訪ねようと思っておりましたが、
とうとう貞観三年四月(630年)をもって、
国の決まりをおかし、
ひそかにインドへ旅立ってしまったのであります。
みはるかすかぎりの砂漠を踏み渡り、
切り立った雪深い高山を越え、
ウズベキスタンの山間を抜け、
イシクルコのような波濤に洗われた道を通過し、
長安の都からはじめ、王舎城の町に終わる旅でありました。

その間に通った道は二万キロ以上。
風俗は千を持ってかぞえるほど異なり、
困難危険は万を持ってかぞえるほどでありました。
しかし、人間の知恵でははかり知れない天の威力によりすがって,
もっぱらこれをたのみといたしましたので、
どこに行ってもわずらいもなく、てあつくもてなされ、
身も苦しまず、みな望みどおりになったのであります。
とうとう思いをとげて「霊鷲山」を見、
釈迦が悟りを開いた菩提樹を礼拝いたしました。


(ラン展から3)

見ることがかなわなかった仏跡を見、
聞くことがかなわなかった経を聞きました。
全世界の不思議を見尽くし、
自然のはぐくみを見極めもいたしました。
陛下の徳が行き渡っていることを述べたたえ、
異なったふうぞくのひとびとの陛下に対する思いを啓発いたし、
へめぐり歩いて17年。(以下省略)】

トルファンまで来てこの手紙を出した。
なぜ皇帝に手紙を出したかと言うと、
持ち帰った経典を翻訳するには、
国の力が必要であったからといわれる。


(インドの夜景)

当時、翻訳するのに記載する紙が高価であったことと、
657巻の経典を翻訳するには、
記録係、翻訳者、書き写す者など大勢の手が必要であったのと、
657巻にわたる膨大な経典の翻訳が、
一生かけて完了させるのは時間的に余裕がなかったからである。
玄奘の悲願である、仏典の翻訳はこうして始まり完成した。

二十世紀に入り、戦火による焼失を免れるため、
敦煌の石窟の壁に塗りこめられた経典が発見されたいきさつは、
井上靖の小説「敦煌」に詳しく掲載されているが、
一部はイギリスの探検家オーレル・スタインが、
また一部はフランス人のぺリオが、
残りを中国の軍隊が没収していった。
経典類は全部で四万点余であったという。

世紀の宝物であろう。


(インドの夜景)

しかし、こうして仏典は中国語に翻訳され、
日本に伝わった。

偉大な事業であった。

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心臓の治療後(5)

2021年01月14日 04時41分02秒 | 日記
退院後の散歩は、従来の半分くらいから始めた。

退院後、三日目の午後、千歩程歩いた後、
急に「めまい」がして、止まった。

上を見るとクラクラする、水平を見ても同じ、
左右見回ししても、目が回る。
幸いにも、十メートル先にベンチを見つけ休む。
座っても目が回るのは同じ。
時計を見たら14時半ごろである。

二年前の12月3日14時頃、
同じような場所で、
仰ぎ見た空が青く澄んでいて、
「綺麗な空だなぁ・・・」
と思った後で意識が無くなって倒れた経験がある。

この時は、左ひじの痛みで気が付くと、
目の前がアスファルトであった。
家から200mほどの所であったので、
その後、注意をしながら帰った。

家で少し休んでいると、左ひじと両ひざが痛いことが分かった。
どうやら、操り人形の糸が緩んで崩れるように倒れたと推測できた。

つまり意識が無くなって、筋肉の力がなくなり、
関節の筋肉の力が抜け、膝から道路に落ち、
次いで左ひじで道路に、その左手の上に頭が落ちて、
崩れるように倒れたようである。

検査結果では、平衡感覚をつかさどる三半規管にも異常はなく、
脳のMRIにも異常は見つからず、
高齢者に多い、メニエール症候群でもなく、
どうやら推測の域を脱しないが、
高血圧を下げる薬を糖尿病の医師と
循環器内科の医師と両方で出して居り、
血圧が急激に変化したらしい、
と言うことになった。

そこで血圧降下剤の薬を朝2錠飲んでいたものを、
朝晩1錠づつに分けることで様子を見ることにした。
以後二年経過するが、異常は起きて居ない。

「目が回るなどの異常に気付いたら、
しゃがみ込んで休む様に」
医師から言われていた。

うつむいて、10メートルほどの視界でなら、
何とか歩ける。

何度も何度も休んで歩く、歩いては休むを繰り返し、
何とか家にたどり着いた。

目が回るのは、心臓治療後に貰った、2錠の薬の所為か、
治療したことに依る、血流が良くなったことが原因か、
年末の事でもあり、
いったん貰った薬を中止して様子を見ることにしたが、
翌日には目が回る状況はどこかへ行ってしまった。

そこで貰って居た薬を再開したが、
目が回る現象は起きず、
薬の所為で無いことが解った。

以後、目が回るという問題は起きていない。

治療後の血流の回復に体が慣れたからだろうか、

今後も注意したい。

さて、肝心の右足の血流の「つまり」は今後医師と相談しながら、
手術日を決めたいと思って居ます。

追伸:足の治療は、コロナの事もあり
3月7日(日)入院
  8日(月)手術
  9日(火)退院
と決まりました。




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心臓の治療(4)

2021年01月12日 04時32分13秒 | 日記
12月22日入院2日目。

今日は心臓を治療する日である。

どう言う訳か朝食は無し。
右手に点滴を入れる。
針が上手く血管に入らなくて、
三回くらい場所を変えた。
きっと新人の看護師なのであろう。
手術は11:00からと言う。

T字帯(ふんどし様のもの)を付け、
手術着(ワンピースの前と後ろを張り合わせた衣)に着替える。
車椅子に載せられ、手術室へ。

手術室では、用意が出来て居り、
手術台へ階段を二段上がる。
手術台の幅は、人間の体の幅ほどで、
両手が置ける程度。

右手は点滴と血圧計をつける。
左手は動かないようにしてある。
(どのようになっているかは見えない)
手術着はめくられており、すごく寒い。

「治療は何分ぐらいですか」と聞くと、
「45分か1時間ほど」と返事。

その内、
「麻酔を打ちます、少し痛いですよ」
の声で、左手首にズシーンと痛みが、
そして痛みはすぐなくなる。
何回も、麻酔を注射しているようで、
その内、針金が血管内を通って行く感じがする。

少し時間が経って、
「はい、成功」
の独り言のつぶやく医師の声が聞こえる。

やがて手首のあたりで、ワイヤーを引き抜く動作を感じる。

手首がぎゅっと絞めつけられる感じがして、

そして終わる。

動脈を切ってカテーテルを入れた箇所には、
透明のビニールの腕輪が付いて居るようで、
その腕輪は空洞になっており、
空気を入れると腕が締め付けられる。
血止めをしているのだろう。

右手は、点滴のチューブでつながって居り、
左手は、血止めの腕輪が付いて居る。

病室に戻ると、すぐ昼食の時間。

膨らんだ冠状動脈。

(〇印の部分が広がったヶ所)

これで心臓の治療はひとまず終わった。
一週間はお風呂でなく、シャワーだけにして下さい。
腕首に水に濡れても良いように、
ガーゼと共に透明の絆創膏らしきものが張ってある。

「この絆創膏は何時はがして良いのですか?」
「明日の夕方までは付けて置いてください、
それと左手で、手をついて体を支えるなど、
力を掛けるのは止めて下さい。」と言う。
「鉄棒にぶら下がるのは?」
「体を支えるのと同じですから、せっかくくっ付いて居る動脈が
口を開く恐れがありますから、
一週間の間は左腕に力を掛けないように」

血管内に入れたステントの周りに、
血液が固まらなくする薬を一月分貰って、
翌日には、退院する。

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