(玄奘の悲願)
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(ラン展より1)
玄奘三蔵は17年の歳月を経て、
故郷の唐の国へ帰るが、
出国の際 禁を破って脱出したため入国するに当たって、
国に入る許しを得る手紙を皇帝に送っている。
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(ラン展から2)
切々と訴える手紙の一部を紹介したい。
【沙門玄奘は申し上げます。
(昔から、学者は知識を求めて遠方まで出かけていることを、
例を挙げて説明している、だから玄奘も天竺へ赴いたと説く。
その一部を省略。)
インドにおいて釈迦が衆生に利益を与えた神々しい跡とか、
教えに深く通じた高僧たちが明らかにされた、
類まれな高説にいたっては、これらが大変遠方にあるからといって、
手をこまねいて慕い訪ねないでおられましょうか。
釈迦が西域にお生まれになって教えをおこされ、
釈迦が西域にお生まれになって教えをおこされ、
残された教えは中国に伝わり、優れた経典がやってきました。
しかし、それでもなお、十分というわけではなく、
欠けたところがあります。
わたくしは身も命もかえりみず、
以前から常にこの方面の学問を訪ねようと思っておりましたが、
とうとう貞観三年四月(630年)をもって、
国の決まりをおかし、
ひそかにインドへ旅立ってしまったのであります。
みはるかすかぎりの砂漠を踏み渡り、
みはるかすかぎりの砂漠を踏み渡り、
切り立った雪深い高山を越え、
ウズベキスタンの山間を抜け、
イシクルコのような波濤に洗われた道を通過し、
長安の都からはじめ、王舎城の町に終わる旅でありました。
その間に通った道は二万キロ以上。
風俗は千を持ってかぞえるほど異なり、
困難危険は万を持ってかぞえるほどでありました。
しかし、人間の知恵でははかり知れない天の威力によりすがって,
しかし、人間の知恵でははかり知れない天の威力によりすがって,
もっぱらこれをたのみといたしましたので、
どこに行ってもわずらいもなく、てあつくもてなされ、
身も苦しまず、みな望みどおりになったのであります。
とうとう思いをとげて「霊鷲山」を見、
とうとう思いをとげて「霊鷲山」を見、
釈迦が悟りを開いた菩提樹を礼拝いたしました。
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(ラン展から3)
見ることがかなわなかった仏跡を見、
聞くことがかなわなかった経を聞きました。
全世界の不思議を見尽くし、
自然のはぐくみを見極めもいたしました。
陛下の徳が行き渡っていることを述べたたえ、
陛下の徳が行き渡っていることを述べたたえ、
異なったふうぞくのひとびとの陛下に対する思いを啓発いたし、
へめぐり歩いて17年。(以下省略)】
トルファンまで来てこの手紙を出した。
トルファンまで来てこの手紙を出した。
なぜ皇帝に手紙を出したかと言うと、
持ち帰った経典を翻訳するには、
国の力が必要であったからといわれる。
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(インドの夜景)
当時、翻訳するのに記載する紙が高価であったことと、
657巻の経典を翻訳するには、
記録係、翻訳者、書き写す者など大勢の手が必要であったのと、
657巻にわたる膨大な経典の翻訳が、
一生かけて完了させるのは時間的に余裕がなかったからである。
玄奘の悲願である、仏典の翻訳はこうして始まり完成した。
二十世紀に入り、戦火による焼失を免れるため、
敦煌の石窟の壁に塗りこめられた経典が発見されたいきさつは、
井上靖の小説「敦煌」に詳しく掲載されているが、
一部はイギリスの探検家オーレル・スタインが、
一部はイギリスの探検家オーレル・スタインが、
また一部はフランス人のぺリオが、
残りを中国の軍隊が没収していった。
経典類は全部で四万点余であったという。
経典類は全部で四万点余であったという。
世紀の宝物であろう。
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(インドの夜景)
しかし、こうして仏典は中国語に翻訳され、
日本に伝わった。
偉大な事業であった。