(大田原市の案内地図)

(那須・黒羽)
日光山参拝を終えた芭蕉は、翌3日(陽暦5月21日)矢板→大田原と、
那須野を進み黒羽(栃木県大田原市)の郊外余瀬村の翠桃宅に身を寄せた。
と簡単に書いたが、途中雨に降られて、農家に一泊している。
おくのほそ道を要約すると、
(その先、黒羽までは道が縦横に別れていて、
初めての旅人は道を間違えやすい。農夫が言うには、
「馬を一頭貸すから、馬の背に揺られて、
馬が行くところまで行きなさい。
馬が止ったら、返してくだされば結構です。」
馬は道順を覚えているから黒羽まで行ったら、
一人で帰って来ることを農夫は知っていた。
馬の背にまたがった芭蕉のあとを、
二人の子供が追いかけてくる。
一人は女の子で「かさね」と言う。
この田舎に珍しく可愛い名であったので、
曾良が俳句を次のように作った。
「かさねとは 八重なでしこの 名なるべし 曾良」)とある。
おくのほそ道では、このくだりがとても優しくて、
ボクは大好きである。
さて、2012年10月24日快晴の中、東北道西那須野塩原ICを下りて、
401号線に沿って大田原市役所に行き、
まず、芭蕉が訪ねた那須神社へ向う地図を手に入れる。
401号線から400号線に入り、
真新しい道路を行くと左側に、道の駅があり、
道路に面して那須与一の騎馬銅像とその奥に与一伝承館が見える。
その建物の奥に、こんもりとした森が見える。
那須神社である。
(那須与一伝承館ののぼり)

(那須与一の騎馬銅像)

(与一伝承館)

那須神社は、源氏の那須与一が屋島の合戦で、扇の的を射抜いたとき、
「何とぞ、あの扇の的を射落とさせてください」と祈った八幡宮である。
すくなくも芭蕉はそう考えて、この八幡宮を訪ねている。
しかし本当の八幡宮は那須温泉の殺生石の近くにある、
「温泉(ゆせん)神社」である。
往時、芭蕉の時代はこの那須神社が、
与一が願いを込めた八幡宮であると伝えられていた。
芭蕉が間違っていたわけではない。
「おくのほそ道」(原文)に、
「それより八幡宮に詣(もうず)。与一扇の的を射し時、
別しては我が国氏神正八まんとちかひしも、
此神社にて侍ると聞けば、感応殊(ことに)しきりに覚えらる。」
別しては我が国氏神正八まんとちかひしも、
此神社にて侍ると聞けば、感応殊(ことに)しきりに覚えらる。」
とある。
(那須神社の鳥居)

芭蕉は、与一が祈願した八幡宮だと思えば、
心打たれる想いであった、と記している。
相当感じ入っていたように思われる。
「道の駅」の駐車場に車を止めて、先ずは腹ごしらえの食堂、
田舎ではレストランと言うが、鴨そばを戴く。
那須の新そばは、香りもよく美味しくいただく。
その日は、デイサービスのお年寄りが30人ほど、
新そばを食べる会らしく、6人ほどの付き添いと一緒に、
テーブルに陣取って、美味しそうに天ぷらそばを食べていた。
いずれ我が身と、注意していると、ある「ばあちゃん」が、
「お代はいくらですか?」と大きな声で聞いている。
付き添いの人が、
「お代はお嫁さんから頂いているので、必要ありませんよ。」と、
答えているのに、しばらくすると又同じ事を聞いている。
ある人は、目の前の天ぷらを手で掴んで、口に運んでいる。
後から、天つゆを配っている人がいるし、
天ぷらを一口で食べられるよう、
ハサミでチョキチョキ細かく切っている人がいる。
レストランはテンヤワンヤの大騒ぎ。
その中をボクとカミサンは、早く食べて皆さんの邪魔にならぬよう、
レストランを出る。
レストランのならびにある、与一伝承館に入る。
秀吉により、那須与一郎に与えられた所領の朱印状、
戦国時代に送られた上杉謙信の書状などの展示。
屋島合戦絵図、那須与一が扇の的を射たとき、
身につけていたとされる「太刀銘成高(しげたか)」、
ならびに「綾包太刀拵(あやづつみたちこしらえ)」、
源氏の白旗、甲冑などが展示してある。
(源氏の白旗、甲冑、弓など)

ボクがイメージする白旗は、いつも敵に破れて降参する時の白旗であるが、
源氏の白旗は、すそ長く尾を引くような長い白旗である。
その他、「扇の的」のシーンをカラクリ人形風のロボットと
ワイドスクリーンによる映画が見られるのですが、
残念ながら時間に迫られていて、次の機会にと先を急いだ。
入場料は300円でした。
・那須の原 弓引く先に すすき揺れ hide-san