芭蕉が歩いた道をたどって、訪ねる事を始めたボクは、
秋田県にかほ市象潟を訪ねた。
2012年に旅した記録です。
松尾芭蕉が「おくのほそ道」で、
本州の日本海側最北端、象潟へ行ったのは良く知られている。
(象潟の芭蕉像)
そこで詠んだ俳句、
・象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花
も有名であるが、西施とねぶの花については、
いずれも名前は知っていても、
さて、どんな人、どんな花と聞かれると、
説明が出来ない。
「西施(せいし)」について、
絶世の美女と言われるが、世界三大美女の中には入っていない。
入っているのは「楊貴妃、クレオパトラ、小野小町」となっている。
美女というと、その容姿は時代によって左右されるから、
何とも言えないが、
切れ長の目でうりざね顔の柳腰が美女の時代、
おたふくで代表される美女の時代もあったに違いない。
今はAKB48に代表される美女群がちやほやされる時代である。
「楊貴妃」もその時代の肖像では、
でっぷり太ったふくよかな女性というから、
美人の定義も今とは違っている。
さて、その「西施」であるが、
これもその時代の美女であったことには、
間違い無さそうである。
「呉越同舟」で表現される、
「呉」と「越」の国が争っている時代の事である。
(大まかなあらすじを以下にのべる。詳しくは「中国五千年の歴史」を参照)
(西施像)
越王 勾践が、呉王 夫差に、復讐のための策謀として献上した美女、
西施と言う名の美女がいた。
貧しい薪売りの娘として産まれた西施は、
谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。
呉の国に送り込まれた西施に、呉の国王夫差は夢中になり、
呉の国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
中国では美女の事を「傾城(けいせい)」ともよぶ。
(傾城=美女にかまけて国の運営をないがしろにし、城を傾けるから。)
西施は胸の病があったらしく、
彼女が胸元を押さえ、眉間にしわを寄せ悩む姿にはなんともなまめかしく、
か弱い女性の美しさがにじみ出ていたという。
西施にも弱点があったとされる。
それは大根足であったとされ、
常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
しかし、この当時は大根足が美女の条件であったかもしれない。
西施を知らなければ、芭蕉の句を理解できない。
・象潟や 雨に西施が ねぶの花
「おくのほそ道」の原文に、芭蕉は、
「面影松島にかよひて、又異なり。
松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし」
松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし」
と言っているが、
美女西施の悩める姿と合歓の花を混ぜ合わせて、
雨にけむる象潟を表現したかったものと思われる。
岩波文庫「おくのほそ道」の注記によれば、
芭蕉のこの俳句の意を次のように解説している。
(雨にけぶる象潟は、
悩める美女西施を思わせる、
合歓の花の風情と通い合い、
美しくもさびしさを深めている。)
そして次が「ねぶの花」である。
「ねぶの花」は「合歓の花」のことであるが、
合歓の木は、夕方から夜の間は葉が閉じることから、
ねむる木と言われ、それが「ねむの木」と呼ぶ事になったという。
この木を実際には見たこともなく、
象潟の西施像の前にあった合歓の木でしか知らない。
まして花はどんな花かボクは知らない。
(ねぶの木)
(つづく)
象潟で詠んだ「象潟や雨に西施がねぶの花」の碑も懐かしいです。
旅行社の添乗員(歴史の先生)が、「西施」について、熱っぽく説明してくれたのが思い出されます。
そうでしたか、ボクはねむの花を探し求めて、
何日か費やしてしまいました。
西施やねむの鼻について、さんざんな目に合いました。
でもそれだからこそ、生涯忘れられないことに・・・
画像「芭蕉像と句碑」は、どちらで撮影されれたのでしょうか。所在地を教えてください。
蚶満寺近くの海岸べりとホテルで、
夕日が美しいというだけのことで宿泊した宿です。
そのホテルの前にあった芭蕉と句碑だと思います。
ホテルの名前は思い出せません。
ホテルまでは車で行ったのに、
蚶満寺へはホテルからタクシーで行き、
取材中はタクシーに待って貰いました。
答えになりませんね。悪しからず・・・
おそらく「夕日の宿さんねむ温泉」ではないかと思います。私も泊まりました。ですが、芭蕉像と句碑は見落としました。確かに夕日が素敵でオーシャンビューの部屋に泊まりました。が、朝風呂に入り丘側からは、九十九島が眺望できたのです。奥の細道300年を記念して、以降各地に新しい句碑や芭蕉像ができています。機会があれば、また出かけてみたいものです。