ウォーク更家の散歩 (東海道を歩く、中山道を歩く)

「東海道五十三次を歩く・完全踏破の一人旅」
(http://www.minedayo.com/)

三国街道を歩く (須川宿~猿ヶ京宿 1/2) (群馬県) 2017.5.5

2017-06-23 09:07:51 | Weblog

(写真は、赤谷湖の遊歩道 )


昨日は、三国街道を永井宿から猿ヶ京宿まで歩き、猿ヶ京温泉に1泊、
宿の温泉に浸かって街道歩きの疲れを癒しました。


今朝は、宿の近くの「猿ヶ京」バス停から、路線バスに乗って、約10分、
「たくみの里」バス停で下車します。

「たくみの里」は、「三国街道」の「須川宿」でもあります。

「たくみの里」には、陶芸・わら細工・竹細工などの”手作り体験工房”や、
そば打ち体験、こんにゃく手作り体験などの様々な工房が点在します。

これらの工房は、「須川宿」の農家を改築したものです。


ここには、「道の駅 たくみの里」もあり、1日中過ごせる様なエリアになっています。



「須川宿」は、須川平と呼ばれる広い段丘面の上にあり、街道は、ほぼ直線で、
中央を水路が通っていました。


そして、宿場の中央には、本陣兼問屋と脇本陣が隣り合っていました。
1779年、脇本陣から出火、大火となり、隣りの本陣を始め、須川宿の大部分が焼失したそうです。


上の写真の現在の本陣宅は、明治初期の建物です。

明治に入り、「須川宿」は、鉄道からも遠く、また、三国街道(国道)の直線化により、
国道が須川宿を外れてしまい、寂れる一方でした。

しかし、須川宿では、昭和59年から「たくみの里」造りを進め、町並み保存、周辺の
素朴な野仏巡り等を中心に、コンニャク作り等の体験型の施設を街道周辺に多数展開
して村興しを始めました。

そして、平成8年「三国街道須川宿」として歴史国道に指定されました。



宿場町のほぼ中央にある脇本陣跡は、写真の「須川宿資料館」になっています。



資料館の門は、本陣の門を復元したもので、江戸時代の本陣の門柱や門扉を使用して
いるそうです。

内部はワンフロアーの展示室になっており、本陣の道具類の他、宿場町に関する古文書
などが展示されています。
(200円)(撮影禁止)

その古文書の一つ「須川新田町立て定書」には、須川に新田を造れば、その分の3年間は
年貢不要にする旨が書かれています。

定書には、更に、新田造成の人足に盗賊を使ってはならない、とあります。

ということは、逆に言えば、NHK大河「女城主 直虎」の様に、盗賊を人足に使っていた、
という事なのでしょうかねえ・・・

また、展示室の奥には、本陣の上段の間が復元されています。

資料館を出て、たくみの里のメインストリート「宿場通り」沿いの工房や食堂などを覗きながら歩いて行きます。
























「宿場通り」を抜けると緩やかな坂道になり、ここを下って行きます。

ここからは、三国街道を、昨日とは逆方向に、須川宿から猿ヶ京宿まで歩きます。


緩やかな坂道を下ったところに、「野仏巡り」の旗が立っており、その奥に写真の
「野仏(道祖神)」がありました。


野仏の先も下り坂が続き、これをどんどん進ん行きます。





下り坂が終わり、その先は、途切れ途切れに現れる旧三国街道(中部北陸自然歩道)の
標識を頼りに、田園風景の中を歩いて行きます。





やがて、赤谷川に掛かる「あいのわたし」橋を渡り、浅地集落に入ります。











集落を抜け、急な上り坂を上って行くと、国道17号に合流しました。




国道17号を少し歩くと、左手に、「赤谷湖」(あかやこ)沿いの猿ヶ京温泉街までの
遊歩道の地図がありました。



遊歩道の地図の近くに、上の写真の「謙信のさかさ桜」(県指定天然記念物)がありました。

これは、上杉謙信が、関東出兵の際、逆さに挿した桜の鞭が根付いた、と伝えられる
樹齢450年の桜の樹です。


地図に従って、赤谷湖沿いの遊歩道へ下りていきます。

ここから、赤谷湖の素敵な景色を堪能しながら、猿ヶ京温泉街までウォーキングです。






赤谷湖は、赤谷川をせきとめた相俣ダムの人造湖です。

江戸時代には、三国街道は、この湖の底にありました。


江戸時代からの三国街道沿いの笹の湯、湯島温泉は湖底に沈みました。

現在は、三国国境の山並みを湖面に映す静かな湖で、ワカサギなどの釣り場スポットに
なっています。

赤谷湖の奥には、上越国境の山々が未だ雪化粧のままです。

赤谷湖遊歩道を、ぐるっと半周回って、猿ヶ京温泉街を目指します。
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三国街道を歩く (永井宿~猿ヶ京宿 2/2) (群馬県) 2017.5.4

2017-06-17 12:00:36 | Weblog

(写真は、三国街道沿いの満開の桜と桃の花)


永井宿の郷土館を出て、猿ヶ京宿へ向かって旧三国街道を歩いて行きます。

山道の街道沿いには、春の花が咲き乱れ、気分はハイテンション!、快適なウォーキングです。







森林浴を楽しみながら、渓谷沿いの中部北陸自然歩道(旧三国街道遊歩道)の爽やかなウォーキングが続きます。

















上り下りのある気持ちの良い坂道を歩いて行くと、写真の「会津藩士白虎隊 町野久吉墓」がありました。

これは、戊辰戦争の前哨戦の三国戦争で戦士した会津白虎隊の町野久吉ら5名の若者の墓です。

久吉は、槍の達人で大いに新政府軍を悩ませましたが、数発の銃弾を受け、17才の若さで壮烈な戦死を遂げました。
久吉の首は、永井宿の高札場に、竹に刺されて、7日間晒されたそうです・・・

そして、町野久吉墓の先には、突然、工事中の表示と、ダムのような壁が…。

旧三国街道は、ここで消滅している様です・・・

工事の道案内のオジサンに聞いてみると、現在、新三国トンネルを掘る工事が行われており、トンネルを
掘削した際の残土を、ここに捨てているとのことでした。

仕方なく、いったん国道17号に出て、この工事現場の残土廃棄用のコンクリートの壁(写真の赤丸印)
を迂回します。



暫く国道17号を歩いて行きます。

間もなく、17号沿いに目を見張る様に色鮮やかな桃の花と満開の桜が!



余りの美しさにウットリとして、暫く立ち止まって眺めます。


更に、国道17号を歩いて行くと、中部北陸自然歩道(旧三国街道遊歩道)へ戻る表示がありました。

再び、春の花が咲き乱れる山道の快適なウォーキングです。



































永井から猿ヶ京まで4キロですが、上り下りのある坂道なので、久し振りの街道歩きは、
結構長く感じました。





やがて遊歩道は小さな谷を渡り、その頃になると前方に赤谷湖が小さく見えてきました。

湖畔がゴールの猿ヶ京宿です。





猿ヶ京宿が近づくと、街道沿いには数多くのお地蔵さんがありました。

医療の乏しいこの辺りの山村には、お地蔵さんを祀り「おがんしょ(願)かけ」をして、
病の回復を願う風習があったそうです。

街道沿いには、耳だれ地蔵やいぼ地蔵など、江戸時代の人々が、悩まされたであろう
疾患の名がついた地蔵がいくつもありました。

(子育て地蔵)


(目の薬師)






(いぼ地蔵)


(水車小屋)






(耳だれ地蔵)




(二十三夜塔)




今晩は、ここ猿ヶ京温泉街の下の写真の温泉宿「吉長」(きっちょう)に宿泊します。

(1泊2食付きのゴールデンウイーク料金:14,580円)

宿の温泉にゆっくりと浸かって、街道歩きの疲れを癒します。

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三国街道を歩く (永井宿~猿ヶ京宿 1/2) (群馬県) 2017.5.4

2017-06-10 05:57:23 | Weblog

(写真は、永井宿の本陣の写真)


東海道・中山道・日光街道の踏破が一段落したので、現在、「日本の街道(三省堂)」(1,500円)を
読みながら、これからの街道歩きの構想を練っています。

日本の街道ハンドブック―「旅ゆけば心たのしき」街道小事典
竹内 誠
三省堂

この本は、以前にご紹介した「日本の街道(西東社)」(1,500円)とよく似た本ですが、街道沿いの
歴史上の事件がコンパクトに説明されており、歴史ファンにはこちらの本の方がお薦めです。

街道歩きについて多少の知識を持つ人にとっては要点の復習的な内容に過ぎませんが、街道歩きに
関心のある初心者にはお薦めの本です。

街道歩きの入門書として最適ですし、五街道踏破後にどの街道を歩くかを検討するのにも最適です。

五街道については勿論、主要な脇往還についても、はほぼ網羅しています。

関東、中部、近畿、中国、九州別に、各々の地方の街道の地図と説明が、非常に簡潔にまとめてあるので、
地方の街道巡りの計画をたてる際にも参考になります。

そして、この「日本の街道」を読んでいて、その中の「三国(みくに)街道」を少しだけ歩いてみたくなりました。

当時、江戸から越後・佐渡へ行くには、中山道の高崎宿から分かれる「三国街道」を通り、、渋川を経て、
「三国峠」を越えなければなりませんでした。
そして、案内書によると、「三国街道」には、他の街道には無い際立った特徴がありました!
その特徴とは、驚くことに、何と、宿場毎に、佐渡送りの重罪人を泊める牢があった事です!


と言う訳で、先月のゴールデンウイークは、「三国街道」を少し歩いて、群馬の猿ヶ京温泉で1泊して来ました。

上野(8:58) → 新幹線Maxとき309号→(10:06)上毛高原

上毛高原(10:32)→ 関越交通バス→(11:10)猿ヶ京温泉→ タクシー→ (4km)→永井宿
















上の写真の猿ヶ京温泉のバス停から、タクシーに乗って、約10分で、「三国(みくに)街道」の「永井宿」に着きました。

「永井宿」(群馬県新治村)は、この先にある三国峠への急斜面にへばりつく様にしてありました。

越後(新潟)と上州(群馬)の国境にある「三国峠」は、冬は豪雪、夏は雨による土砂崩れの難所でしたが、
越後と江戸を結ぶ最短ルートだったために、多くの旅人が利用しました。

山深い宿場町にも拘わらず、越後側から上州側に入って最初の宿場だったので、本陣を含めて33軒もの宿があり、
米の問屋場としても栄えました。

更に、永井宿の近くには、弘法大師が発見したと言われる法師温泉があったので、湯治客もこの街道を往来しました。


路線バスを下りて、先ず「本陣跡」へ行きます。










本陣跡から急な坂を下りると、右手に上の写真の「永井郷土館」がありました。

この郷土館は、廃校になった猿ヶ京小学校の永井分校跡に設けられたのだそうです。

大名の高札や武具など約500点が展示されています。

ここで、三国街道歩きの情報を集めます。

それによると、古くは、上杉謙信が、関東へ出陣する際に、十数回も三国街道の三国峠越えをしたそうです。

また、江戸時代の大名行列では、長岡、村上、新発田などの各藩が三国街道を利用したそうです。

そして、現在では、古碑や道祖神を巡るハイキング、三国山登山道としてハイカーが永井宿を訪れているそうです。





(戊辰戦争の前哨戦で、この地で、旧幕府軍として激戦を戦った郡奉行・町野源之助の写真)


郷土館のオジサンの話しだと、永井宿からは、中部北陸自然歩道(旧三国街道遊歩道)の矢印に沿って歩けば、
簡単に猿ヶ京宿へ着ける様です。


郷土館を出て、坂道を更に下ると、右手に細い道がありますが、矢印に従って、ここ永井宿から猿ヶ京宿へ
旧三国街道へ入って行きます。-
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日光街道を歩く(22-3:日光東照宮 3/3) 栃木県日光市

2017-06-03 17:43:30 | Weblog

(写真は、修復された日光東照宮の”眠り猫”)


前回の日光東照宮の見学の続きで、「日光街道を歩く」シリーズの最終回です。




上の写真は、有名な国宝「眠り猫」です。
こちらは、丁度、60年ぶりのお色直しを終えたばかりで、色鮮やかに復元されています。
修復前は、猫は目を閉じていましたが、資料に基づき、何と!、目を開けた姿にして修復したそうです!

目を閉じている様にも見えますが、家康を護るために、目を細めて、いつでも飛び掛かれる姿勢をとっているのだそうです。

下の写真は、その「眠り猫の裏側」の2羽の雀で、平和な時代を象徴しているらしいです。

眠り猫は、江戸時代初期の作品で、左甚五郎作との伝承はあるものの、作者不明だそうです。


上の写真の五重塔では、ちょうど塔の内部の初公開をやっていました。

(東照宮五重塔の心柱特別公開(300円)」

上の写真ではちょっと分かり辛いですが、心柱(しんばしら)の下は浮いており、塔と分離した心柱は、免震の機能を果たしています。
そして、この心柱の技法は、東京スカイツリーに活かされているそうです。


そうか!、入場のときに配られたクリアファイルに、五重塔と並んでスカイツリーの写真があるのはそう言う意味なんだ!




上の写真は、輪王寺「大猷院(たいゆういん)」で、三代将軍家光の霊廟です。(550円)

この大猷院の建造物も、残念ながら修復中でしたが、下の写真の鐘楼や唐門は見られました。

東照宮を凌いではならないという家光の遺言により、黒と金を基調とした落ち着いた造りに抑えられているそうです。






完訳 日本奥地紀行1―横浜―日光―会津―越後 (東洋文庫)
イザベラ・バード
平凡社

最後に「家康の墓」に行きますが、ここについては、明治11年に書かれた英国旅行家のイザベラ・バード「日本奥地紀行1」
(平凡社:3,240円)に記載された「家康の墓」についての紀行文に、私の写真を挿入してご案内します。


 「家康の墓」へ行くには、東回廊に設けられている坂下門をくぐり、苔や二輪草の緑が目立つ石畳の参道に入って行くことになる。

 墓は、207段の石段を上った山の頂きの一番奥の高い所、家康を称えて建立された全ての社殿を背後から見下ろすかの如くにあった。



 大きな石積みの上に青銅の壺が乗る簡素な墓(宝塔)で、そこに家康の遺骸が眠っているのである。

 宝塔の前には、石の台が置かれ、その上には、青銅の香炉と青銅の鶴が乗っている。

 私は、石垣、石畳の参道、石段、石棚の柱石にも感服した。

 これらは全て、漆喰やセメントを用いずに、極めて精密にぴったりと組み合わされている。
 このため、260年も経っているのに、継ぎ目は、雨にも湿気にも根付こうとする植物にもほとんど侵されていない。

 背後の山に生成する杉の大木は周りを昼なお薄暗くしており、木漏れ日が斜めに差し込むだけである。

 周囲の自然が、偉大な将軍の荘厳な墓を、悲しみをたたえながらすっぽりと包んでいる。

(以上、イザベラ・バード「日本奥地紀行1」から : 私の文章ではありません、念のため・・・



東照宮を出て、東武日光駅から、JR新宿駅行きの東武電車に乗って、横浜まで帰ります。

東武とJRとの相互乗り入れの電車に乗るのは始めてです。


ps.
日光街道踏破の全行程は、ホームページ(「中山道を歩く(完全踏破の一人旅)」)の欄外に、
「日光街道」として補記追加しました。

また、ホームページ(「東海道五十三次を歩く(完全踏破の一人旅)」)もありますので、
こちらも併せてごらん下さい。


今後予定している奥州街道/甲州街道や横浜東京近辺のウォーキングは、引き続きこのブログ「ウォーク更家の散歩」
(http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie)でご覧下さい。
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日光街道を歩く(22-2:日光東照宮:2/3 ) 栃木県日光市

2017-06-01 08:15:05 | Weblog

(写真は、修復された日光東照宮の”三猿”)



光東照宮への入口である「日光橋」の左手には、写真の「神橋(しんきょう)」があります。

この朱に塗られた橋は、奈良時代の1250年に、「勝道上人」によって創建されたと伝えられる国の重要文化財で世界遺産です。

このアーチ型の木造反り橋は、山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋と共に日本三奇橋と呼ばれているそうです。

神橋の下を流れるのは、大谷川の清流で、神秘的な雰囲気が漂います。

この様な神秘的な風景の中で、芭蕉も感動的な句を残しています。
”あらたうと 青葉若葉の 日の光”
(青葉や若葉に差し込む日の光は、この日光山のご威光そのもので、実に尊いものだ。)

そして、日光橋の右手前は、写真の「天海上人像」です。

天海上人は、108歳で亡くなるまでの間、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって相談役として仕え、家康死後は東照宮の創建に
尽くした「日光山中興の祖」です。
江戸時代に108歳とは凄い!


「日光橋」を渡ると、いよいよ日光東照宮へ向かう上りの石段です。


東照宮は、1617年、二代将軍秀忠によって造営され、三代将軍家光によって建てかえられて、現在の豪華絢爛な社殿群になっています。
徳川家康を祀る境内には、国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が並びます。

東照宮は、今回、私が行った時は、数十年に1度の平成の大修復中でした。

境内に15ある重要文化財の社を、順番に修復していき、全ての社の復中が完了するのは12年後だそうです。


上の写真は、「輪王寺三仏堂」ですが、ここも残念ながら、約50年ぶりの大修理が、約10年の歳月をかけて行われています。



しかし、修理の第一段階として、三仏堂の大伽藍を覆う「素屋根」が平成23年に完成していて、ここに「展望見学通路」が
設けられています。



ここからは、三仏堂の屋根頂上と同じ高さから修理現場を見学することが出来るので、逆に貴重な見学が出来ます。


東照宮の表門を入り、陽明門へ向う途中の有名な”三猿”は、8面のうち左から2番目(赤丸印)の画の「見ざる、言わざる、聞かざる」
の部分だけが修復を終えています。


三猿の左右は、16匹が8面に分かれていて、誕生から親になるまでの一生を表しています。




上の写真は、日が暮れるのも忘れると言われる程に装飾が豪華な「陽明門」ですが、こちらも残念ながら
修復中でした。
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日光街道を歩く(22-1:日光東照宮:1/3 ) 栃木県日光市

2017-05-27 14:41:17 | Weblog

(写真は、東照宮を戊辰戦争の戦火から守った「板垣退助」の像)

本日は、午前中に、日光街道の最後の宿場である「鉢石(はついし)宿」の見物を既に終え、
午後は、「世界遺産・日光東照宮」を見物してから横浜に帰る予定です。

日光東照宮の見学の前に、”幕末の日光(鉢石宿、杉並木、東照宮)”について説明しておきたいと思います。

鉢石宿の外れの金谷ホテルへの登り口のところに、下の写真の「板垣退助像」があります。

何故、ここに「板垣退助」の像があるの?

板垣退助の像がここに建ったのは、戊辰戦争のときに、新政府軍と旧幕府軍がここで衝突した際の
以下のエピソードによるものです。

「錦の御旗」を掲げて北上を続ける新政府軍に対し、旧幕府軍は「東照大権現の御旗」を掲げて
交戦します。

最も激戦となった宇都宮城の攻防戦で勝利した旧幕府軍は、勢いに乗って、日光を拠点にして
会津藩や仙台藩と連携して、連合戦線を築こうと「日光廟」へ向かいます。

また、宇都宮城の攻防戦で負傷した土方歳三は、「大鳥圭介」率いる旧幕府軍に合流して、
会津藩士らと共に「日光廟」に立て籠もりました。

日光廟に立て籠もった大鳥圭介軍に対し、地元の僧侶は、東照宮を戦火から守って欲しいと、
旧幕府軍と新政府軍の双方を説得します。

この説得を受け入れて、「板垣退助」は、旧幕府軍が会津への撤退を完了するまでの間は、
攻撃を差し控える旨、大鳥圭介に伝えます。

大鳥圭介は、板垣退助との約束を信じ、旧幕府軍は日光廟を抜け出して、会津まで退きました。
こうやって、東照宮は、戊辰戦争の戦火から辛くも逃れることが出来たのでした。


また、この一方で、これに伴う悲劇も起きました。

東照宮の参道を下りた突き当たりの所に、下の写真の「八王子 千人同心」碑が建っています。

碑には、「日光火之番 八王子千人同心 顕彰之燈」と刻まれています。

「八王子 千人同心 」の役目は、東照宮の警備であり、千人同心の頭1名と同心50名で、
半年交代で警備していました。

新政府軍が日光に進軍して来たときの千人同心の頭は、石坂弥次右衛門(やじえもん)でした。

弥次右衛門率いる八王子千人同心は、大鳥圭介率の指示に従い、刀を交えることなく、
日光廟を新政府軍に明け渡しました。

その後、弥次右衛門は、千人同心の仲間達から、戦わずして日光廟を明け渡したと非難されます。

任を解かれた弥次右衛門は、八王子に戻りますが、帰郷した夜に切腹しました・・・

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)
アーネスト サトウ
岩波書店

幕末の英国外交官だったアーネスト・サトウは、親しい間柄だった大隈重信に、戊辰戦争の戦況を聞いた
内容を、「一外交官の見た明治維新」の中で、以下の様に書いています。(岩波文庫:上下各840円)

 13日に日光付近の今市で戦闘があり、官軍はこれに勝って進撃中である。

 大隈重信の藩主である肥前侯は、今市の町のある下野(しもつけ)まで進撃した自藩の部隊から、
藩主自ら攻撃の指揮に当たる様に要請されたが、家老達がその出陣を思い止まらせた。

そして、旧幕府軍が日光廟を抜け出して会津まで退いた後に、大隈重信から聞いた話しとして、以下の様に書いています。

 進撃中の官軍が長岡を占領したあとも戦闘は続いており、両軍の損害は共に多く、新潟は未だ会津藩士の手中にある。

 官軍は、地歩を確保しながら増援を待っているが、増援部隊が到着すれば、白河と秋田から来援する部隊をも加えて、一気に会津の首都・若松まで進撃する予定である。



「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡ると、正面に上の写真の「杉並木寄進碑」があります。

この碑は、大沢宿の手前にあった碑と同様の趣旨の「杉並木寄進碑」です。

日光杉並木は、川越城主の松平正綱・信綱(別名”知恵伊豆”)の親子が、二十数年をかけて
20万本余りを植栽しました。

現在は、日光街道と例幣使街道、会津西街道の計37キロにわたり約12,000本が残され、唯一、
特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けています。

明治5年、アーネスト・サトウは、宇都宮宿で人力車を手配し、杉並木の中を走り抜けて「鉢石宿」に
宿泊しました。

このとき、サトウは、初日に宿泊した脇本陣から、翌日は旅籠へ、その翌日は他の旅籠へと
たらい回しにされます。

徳川幕府の聖地だった日光の人々は、明治初期には、未だ外国人の宿泊を忌み嫌っていたらしいです。

江戸時代には、日光山の門前町として大いに栄えた「鉢石宿」も、サトウ一行が訪れたこの頃には、
幕府の庇護もなくなり寂れかけていました。

明治政府は、財源確保のために、日光杉並木の大量伐採を計画していました。

アーネスト・サトウは、英国大使を動かして、杉並木の文化価値を明治政府に強く進言、伐採を
思い止まらせました。



「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡り、石段を登ると、もう「日光東照宮」です。
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「南総里見八犬伝(2/2)」(八犬士の墓)

2017-04-27 21:04:33 | Weblog

(写真は、「南総里見八犬伝」の八犬士のモデルとなった「八遺臣」の墓)


4/4 に、「館山城」(八犬伝博物館)へ行った話しの続きです。


「館山城」の麓の公園に、写真の「里見茶屋」があったので、土産物を覗いてみます。

里見八犬伝関係のお土産を色々と売っています。


何と、下の写真の”八犬士の霊玉”も売っています!

1個2,800円なので、8個で22,400円ですが、果たして、この霊玉を買う人はいるのでしょうか?


私は、お土産に写真の「八犬伝まんじゅう」を買いました。







「館山城」(八犬伝博物館)の前には、下の写真の「千力猿」の石像があります。


かって、里見家では、千人力の怪力を誇る猿が飼われていました。
この怪力を誇る猿は、しばしば戦にも出陣し、戦場で大活躍しました。

しかし、猿使いの家老が留守の間に敵に攻め込まれ、館山城は炎に包まれてしまいます。

館山城の近くの沼地区には、この千力猿の頭蓋骨が残されているそうです。

「千力猿」の石像がある館山の頂上から、館山駅から歩いて来た坂道と反対側の坂道へ向かいます。




里見氏9代・義康の御殿跡の前を通って、「八遺臣の墓」を探しながら、坂道を下りて行きます。


分かり辛い「八遺臣の墓」の案内標識に従って行くと、急な坂道の途中に、苔むした「八遺臣の墓」が
ひっそりとありました。







1622年、最後の当主・里見忠義が鳥取県倉吉で没した際に、8人の家臣が殉死しました。

その8人の家臣の遺骨を分骨し、ここに供養したのだそうです。

この殉死した8人の家臣が、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルになったそうです。

「八犬伝」の最初は、史実の通り、里見氏・初代の義実の安房への入国の物語に始まります。

しかし、江戸時代になって、里見家には内紛が発生したため、幕府に目を付けられ、伯耆国(鳥取県)
倉吉へ転封になります。

その後、最後の当主・里見忠義には跡継の嫡子がなく、歴史上では、このときに里見家は断絶しました。

しかし、「八犬伝」では、最後は、八犬士の活躍により、この後も里見家は繁栄を続けます。


八遺臣の墓から、更に、急な坂を下って、平地に出ました。


案内標識に従って、9代・里見義康の菩提寺「慈恩院」(じおんいん)を探して、田園風景の中を
歩いて行きます。



慈恩院にお参りして、一休みしたあと、館山湾の海岸線を目指して歩いて行きます。

館山湾の海岸線に出たところで、一昨年の年末(2015/12)に立ち寄った「渚の駅:たてやま」で
遅い昼食を取ります。

この渚の駅の食堂は超人気で大混雑していました。

写真の「海鮮刺身定食」(2,180円)を注文しましたが、順番待ちで、出て来るのに40分くらい
かかりました・・・


昼食を済ませ、「渚の駅」から、海岸線沿いに歩いてJR館山駅に戻りました。

JR館山駅から、電車に乗って、東京方面へ3駅のJR岩井駅で途中下車する予定でした。

JR岩井駅の近くに、八犬伝の伏姫が役行者(えんのぎょうじゃ)から8個の霊玉を授かったという
「役行者の岩窟」があり、これを見物するための途中下車です。

しかし、「海鮮刺身定食」で時間を喰ってしまったため、JR館山駅についたのは、電車が出た直後でした・・・
次の電車まで2時間もあります!


仕方なく「役行者の岩窟」の見物を諦めて、ちょうどやって来たJR館山駅発、横浜駅行きの
ノンストップ高速バスで帰ることにしました。



海ほたる経由で、電車より1時間以上早い1時間50分で横浜駅に帰って来ました。
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「南総里見八犬伝(1/2)」(館山城)

2017-04-24 16:56:31 | Weblog

 (写真は、「南総里見八犬伝」の舞台となった「館山城」) 

一昨年の年末(2015/12)に、戦国大名・里見氏の居城であった「館山城(八犬伝博物館)」を見学しようと、
房総・館山を訪れましたが、残念ながら年末年始は休館でした。

この時は、予定を変更して、JR館山駅構内の観光案内所でレンタルサイクルを借りて、館山の海岸を走りました。
(そのときの様子は、(房総半島・館山を見てね。)

そして、今月の4/4 に、ようやく念願の「館山城」(八犬伝博物館)へ行って来ました。


早朝に、横浜駅から横須賀線に乗り、更に内房線に乗り換え、3時間もかけてJR館山駅で下車しました。



そして、JR館山駅から歩いて30分、城山公園の山頂にある「館山城(八犬伝博物館)」にようやく着きました。

「館山(たてやま)」の地名の由来は、里見氏の住む”館(やかた)”がある”山”です。

「館山城」は、1580年に、戦国大名の里見氏によって築城されましたが、1614年に幕府によって取り壊されました。

そして、現在の館山城は、昭和57年に博物館として再建されました。(入館料:400円)

城の内部は、この里見氏を題材にした滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の各種資料を展示した博物館になっています。

館内は撮影禁止なので、以下の写真は、館山城内で購入したパンフレット(300円)と、BS朝日「里見八犬伝」からです。


「南総里見八犬伝」は、江戸時代の文豪・「滝沢(曲亭)馬琴」が、28年もの歳月(1814年~1842年)をかけて
書いた106冊もの長編小説です。

ええっ!、全部で106冊もあったの?、知らなかったなぁ~!
それでは、私が昔見た薬師丸ひろ子主演の映画のストーリーは、そのほんの一部なんだ!、驚き!

この小説は、戦国時代に、ここ安房を拠点に活躍した里見氏の歴史を題材にしてはいますが、内容は全て創作です。
 
「勧善懲悪・因果応報」がテーマで、妖怪が出没するファンタジーな物語だったので、江戸時代には大ヒット作となりました。

歴史上は悲劇の最期を遂げた「里見家」の「伏姫」が、「8人の剣士」と共に大活躍して、お家を再興していくという爽快な
ストーリーです。


私は、昔、真田広之・薬師丸ひろ子主演の映画を夢中で見た記憶があります。(里見八犬伝:BS朝日)

また、最近、BS朝日でこの映画の再放送があったので見直しましたが、若いころの千葉真一(ゝ大法師)、夏木マリ(玉梓)、
目黒裕樹(玉梓の息子)、京本政樹(八犬士の一人)、志穂美悦子(八犬士の一人)なども出演していて懐かしかったです。

しかし創作とは言え、小説の冒頭部分の里見氏初代の里見義実が、多くの困難な戦いを経て、常陸国から再興をかけて
安房国へ入国したのは史実です。


(八犬士:館山城のパンフレットから)


(歌舞伎「芳流閣屋根上」の場のジオラマ:館山城のパンフレットから)


(八犬士の犬塚信乃と犬飼現八が、日光街道・古河宿の芳流閣の屋根の上で、一騎打ちをする歌舞伎「芳流閣屋根上」の場の錦絵:館山城のパンフレットから)



それではここで、少し長くなりますが、先ず「南総里見八犬伝」のあらすじを、以下にご紹介しておきます。

 ときは戦国時代、安房国・滝田の城主になった里見義実(よしざね)には、伏姫(ふせひめ)という美しい娘がいました。

 里見義実は、隣国の館山城主・安西景連(かげつら)の攻撃を受け、落城寸前となります。

 追い詰められた義実は、愛犬の「八房(やつふさ)」に、戯れで、”敵将の首を取れば、伏姫を与えよう”と言ってしまいます。
 八房は、敵陣に乗り込み、景連に襲いかかって、その首を食いちぎって戻って来ます!

 約束だからと、八房は、伏姫を背に乗せ、山の中の洞窟へと走り去ります。

 伏姫の婚約者の金碗大輔(かなまりだいすけ)は、姫を取り戻しに洞窟へ行きます。

 大輔が、八房を見つけ、鉄砲隊が一斉射撃をすると、弾は八房を貫きますが、八房を庇おうとした伏姫をも討ち抜いてしました・・

 伏姫は、このとき、八房の霊気を受けて8人の子を宿しており、その子らが里見家を永く守ると告げて息を引きとります。
 その時、姫の首にかけられていた「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が空へ飛び散ります。

 婚約者の大輔は、出家して「ゝ大(ちゅだい)法師」となり、飛び散った八つの玉の行方をもとめて旅に出ます。

 そして、大輔は、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉を持つ「八犬士」と、次々と色々なところで巡り合います。

 以前に、里見義実が、逆臣・山下定包を誅した際に、その妻・玉梓(たまずさ)を斬首しました。

 そして、大輔と八犬士の一行は、里見を恨むこの玉梓の怨霊の呪いに行く手を阻まれます。

 しかし、一行は、これらの呪いを打ち破り、二十数年ぶりに、八犬士を里見義実のもとへ連れ帰りました。


(里見八犬伝:BS朝日)


(里見八犬伝:BS朝日)


(里見八犬伝:BS朝日)


(里見八犬伝:BS朝日)


(里見氏に恨みをもつ妖怪・玉梓の館 :BS朝日・里見八犬伝)


(里見八犬伝:朝日BS)

「館山城(八犬伝博物館)」の館内には、江戸時代に曲亭(滝沢)馬琴によって著わされた「南総里見八犬伝」
の資料が数多く展示されています。

「南総里見八犬伝」の全106冊の原本の他、八犬伝双六などが、ところ狭しと並んでいます。

特に「南総里見八犬伝」の名場面を描いた錦絵は、各場面が生き生きと描かれているので面白いです。

(古河宿の屋根上での決闘の後、信乃と現八が、利根川を下って行徳の入江にたどり着いた様子を描いた歌川豊国の錦絵「行徳の入江」:館山城のパンフレットから)


また、昭和49年からNHKで放送された人形劇「新八犬伝」の辻村ジュサブロー作成の人形や台本も展示されています。

当時のビデオも放映されていて懐かしいです。

資料館を見学し終わり、最上階の館山城の天守閣に上ります。



天守閣からは、館山の市街地を一望出来ます。

市街地の先には、美しい館山湾が広がり、桟橋の手前には、一昨年訪れた館山の観光拠点「渚の駅・たてやま」の
建物も見えます。(赤丸印)
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震災後の熊本城

2017-04-20 09:02:19 | Weblog

(写真は、熊本城を背景に走る市電)


熊本大地震から1年が経ちました。

私は、地震で崩壊した我が家の墓を修復するために、先月末(3月27日~31日)に、実家の熊本へ帰省しました。

そして、帰省期間中に、震災後の熊本城を訪れてみました。

熊本城は、現在、熊本地震による修復中のため、本丸などへの立ち入りが規制されています。

しかし、二の丸広場周辺からの被災した熊本城の外観の見学や、城内の食事処での食事は可能です。

以下に、被災した現在の熊本城の”悲しい”姿をカメラに収めて来ました。


「飯田丸 五階櫓(やぐら)」:“一本足”の石垣で支えている姿がすっかり有名になりました。


「未申櫓」(ひつじさるやぐら):櫓は被害が少なかったものの、写真左手の石垣は大きく崩落しています。


「戌亥櫓」(いぬいやぐら):戌亥櫓は、角石一列で姿を保っています!


(左から)「小天守、宇土櫓、大天守」:重要文化財の宇土櫓は持ち堪えたものの、手前の西出丸の塀は倒壊しました。


「加藤神社」:現在、加藤清正を祀っている加藤神社への参拝は可能で、天守と宇土櫓が並ぶ絶景を真近に見ることが出来ます。


(加藤神社から望む)「小天守と大天守」:望遠で撮影すると、屋根の部分の損壊が酷いのが分かります。





「馬具櫓」:5月10日の余震で石垣が崩れました。


「長塀」:242メートルもある日本で最長の塀が倒壊しました。


上の写真の説明板は、被災前と被災後の長塀です。




上の写真は、復元のために番号が振られた石垣です。


「熊本城稲荷神社」:加藤清正公が肥後の国主として入国した際に、熊本城の守り神として勧請された神社ですが、
境内には、重機が入って急ピッチで復旧が進んでいます。


本来は、熊本城一帯は、絶好の花見スポットで、今年も、お花見の提灯が準備されていました。
(昨年の熊本城のお花見については、2016/4の「今年のお花見・熊本城」を見てね。)
しかし、今年の熊本は異常な寒さで、本来なら桜満開の時期である3月末なのに、未だ蕾で一輪の花もありませんでした・・・


城内にある写真の「城彩苑」には、熊本のご当地グルメ店や土産店があり、被災後も、観光客で賑わっています。







城彩苑の中には、写真の「湧々座」があり、映像、芝居、展示物などで、熊本城の歴史を楽しく体験出来ます。

(湧々座については、2013/7の「熊本城散歩」を見てね。)

熊本と言えば、「馬刺し」と「ラーメン」です。


城彩苑の中の写真の「桜道」で、「馬刺し三種盛り」(1,700円)を注文します。

新鮮で上品な味の馬肉で美味しい!


(城の前の加藤清正像)


(熊本市役所前の加藤清正の兜のオブジェ)

今週のNHK特番では、今回の地震で崩落した石垣は、大部分が明治以降の改修のもので、加藤清正が築いた石垣は
今回の大地震にも耐えてほとんど無傷だったそうです。

特番によると、熊本城の築城開始の直前に大地震による伏見城崩壊を目前にした清正は、地震対策として、あの美しい
石垣の傾斜”武者返し”を考案したとのこと。

やはり、熊本の英雄・加藤清正は偉い!


全体として、熊本城の復旧は、まだまだこれからといった感じでしたが、復元向け着実に作業が行われていました。


お城を出て、熊本の中心街へ向かいます。

熊本と言えば、「馬刺し」と「ラーメン」です。

熊本の市街地の写真の「桂花(けいか)」で、熊本ラーメンを注文します。

(桂花は、新宿、渋谷、横浜などにも支店があります。)
久し振りの熊本ラーメン固有のこってりとした豚骨スープで美味い!


熊本の中心街の表通りは、綺麗に復旧していますが、一歩、裏通りに入ると、未だ、地震の影響でブルーシートや
囲いをして作業をしている家やビルも散見されます。



3月31日に、熊本空港から帰京しましたが、空港内には、写真の様に”完全復旧”の掲示板がありました。
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JR御殿場線・山北駅  

2017-04-15 10:50:38 | Weblog

(写真は、桜と菜の花をバックに走る御殿場線の電車)

先週は、月曜(4/3)に「水元公園」、木曜(4/6)に「三ツ池公園」、金曜(4/7)に「大岡川夜桜クルーズ」と、忙しく桜見物をしました。

その後は、週末から雨との天気予報だったので、今年のお花見はもう諦めていました。

しかし、今年の桜は、雨や強風の日が多かった割には、よく持ち堪えていました。

今週の月曜(4/10)は、朝から晴天で、神奈川県の山間部は、今日から満開との予想でした。

と言う訳で、今週の月曜に、「JR御殿場線」に乗って、神奈川県山間部の最西端「山北町」に桜見物に行って来ました。

実は「JR御殿場線・山北駅」は、”桜や菜の花をバックに鉄道写真を撮影できる”数少ないスポットとして、「撮り鉄」ファンの間では有名な駅なのです。

JR横浜(8:21)→(JR東海道線)→(9:05)国府津(9:10)→(JR御殿場線)→山北(9:35)


昭和9年に「丹那トンネル(熱海~沼津)」が開通するまでは、実は「JR御殿場線」は「東海道本線」で、山北駅は「東海道本線」の主要駅でした。

山北駅から御殿場駅方面へは、急勾配の難所だったので、この急勾配を蒸気機関車で登るために、後押し用の機関車をもう1台、山北駅で連結していました。

しかし、丹那トンネルの開通によって、山北駅は、東海道本線の主要駅から、ローカル線の御殿場線の無人駅に転落してしまいました・・・

下の写真の山北駅の脇の「山北鉄道公園」は、旧国鉄時代に繁栄した山北機関区の跡地です。



第一阿房列車 (新潮文庫)
内田 百けん
新潮社

汽車好きで知られた作家の「内田百閒(ひゃっけん)」は、小説「第一阿房(あぼう)列車」の中で、往時の「山北駅」の活況を次の様に記述しています。

 ”昔、国府津から御殿場へ上がって行くには、どの急行でも皆山北駅に停まって、汽車の尻にもう一つ後押しの機関車をつけた。

  山北駅は山間の小駅なのに、大きな機関車庫があって、たくましそうな機関車が幾台も並び、短い煙突からもくもくと煙を吐いていた。”

(”大きな機関車庫”:山北町観光協会の展示写真から)


(山北駅構内:山北町観光協会の展示写真から)

そして、山北駅の不幸は、丹那トンネルの開通だけではありませんでした・・・

東海道本線の支線になった御殿場線の線路は、1本外されて、複線だったレールが単線になってしまいました。
なにも、線路を剥がしてしまわなくても・・・、酷い

更に、国鉄の分割民営化により、御殿場線の神奈川県側の起点の「国府津(こうず)駅」が、JR東日本とJR東海の境界になるという不幸に見舞われます。

そのために、同じ神奈川県内なのに、横浜から山北へJRで行くのにスイカが使えないのです・・・



早朝にJR横浜駅から東海道本線に乗り、国府津駅で御殿場線に乗り換え、山北駅で下車します。





山北駅の前には、レトロ調の山北循環バスが止まっており、駅前の建物もレトロで雰囲気があります。



山北循環バスの背後の建物は、山北町観光協会で、ここの2階に、往時の山北駅の活況を示す写真が展示されています。

(明治末期の山北駅前商店街 :山北町観光協会の展示写真から)


(山北駅構内のD52 :山北町観光協会の展示写真から)


駅の脇の「山北鉄道公園」には、昭和43年まで走っていたSLの「D52」が、写真の様に、綺麗に手入れされて保存されています。


取り敢えず朝食をとるために、駅の横の観光客のための飲食用の広場で、きつねうどんを食べます。

さっと朝食を済ませ、写真撮影のスポットを探しながら、桜並木を歩いて行きます。


山北駅周辺の線路上のどの橋にも、”撮り鉄”と観光客が大勢いて、30分に1本の電車をカメラを構えて待っていました。



線路上の橋の上で、何とかスペースを確保し、本日の目的の”桜と菜の花をバックに走る御殿場線の電車”の撮影に成功しました!
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大岡川・夜桜クルーズ  (横浜市)

2017-04-11 15:30:57 | Weblog

(写真は、大岡川の夜桜クルーズ)

先週の月曜(4/3)に葛飾区の「水元公園」、木曜(4/6)に地元の「三ツ池公園」の桜見物をしましたが、
その後は週末から雨との天気予報で、今年のお花見はもう諦めていました。

しかし、金曜日(4/7)は、午後から晴れの天気予報に変わったので、急遽、インターネットで大岡川お花見
クルーズを申込みました。

21:00のコースに1席だけ空きがありました。

昨年の同じ時期には、目黒川クルージングに行きましたが、地元の大岡川の桜は、果たして東京の目黒川の桜に
勝てるのでしょうか?

(昨年の目黒川クルージングについては、2016/4の「今年のお花見(目黒川クルーズ」)を見てね。)

ちなみに、神奈川県内のお花見人気度ランキングでは、大岡川プロムナードは、堂々の第1位です!

夜になってから我が家を出て、東横線に乗り、みなとみらい駅で下車します。




みなとみらいの中の大道芸や、ドッグヤードのプロジェクションマッピングを横目で見ながら歩いて行くと、
集合場所の「帆船日本丸」の前に着きました。


「みなとみらい夜景と大岡川夜桜クルーズ」:料金:3,000円、運航時間:50分、出航場所:帆船日本丸の海側、運営:レクシステム

クルーズ船の定員は40人で、お客は、会社の仕事帰りのグループ、家族連れ、おば様達、カップルと様々です。


定時の21:00に、クルーズ船は出港しました。


明治時代の臨港鉄道のレールが残る「汽車道・遊歩道」の橋の下をくぐり、大岡川に入ります。


大岡川は橋が多く、クルーズ船は、JR根岸線、国道16号、首都高横羽線の他、多くの橋の下を次々にくぐります。



上の写真は、長屋風の2階建てが連なる有名な「ハーモニカ横丁」です。

とにかく安いことで有名な60軒以上のバーと飲食店が連なります。
1階は飲食店、2階は”ハシゴ飲みの聖地”である狭いバーがひしめきます。
金曜の夜ということもあり、酔っぱらい客で盛り上がっている様です。


両岸の桜の並木が見えてきます。















日中の強風も収まり、満月の空の下、運河の様な大岡川を更に進んで行きます。

この大岡川沿いには、桜並木が続いており、約700本の桜を堪能出来ます。


上の写真の「長者橋」の上からの桜並木が一番のビューポイントだそうです。



(旭橋)


(黄金橋)


(太田橋)

川岸の両側に、桜の枝が張り出していて絶景です!

桜は川面へ向かって枝を延ばしているので、船上から手の届きそうなところまで枝垂れています。

クルーズ船は、川面に大きく張り出した桜の枝のすぐ下まで寄せてくれ、サービス精神旺盛です。


右手に京浜急行線が並走します。(写真の赤丸印)


左手には、桜の木の下に露店が出ています。

川岸のお花見の人々を下から見上げます。

橋の上や川岸の人達が、クルーズ船に向かって、手を振って歓声を上げているので、我々も船上から応じます。


川を遡り、白金橋の手前でUターンします。


Uターンして黄金橋まで戻ってくると、真正面にランドマークタワーが見えてきます。







観覧車や遊園地のジェットコースター、結婚式場等も真近かに見えます。








”満開の大岡川の夜桜”が見られて、その上に「みなとみらいの夜景」までオマケに付いて3,000円!
「大岡川夜桜」クルーズは、お得なお薦めコースでした。
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三ツ池公園 (横浜市) ”日本さくら名所100選”

2017-04-08 17:08:05 | Weblog

(写真は、「三ツ池公園」の桜)

テレビニュースでは、今週末は雨模様なので、既に満開となった桜の見物は、早めに済ませる様にと報じていました。
と言う訳で、一昨日の木曜日(4/6)に、手っ取り早く地元横浜の「三ツ池公園」の桜見物に行って来ました。
最寄りのバス停へ向かう途中の、下の写真の近所のお宅の庭の枝垂れ桜も満開です。



我が家の最寄りのバス停である新横浜駅前から、JR鶴見駅西口行きのバスで15分の「三ッ池公園北門」で下車、
徒歩3分で「三ッ池公園」です。







(公園入口の案内板)

「三ツ池公園」は、「日本さくら名所100選」にも選ばれています。

神奈川県内の花見人気度ランキングでは、大岡川プロムナードに続いて、堂々の第2位です。

公園内の桜は、約1,600本です。

ソメイヨシノ以外にも、77品種もの多様な桜の花が楽しめます。

”三ツ池”公園は、名前の通り、公園の中心にある”3つの池”が由来です。

この池は、もともと農業用の溜池だったものを、公園として整備したものだそうです。

3つの池の周りの回遊式の歩道を、下の池→中の池→上の池の順に、満開の桜を楽しみながら散策します。













































(横濱緋桜)


公園内の売店では、崎陽軒のシュウマイ弁当だけが販売されていました。

シュウマイが嫌いな人は、弁当持参が必要みたいです・・・


(大砂場)


(コリア庭園)



(テニスコート)
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水元公園(葛飾区) 桜の名所

2017-04-03 20:06:15 | Weblog

(写真は、今日の水元公園の桜)

テレビニュースでは、東京の桜は満開と報じています。

と言う訳で、本日(4/3)、都心に出たついでに、水元公園(葛飾区)の桜を見物して来ました。


JR常磐線・金町駅で降りて、駅の前の団地の中を抜けて、岩槻街道に出ます。





岩槻街道を少し歩いた右手に、創建六百年を誇る「南蔵院」があります。


境内には、「大岡裁き(注)」で有名な「しばられ地蔵尊」があります。







(注)大岡裁き
  将軍吉宗の時代、南蔵院の境内で、日本橋の呉服問屋の手代が居眠りしている間に、反物を荷車ごと盗まれてしまいました。

  調べに当たった南町奉行・大岡越前守は、「泥棒の所業を見過ごした地蔵も同罪、縄打って召し捕れ」と命じました。

  かくして地蔵が縛られて南町奉行所へ送られると、物見高い野次馬が奉行所に詰めかけます。
   すると、越前守は、いきなり門を閉めさせ、「天下のお白州に乱入するとは不届至極、罰として反物一反の科料を申し附ける。」

   奉行所には反物の山が出来ました。
  反物の山を調べると、その中から盗品が出てきて、それをきっかけに大盗賊団が一網打尽になりました。

   越前守は、地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立して、盛大な縄解き供養を行いました。

   以来、願掛けのときは「しばられ地蔵尊」を縛り、願いが叶えば縄解きする様になりました。

 
(南蔵院のパンフレットから)

下の写真は、境内にある撫でると出世するという「出世牛」 です。

わたしも撫でましたが、リタイアしたので、もう手遅れです・・・


この縛られ地蔵の南蔵院の塀の向こうは、もう水元公園です。

「水元公園」は、住宅が密集する葛飾区で、何と、”東京ドーム20個分”の広さです!

水元公園は、まるで嘘のような、信じられない広さです!

園内には、芝生の中央広場、せせらぎ広場、花菖蒲園、バードサンクチュアリ、キャンプ広場、アスレチックス、ドッグラン等々があり、一日ではとても回り切れません。

東京23区内のJR駅の近くに、何故、この様な広大な公園が存在するのか、理解に苦しみます・・・
東京は奥が深い!

水元公園の中心には、巨大な池があります。

この池は、江戸時代に、川を堰き止めて造られた用水池で、”灌漑(かんがい)用水の元”というのが、「水元」(みずもと)の地名の由来です。


公園沿いの土手は、約700本のソメイヨシノの並木道です。

桜は未だ5分咲きというところでしょうか。











桜のピンク、菜の花の黄色、空の青のコントラストが綺麗です!





公園の中央部分を貫く歩道は、歩いても歩いても、ポプラ並木・メタセコイア並木が延々と続きます。

ホントに、北海道の公園にいる様な錯覚に陥ります。



林の中では、モデルの撮影も・・・


湿地帯もあります。



野鳥を撮影している人も多いです。

人よりも野鳥の方が数が多いカモ・・・

都内では非常に珍しい野鳥が、普通に公園内を飛び交っています。

私の足元にも野鳥が・・・



(大芝生広場)

(大芝生広場)


(花菖蒲園)


(キャンプ広場)

他にも、アスレチックス施設、ドッグラン広場等々、色々とあります。

また、広大な公園内には、何と!、トイレが18ヶ所もあります。



大きな池の対岸は、もう埼玉県の三郷(みさと)市で、お花見の人々が遠くに見えるのは「みさと公園」です。
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映画 「この世界の片隅に」 感想

2017-03-31 11:49:41 | Weblog

(写真は、映画「この世界の片隅に」のパンフレットから。)

私のブログは、テーマをウォーキングに絞っているので、基本的にはウォーキングに関係のない映画評や書評は書かないことにしているのですが、今回は特別に筆をとりました。

映画「この世界の片隅に」は、同名の原作漫画=こうの文代、監督=片渕須直、主人公の声=能年玲奈で、監督の片渕はジブリで宮崎駿の元にいた人らしいです。

今月、日本アカデミー賞授賞式で、「君の名は。」を抑えて、最優秀アニメーション賞を受賞しました。

以下、映像は全て、映画館で購入したパンフレット(1,000円)からです。


物語の舞台は、第二次世界大戦中の広島県・呉市です。

昭和19年、呉に嫁いできた18歳の絵が得意な女の子「すず」が、戦時下の苦しい生活のなかでも、たくましく懸命に生き抜く姿が
描かれた作品です。

いわゆる”普通の日常”が描かれているだけですが、テンポが良くて間延びしていないところが素晴らしいです。

これまでの似たタイプの映画といえば、「火垂るの墓」を思い出しますが、これとは対照的な全く異なるトーンの映画です。

全編が悲しいトーンに包まれた「火垂るの墓」に対し、「この世界の片隅に」は、戦時下のリアルな日常の生活感溢れる
”前向き”の映画です。

これまでの多くの戦争映画は、軍隊での経験や戦場の描写が中心でした。

しかし、この映画は、戦時下に普通に生きて、普通過ぎたために切り捨てられてしまった当時の”日常”を、丁寧に丹念に
掘り起こして描いています。

従って、戦争経験のない我々も、この映画のお蔭で、戦時中の暮らしを“疑似体験”することが出来ます。

また、当時の日常生活を描いた映画とは言いながら、空襲に高射砲で対抗する臨場感溢れる戦闘シーンも一部にはあり、見ていると
戦時下の世界にどんどん引き込まれていきます。


この映画は、所謂、反戦映画の範疇に入るのでしょうが、反戦映画にこんな描き方もあったのか!、と不意を突かれたような感じでした。

普通の反戦映画とは逆の雰囲気の”前向き”の映画で、日常の生活感に溢れています。

しかし、戦争は進み、舞台の呉市は、海軍の根拠地だったために何度も空襲に襲われます。

その様な中で、主人公は、空襲で姪を失い、また母は原爆で即死、父は戦病死、そして自らも片方の腕を失ってしまいます。

ネタバレになるといけないので、これ以上のストーリーの紹介は控えますが、一つだけ、私が最も驚いたシーンについて述べます。

それは、おっとりとして抜けている主人公のすずが、終戦の玉音放送を聴いたときの意外なリアクションでした!

玉音放送に対する一般庶民のリアクションというのは、既に観念化されていて、脱力感や安堵感に襲われて、うなだれながら放送を聞く、
というシーンだと思っていました。

しかし、玉音放送を聞いた主人公は、「なんで? まだ負けてないのに!」、「ここに未だ5人も残っている。私は未だ左手も両足もある」
と、両手を握りしめながら、悔しがって、泣き叫びます!


このセリフに、私は思わず震えてしまいました。

そして、実際、当時の一般庶民のホントのリアクションというのはどうだったんだろうなあ~、と考え込んでしまいました・・・

主人公は、空襲や原爆で、両親や親戚や友人を失い、自らも片腕を失いました。

そう考えると、玉音放送で「怒る」というのは、人間としては、ごく自然で、リアルなリアクションなのかなあ~、という気がしてきました。

この戦争は、脱力感や安堵感に包まれて玉音放送を聞くには、あまりにも犠牲が多すぎたのだと思います。

間もなく、戦争体験者だけではなくて、当時の日常生活の様子や景色などを緻密に再現出来る人がいなくなります。

そういう意味で、この様なレベルの高い”戦争映画”はこれが最後だろうと思い、今回は特別に筆をとりました。


また、この映画は、クラウドファンディングによって制作資金を集めたことでも話題になりました。

原作漫画の映像化を強く望んだファンによって、目標額の2倍近い4,000万円が集まったそうです。

2千円、5千円、1万円、10万円、30万円、100万円の6コースがあり、1万円以上の約3,000名は、映画のエンドロールに名前が延々と
出てきました。
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首都高速道路・横浜北線 開通 (事前イベント)

2017-03-20 17:00:45 | Weblog

(写真は、横浜北線開通のTVニュース)


一昨日(18日(土))に開通した「首都高・横浜北線」の1週間前の”事前ウォーク”に、11日(土)に行って来ました。





高速道路ウォークについては、これまでに、「圏央道・寒川北~海老名」と、
「圏央道・相模原愛川~高尾山」で、ご紹介しました。

3回目となる今回の”高速ウォーク”は、首都高・横浜北線の開通前に、高速道路上を歩くことができるイベントです。(無料)

先着順1万人でしたが、これまでの高速ウォークの経験で、その楽しさにハマってしまった私は、直ぐにインターネットで
申込みしました。

「横浜北線」は、首都高・横羽線(生麦)と、第三京浜(港北)を結ぶ約8キロの高速で、うち6キロがトンネルです。

横浜北線の開通により、我が家も、新横浜から羽田空港へのリムジンバスが40分から30分へと短縮されより便利になります。

今回のトンネルウォークの集合場所は、地下鉄・北新横浜駅から徒歩10分の「横浜北線」の「新横浜出入口」でした。

翌週の開通にも拘わらず、未だ、一部では工事が続いていました。

普段は歩行者立ち入り禁止の高速道路を歩ける最後の機会とあって、かなりの人気で、たくさんの参加者がトンネルを
目指して歩いています。



新横浜出入口の料金所の電光表示板には、写真の様に「トンネルウォークにようこそ!」「横浜北線がキタ!」
と表示されています。


湾岸線の方向と第三京浜の方向を示す標識があります。












やがて、新横浜出入口の料金所ゲートです。





横浜北トンネルに入ります。

信号は防災用だそうです。


トンネル内には、自動火災検知器を25メートル間隔で設置、100メートル間隔でカメラが設置されています。

また、トンネル内では、設備や標識などの様々なパネル展示が行われていました。

トンネルの中は薄暗いですが、スタッフが大勢いて、質問に親切に答えてくれ、ゆるキャラも出迎えてくれます。





非常電話は、カバーを開けて、ボタンの押し方などを説明してくれます。


上の写真の泡消火栓などの防災施設の説明を受けながら進みます。


本日だけのための高速道路上の仮設トイレもあります。




また、トンネル内のプロジェクションマッピングやライトアップ等もやっていて、サービス精神旺盛です。











スライド式の非常口を開けて入ってみると、階段を使った避難通路です。





また、緊急脱出用のすべり台式の非常口体験もあり、こちらは大人気でした。



私も、二度と経験することは無いであろう非常口の滑り台を滑り降りて、貴重な体験をしました。

すべり台は、結構急な傾斜なので、足でブレーキを掛けながら降りました。







また、写真の火災時の水噴霧の装置のデモンストレーションも見学出来ました。


更に、「高速道路ではたらくクルマ」の展示もやっていて、普段ほとんど見る事のない首都高パトカー、特殊消防車、
トンネル内清掃車、標識車なども展示されていて楽しめます。













特に、トンネルの天井を点検する特殊車両の前には、ちびっこの行列が出来ていて、天井の点検作業体験は大人気でした。






(ジェットファン)


中間地点でUターンして、集合地点へ戻ります。

最後には、たくさん入ったお土産袋まで貰って、お金を掛けずに大満足の半日でした。
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