ウォーク更家の散歩 (東海道を歩く、中山道を歩く)

「東海道五十三次を歩く・完全踏破の一人旅」
(http://www.minedayo.com/)

「南総里見八犬伝(2/2)」(八犬士の墓)

2017-04-27 21:04:33 | Weblog

(写真は、「南総里見八犬伝」の八犬士のモデルとなった「八遺臣」の墓)


4/4 に、「館山城」(八犬伝博物館)へ行った話しの続きです。


「館山城」の麓の公園に、写真の「里見茶屋」があったので、土産物を覗いてみます。

里見八犬伝関係のお土産を色々と売っています。


何と、下の写真の”八犬士の霊玉”も売っています!

1個2,800円なので、8個で22,400円ですが、果たして、この霊玉を買う人はいるのでしょうか?


私は、お土産に写真の「八犬伝まんじゅう」を買いました。







「館山城」(八犬伝博物館)の前には、下の写真の「千力猿」の石像があります。


かって、里見家では、千人力の怪力を誇る猿が飼われていました。
この怪力を誇る猿は、しばしば戦にも出陣し、戦場で大活躍しました。

しかし、猿使いの家老が留守の間に敵に攻め込まれ、館山城は炎に包まれてしまいます。

館山城の近くの沼地区には、この千力猿の頭蓋骨が残されているそうです。

「千力猿」の石像がある館山の頂上から、館山駅から歩いて来た坂道と反対側の坂道へ向かいます。




里見氏9代・義康の御殿跡の前を通って、「八遺臣の墓」を探しながら、坂道を下りて行きます。


分かり辛い「八遺臣の墓」の案内標識に従って行くと、急な坂道の途中に、苔むした「八遺臣の墓」が
ひっそりとありました。







1622年、最後の当主・里見忠義が鳥取県倉吉で没した際に、8人の家臣が殉死しました。

その8人の家臣の遺骨を分骨し、ここに供養したのだそうです。

この殉死した8人の家臣が、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルになったそうです。

「八犬伝」の最初は、史実の通り、里見氏・初代の義実の安房への入国の物語に始まります。

しかし、江戸時代になって、里見家には内紛が発生したため、幕府に目を付けられ、伯耆国(鳥取県)
倉吉へ転封になります。

その後、最後の当主・里見忠義には跡継の嫡子がなく、歴史上では、このときに里見家は断絶しました。

しかし、「八犬伝」では、最後は、八犬士の活躍により、この後も里見家は繁栄を続けます。


八遺臣の墓から、更に、急な坂を下って、平地に出ました。


案内標識に従って、9代・里見義康の菩提寺「慈恩院」(じおんいん)を探して、田園風景の中を
歩いて行きます。



慈恩院にお参りして、一休みしたあと、館山湾の海岸線を目指して歩いて行きます。

館山湾の海岸線に出たところで、一昨年の年末(2015/12)に立ち寄った「渚の駅:たてやま」で
遅い昼食を取ります。

この渚の駅の食堂は超人気で大混雑していました。

写真の「海鮮刺身定食」(2,180円)を注文しましたが、順番待ちで、出て来るのに40分くらい
かかりました・・・


昼食を済ませ、「渚の駅」から、海岸線沿いに歩いてJR館山駅に戻りました。

JR館山駅から、電車に乗って、東京方面へ3駅のJR岩井駅で途中下車する予定でした。

JR岩井駅の近くに、八犬伝の伏姫が役行者(えんのぎょうじゃ)から8個の霊玉を授かったという
「役行者の岩窟」があり、これを見物するための途中下車です。

しかし、「海鮮刺身定食」で時間を喰ってしまったため、JR館山駅についたのは、電車が出た直後でした・・・
次の電車まで2時間もあります!


仕方なく「役行者の岩窟」の見物を諦めて、ちょうどやって来たJR館山駅発、横浜駅行きの
ノンストップ高速バスで帰ることにしました。



海ほたる経由で、電車より1時間以上早い1時間50分で横浜駅に帰って来ました。
コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

「南総里見八犬伝(1/2)」(館山城)

2017-04-24 16:56:31 | Weblog

 (写真は、「南総里見八犬伝」の舞台となった「館山城」) 

一昨年の年末(2015/12)に、戦国大名・里見氏の居城であった「館山城(八犬伝博物館)」を見学しようと、
房総・館山を訪れましたが、残念ながら年末年始は休館でした。

この時は、予定を変更して、JR館山駅構内の観光案内所でレンタルサイクルを借りて、館山の海岸を走りました。
(そのときの様子は、(房総半島・館山を見てね。)

そして、今月の4/4 に、ようやく念願の「館山城」(八犬伝博物館)へ行って来ました。


早朝に、横浜駅から横須賀線に乗り、更に内房線に乗り換え、3時間もかけてJR館山駅で下車しました。



そして、JR館山駅から歩いて30分、城山公園の山頂にある「館山城(八犬伝博物館)」にようやく着きました。

「館山(たてやま)」の地名の由来は、里見氏の住む”館(やかた)”がある”山”です。

「館山城」は、1580年に、戦国大名の里見氏によって築城されましたが、1614年に幕府によって取り壊されました。

そして、現在の館山城は、昭和57年に博物館として再建されました。(入館料:400円)

城の内部は、この里見氏を題材にした滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の各種資料を展示した博物館になっています。

館内は撮影禁止なので、以下の写真は、館山城内で購入したパンフレット(300円)と、BS朝日「里見八犬伝」からです。


「南総里見八犬伝」は、江戸時代の文豪・「滝沢(曲亭)馬琴」が、28年もの歳月(1814年~1842年)をかけて
書いた106冊もの長編小説です。

ええっ!、全部で106冊もあったの?、知らなかったなぁ~!
それでは、私が昔見た薬師丸ひろ子主演の映画のストーリーは、そのほんの一部なんだ!、驚き!

この小説は、戦国時代に、ここ安房を拠点に活躍した里見氏の歴史を題材にしてはいますが、内容は全て創作です。
 
「勧善懲悪・因果応報」がテーマで、妖怪が出没するファンタジーな物語だったので、江戸時代には大ヒット作となりました。

歴史上は悲劇の最期を遂げた「里見家」の「伏姫」が、「8人の剣士」と共に大活躍して、お家を再興していくという爽快な
ストーリーです。


私は、昔、真田広之・薬師丸ひろ子主演の映画を夢中で見た記憶があります。(里見八犬伝:BS朝日)

また、最近、BS朝日でこの映画の再放送があったので見直しましたが、若いころの千葉真一(ゝ大法師)、夏木マリ(玉梓)、
目黒裕樹(玉梓の息子)、京本政樹(八犬士の一人)、志穂美悦子(八犬士の一人)なども出演していて懐かしかったです。

しかし創作とは言え、小説の冒頭部分の里見氏初代の里見義実が、多くの困難な戦いを経て、常陸国から再興をかけて
安房国へ入国したのは史実です。


(八犬士:館山城のパンフレットから)


(歌舞伎「芳流閣屋根上」の場のジオラマ:館山城のパンフレットから)


(八犬士の犬塚信乃と犬飼現八が、日光街道・古河宿の芳流閣の屋根の上で、一騎打ちをする歌舞伎「芳流閣屋根上」の場の錦絵:館山城のパンフレットから)



それではここで、少し長くなりますが、先ず「南総里見八犬伝」のあらすじを、以下にご紹介しておきます。

 ときは戦国時代、安房国・滝田の城主になった里見義実(よしざね)には、伏姫(ふせひめ)という美しい娘がいました。

 里見義実は、隣国の館山城主・安西景連(かげつら)の攻撃を受け、落城寸前となります。

 追い詰められた義実は、愛犬の「八房(やつふさ)」に、戯れで、”敵将の首を取れば、伏姫を与えよう”と言ってしまいます。
 八房は、敵陣に乗り込み、景連に襲いかかって、その首を食いちぎって戻って来ます!

 約束だからと、八房は、伏姫を背に乗せ、山の中の洞窟へと走り去ります。

 伏姫の婚約者の金碗大輔(かなまりだいすけ)は、姫を取り戻しに洞窟へ行きます。

 大輔が、八房を見つけ、鉄砲隊が一斉射撃をすると、弾は八房を貫きますが、八房を庇おうとした伏姫をも討ち抜いてしました・・

 伏姫は、このとき、八房の霊気を受けて8人の子を宿しており、その子らが里見家を永く守ると告げて息を引きとります。
 その時、姫の首にかけられていた「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が空へ飛び散ります。

 婚約者の大輔は、出家して「ゝ大(ちゅだい)法師」となり、飛び散った八つの玉の行方をもとめて旅に出ます。

 そして、大輔は、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉を持つ「八犬士」と、次々と色々なところで巡り合います。

 以前に、里見義実が、逆臣・山下定包を誅した際に、その妻・玉梓(たまずさ)を斬首しました。

 そして、大輔と八犬士の一行は、里見を恨むこの玉梓の怨霊の呪いに行く手を阻まれます。

 しかし、一行は、これらの呪いを打ち破り、二十数年ぶりに、八犬士を里見義実のもとへ連れ帰りました。


(里見八犬伝:BS朝日)


(里見八犬伝:BS朝日)


(里見八犬伝:BS朝日)


(里見八犬伝:BS朝日)


(里見氏に恨みをもつ妖怪・玉梓の館 :BS朝日・里見八犬伝)


(里見八犬伝:朝日BS)

「館山城(八犬伝博物館)」の館内には、江戸時代に曲亭(滝沢)馬琴によって著わされた「南総里見八犬伝」
の資料が数多く展示されています。

「南総里見八犬伝」の全106冊の原本の他、八犬伝双六などが、ところ狭しと並んでいます。

特に「南総里見八犬伝」の名場面を描いた錦絵は、各場面が生き生きと描かれているので面白いです。

(古河宿の屋根上での決闘の後、信乃と現八が、利根川を下って行徳の入江にたどり着いた様子を描いた歌川豊国の錦絵「行徳の入江」:館山城のパンフレットから)


また、昭和49年からNHKで放送された人形劇「新八犬伝」の辻村ジュサブロー作成の人形や台本も展示されています。

当時のビデオも放映されていて懐かしいです。

資料館を見学し終わり、最上階の館山城の天守閣に上ります。



天守閣からは、館山の市街地を一望出来ます。

市街地の先には、美しい館山湾が広がり、桟橋の手前には、一昨年訪れた館山の観光拠点「渚の駅・たてやま」の
建物も見えます。(赤丸印)
コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

震災後の熊本城

2017-04-20 09:02:19 | Weblog

(写真は、熊本城を背景に走る市電)


熊本大地震から1年が経ちました。

私は、地震で崩壊した我が家の墓を修復するために、先月末(3月27日~31日)に、実家の熊本へ帰省しました。

そして、帰省期間中に、震災後の熊本城を訪れてみました。

熊本城は、現在、熊本地震による修復中のため、本丸などへの立ち入りが規制されています。

しかし、二の丸広場周辺からの被災した熊本城の外観の見学や、城内の食事処での食事は可能です。

以下に、被災した現在の熊本城の”悲しい”姿をカメラに収めて来ました。


「飯田丸 五階櫓(やぐら)」:“一本足”の石垣で支えている姿がすっかり有名になりました。


「未申櫓」(ひつじさるやぐら):櫓は被害が少なかったものの、写真左手の石垣は大きく崩落しています。


「戌亥櫓」(いぬいやぐら):戌亥櫓は、角石一列で姿を保っています!


(左から)「小天守、宇土櫓、大天守」:重要文化財の宇土櫓は持ち堪えたものの、手前の西出丸の塀は倒壊しました。


「加藤神社」:現在、加藤清正を祀っている加藤神社への参拝は可能で、天守と宇土櫓が並ぶ絶景を真近に見ることが出来ます。


(加藤神社から望む)「小天守と大天守」:望遠で撮影すると、屋根の部分の損壊が酷いのが分かります。





「馬具櫓」:5月10日の余震で石垣が崩れました。


「長塀」:242メートルもある日本で最長の塀が倒壊しました。


上の写真の説明板は、被災前と被災後の長塀です。




上の写真は、復元のために番号が振られた石垣です。


「熊本城稲荷神社」:加藤清正公が肥後の国主として入国した際に、熊本城の守り神として勧請された神社ですが、
境内には、重機が入って急ピッチで復旧が進んでいます。


本来は、熊本城一帯は、絶好の花見スポットで、今年も、お花見の提灯が準備されていました。
(昨年の熊本城のお花見については、2016/4の「今年のお花見・熊本城」を見てね。)
しかし、今年の熊本は異常な寒さで、本来なら桜満開の時期である3月末なのに、未だ蕾で一輪の花もありませんでした・・・


城内にある写真の「城彩苑」には、熊本のご当地グルメ店や土産店があり、被災後も、観光客で賑わっています。







城彩苑の中には、写真の「湧々座」があり、映像、芝居、展示物などで、熊本城の歴史を楽しく体験出来ます。

(湧々座については、2013/7の「熊本城散歩」を見てね。)

熊本と言えば、「馬刺し」と「ラーメン」です。


城彩苑の中の写真の「桜道」で、「馬刺し三種盛り」(1,700円)を注文します。

新鮮で上品な味の馬肉で美味しい!


(城の前の加藤清正像)


(熊本市役所前の加藤清正の兜のオブジェ)

今週のNHK特番では、今回の地震で崩落した石垣は、大部分が明治以降の改修のもので、加藤清正が築いた石垣は
今回の大地震にも耐えてほとんど無傷だったそうです。

特番によると、熊本城の築城開始の直前に大地震による伏見城崩壊を目前にした清正は、地震対策として、あの美しい
石垣の傾斜”武者返し”を考案したとのこと。

やはり、熊本の英雄・加藤清正は偉い!


全体として、熊本城の復旧は、まだまだこれからといった感じでしたが、復元向け着実に作業が行われていました。


お城を出て、熊本の中心街へ向かいます。

熊本と言えば、「馬刺し」と「ラーメン」です。

熊本の市街地の写真の「桂花(けいか)」で、熊本ラーメンを注文します。

(桂花は、新宿、渋谷、横浜などにも支店があります。)
久し振りの熊本ラーメン固有のこってりとした豚骨スープで美味い!


熊本の中心街の表通りは、綺麗に復旧していますが、一歩、裏通りに入ると、未だ、地震の影響でブルーシートや
囲いをして作業をしている家やビルも散見されます。



3月31日に、熊本空港から帰京しましたが、空港内には、写真の様に”完全復旧”の掲示板がありました。
コメント (10)
この記事をはてなブックマークに追加

JR御殿場線・山北駅  

2017-04-15 10:50:38 | Weblog

(写真は、桜と菜の花をバックに走る御殿場線の電車)

先週は、月曜(4/3)に「水元公園」、木曜(4/6)に「三ツ池公園」、金曜(4/7)に「大岡川夜桜クルーズ」と、忙しく桜見物をしました。

その後は、週末から雨との天気予報だったので、今年のお花見はもう諦めていました。

しかし、今年の桜は、雨や強風の日が多かった割には、よく持ち堪えていました。

今週の月曜(4/10)は、朝から晴天で、神奈川県の山間部は、今日から満開との予想でした。

と言う訳で、今週の月曜に、「JR御殿場線」に乗って、神奈川県山間部の最西端「山北町」に桜見物に行って来ました。

実は「JR御殿場線・山北駅」は、”桜や菜の花をバックに鉄道写真を撮影できる”数少ないスポットとして、「撮り鉄」ファンの間では有名な駅なのです。

JR横浜(8:21)→(JR東海道線)→(9:05)国府津(9:10)→(JR御殿場線)→山北(9:35)


昭和9年に「丹那トンネル(熱海~沼津)」が開通するまでは、実は「JR御殿場線」は「東海道本線」で、山北駅は「東海道本線」の主要駅でした。

山北駅から御殿場駅方面へは、急勾配の難所だったので、この急勾配を蒸気機関車で登るために、後押し用の機関車をもう1台、山北駅で連結していました。

しかし、丹那トンネルの開通によって、山北駅は、東海道本線の主要駅から、ローカル線の御殿場線の無人駅に転落してしまいました・・・

下の写真の山北駅の脇の「山北鉄道公園」は、旧国鉄時代に繁栄した山北機関区の跡地です。



第一阿房列車 (新潮文庫)
内田 百けん
新潮社

汽車好きで知られた作家の「内田百間(ひゃっけん)」は、小説「第一阿房(あぼう)列車」の中で、往時の「山北駅」の活況を次の様に記述しています。

 ”昔、国府津から御殿場へ上がって行くには、どの急行でも皆山北駅に停まって、汽車の尻にもう一つ後押しの機関車をつけた。

  山北駅は山間の小駅なのに、大きな機関車庫があって、たくましそうな機関車が幾台も並び、短い煙突からもくもくと煙を吐いていた。”

(”大きな機関車庫”:山北町観光協会の展示写真から)


(山北駅構内:山北町観光協会の展示写真から)

そして、山北駅の不幸は、丹那トンネルの開通だけではありませんでした・・・

東海道本線の支線になった御殿場線の線路は、1本外されて、複線だったレールが単線になってしまいました。
なにも、線路を剥がしてしまわなくても・・・、酷い

更に、国鉄の分割民営化により、御殿場線の神奈川県側の起点の「国府津(こうず)駅」が、JR東日本とJR東海の境界になるという不幸に見舞われます。

そのために、同じ神奈川県内なのに、横浜から山北へJRで行くのにスイカが使えないのです・・・



早朝にJR横浜駅から東海道本線に乗り、国府津駅で御殿場線に乗り換え、山北駅で下車します。





山北駅の前には、レトロ調の山北循環バスが止まっており、駅前の建物もレトロで雰囲気があります。



山北循環バスの背後の建物は、山北町観光協会で、ここの2階に、往時の山北駅の活況を示す写真が展示されています。

(明治末期の山北駅前商店街 :山北町観光協会の展示写真から)


(山北駅構内のD52 :山北町観光協会の展示写真から)


駅の脇の「山北鉄道公園」には、昭和43年まで走っていたSLの「D52」が、写真の様に、綺麗に手入れされて保存されています。


取り敢えず朝食をとるために、駅の横の観光客のための飲食用の広場で、きつねうどんを食べます。

さっと朝食を済ませ、写真撮影のスポットを探しながら、桜並木を歩いて行きます。


山北駅周辺の線路上のどの橋にも、”撮り鉄”と観光客が大勢いて、30分に1本の電車をカメラを構えて待っていました。



線路上の橋の上で、何とかスペースを確保し、本日の目的の”桜と菜の花をバックに走る御殿場線の電車”の撮影に成功しました!
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

大岡川・夜桜クルーズ  (横浜市)

2017-04-11 15:30:57 | Weblog

(写真は、大岡川の夜桜クルーズ)

先週の月曜(4/3)に葛飾区の「水元公園」、木曜(4/6)に地元の「三ツ池公園」の桜見物をしましたが、
その後は週末から雨との天気予報で、今年のお花見はもう諦めていました。

しかし、金曜日(4/7)は、午後から晴れの天気予報に変わったので、急遽、インターネットで大岡川お花見
クルーズを申込みました。

21:00のコースに1席だけ空きがありました。

昨年の同じ時期には、目黒川クルージングに行きましたが、地元の大岡川の桜は、果たして東京の目黒川の桜に
勝てるのでしょうか?

(昨年の目黒川クルージングについては、2016/4の「今年のお花見(目黒川クルーズ」)を見てね。)

ちなみに、神奈川県内のお花見人気度ランキングでは、大岡川プロムナードは、堂々の第1位です!

夜になってから我が家を出て、東横線に乗り、みなとみらい駅で下車します。




みなとみらいの中の大道芸や、ドッグヤードのプロジェクションマッピングを横目で見ながら歩いて行くと、
集合場所の「帆船日本丸」の前に着きました。


「みなとみらい夜景と大岡川夜桜クルーズ」:料金:3,000円、運航時間:50分、出航場所:帆船日本丸の海側、運営:レクシステム

クルーズ船の定員は40人で、お客は、会社の仕事帰りのグループ、家族連れ、おば様達、カップルと様々です。


定時の21:00に、クルーズ船は出港しました。


明治時代の臨港鉄道のレールが残る「汽車道・遊歩道」の橋の下をくぐり、大岡川に入ります。


大岡川は橋が多く、クルーズ船は、JR根岸線、国道16号、首都高横羽線の他、多くの橋の下を次々にくぐります。



上の写真は、長屋風の2階建てが連なる有名な「ハーモニカ横丁」です。

とにかく安いことで有名な60軒以上のバーと飲食店が連なります。
1階は飲食店、2階は”ハシゴ飲みの聖地”である狭いバーがひしめきます。
金曜の夜ということもあり、酔っぱらい客で盛り上がっている様です。


両岸の桜の並木が見えてきます。















日中の強風も収まり、満月の空の下、運河の様な大岡川を更に進んで行きます。

この大岡川沿いには、桜並木が続いており、約700本の桜を堪能出来ます。


上の写真の「長者橋」の上からの桜並木が一番のビューポイントだそうです。



(旭橋)


(黄金橋)


(太田橋)

川岸の両側に、桜の枝が張り出していて絶景です!

桜は川面へ向かって枝を延ばしているので、船上から手の届きそうなところまで枝垂れています。

クルーズ船は、川面に大きく張り出した桜の枝のすぐ下まで寄せてくれ、サービス精神旺盛です。


右手に京浜急行線が並走します。(写真の赤丸印)


左手には、桜の木の下に露店が出ています。

川岸のお花見の人々を下から見上げます。

橋の上や川岸の人達が、クルーズ船に向かって、手を振って歓声を上げているので、我々も船上から応じます。


川を遡り、白金橋の手前でUターンします。


Uターンして黄金橋まで戻ってくると、真正面にランドマークタワーが見えてきます。







観覧車や遊園地のジェットコースター、結婚式場等も真近かに見えます。








”満開の大岡川の夜桜”が見られて、その上に「みなとみらいの夜景」までオマケに付いて3,000円!
「大岡川夜桜」クルーズは、お得なお薦めコースでした。
コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

三ツ池公園 (横浜市) ”日本さくら名所100選”

2017-04-08 17:08:05 | Weblog

(写真は、「三ツ池公園」の桜)

テレビニュースでは、今週末は雨模様なので、既に満開となった桜の見物は、早めに済ませる様にと報じていました。
と言う訳で、一昨日の木曜日(4/6)に、手っ取り早く地元横浜の「三ツ池公園」の桜見物に行って来ました。
最寄りのバス停へ向かう途中の、下の写真の近所のお宅の庭の枝垂れ桜も満開です。



我が家の最寄りのバス停である新横浜駅前から、JR鶴見駅西口行きのバスで15分の「三ッ池公園北門」で下車、
徒歩3分で「三ッ池公園」です。







(公園入口の案内板)

「三ツ池公園」は、「日本さくら名所100選」にも選ばれています。

神奈川県内の花見人気度ランキングでは、大岡川プロムナードに続いて、堂々の第2位です。

公園内の桜は、約1,600本です。

ソメイヨシノ以外にも、77品種もの多様な桜の花が楽しめます。

”三ツ池”公園は、名前の通り、公園の中心にある”3つの池”が由来です。

この池は、もともと農業用の溜池だったものを、公園として整備したものだそうです。

3つの池の周りの回遊式の歩道を、下の池→中の池→上の池の順に、満開の桜を楽しみながら散策します。













































(横濱緋桜)


公園内の売店では、崎陽軒のシュウマイ弁当だけが販売されていました。

シュウマイが嫌いな人は、弁当持参が必要みたいです・・・


(大砂場)


(コリア庭園)



(テニスコート)
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

水元公園(葛飾区) 桜の名所

2017-04-03 20:06:15 | Weblog

(写真は、今日の水元公園の桜)

テレビニュースでは、東京の桜は満開と報じています。

と言う訳で、本日(4/3)、都心に出たついでに、水元公園(葛飾区)の桜を見物して来ました。


JR常磐線・金町駅で降りて、駅の前の団地の中を抜けて、岩槻街道に出ます。





岩槻街道を少し歩いた右手に、創建六百年を誇る「南蔵院」があります。


境内には、「大岡裁き(注)」で有名な「しばられ地蔵尊」があります。







(注)大岡裁き
  将軍吉宗の時代、南蔵院の境内で、日本橋の呉服問屋の手代が居眠りしている間に、反物を荷車ごと盗まれてしまいました。

  調べに当たった南町奉行・大岡越前守は、「泥棒の所業を見過ごした地蔵も同罪、縄打って召し捕れ」と命じました。

  かくして地蔵が縛られて南町奉行所へ送られると、物見高い野次馬が奉行所に詰めかけます。
   すると、越前守は、いきなり門を閉めさせ、「天下のお白州に乱入するとは不届至極、罰として反物一反の科料を申し附ける。」

   奉行所には反物の山が出来ました。
  反物の山を調べると、その中から盗品が出てきて、それをきっかけに大盗賊団が一網打尽になりました。

   越前守は、地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立して、盛大な縄解き供養を行いました。

   以来、願掛けのときは「しばられ地蔵尊」を縛り、願いが叶えば縄解きする様になりました。

 
(南蔵院のパンフレットから)

下の写真は、境内にある撫でると出世するという「出世牛」 です。

わたしも撫でましたが、リタイアしたので、もう手遅れです・・・


この縛られ地蔵の南蔵院の塀の向こうは、もう水元公園です。

「水元公園」は、住宅が密集する葛飾区で、何と、”東京ドーム20個分”の広さです!

水元公園は、まるで嘘のような、信じられない広さです!

園内には、芝生の中央広場、せせらぎ広場、花菖蒲園、バードサンクチュアリ、キャンプ広場、アスレチックス、ドッグラン等々があり、一日ではとても回り切れません。

東京23区内のJR駅の近くに、何故、この様な広大な公園が存在するのか、理解に苦しみます・・・
東京は奥が深い!

水元公園の中心には、巨大な池があります。

この池は、江戸時代に、川を堰き止めて造られた用水池で、”灌漑(かんがい)用水の元”というのが、「水元」(みずもと)の地名の由来です。


公園沿いの土手は、約700本のソメイヨシノの並木道です。

桜は未だ5分咲きというところでしょうか。











桜のピンク、菜の花の黄色、空の青のコントラストが綺麗です!





公園の中央部分を貫く歩道は、歩いても歩いても、ポプラ並木・メタセコイア並木が延々と続きます。

ホントに、北海道の公園にいる様な錯覚に陥ります。



林の中では、モデルの撮影も・・・


湿地帯もあります。



野鳥を撮影している人も多いです。

人よりも野鳥の方が数が多いカモ・・・

都内では非常に珍しい野鳥が、普通に公園内を飛び交っています。

私の足元にも野鳥が・・・



(大芝生広場)

(大芝生広場)


(花菖蒲園)


(キャンプ広場)

他にも、アスレチックス施設、ドッグラン広場等々、色々とあります。

また、広大な公園内には、何と!、トイレが18ヶ所もあります。



大きな池の対岸は、もう埼玉県の三郷(みさと)市で、お花見の人々が遠くに見えるのは「みさと公園」です。
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

映画 「この世界の片隅に」 感想

2017-03-31 11:49:41 | Weblog

(写真は、映画「この世界の片隅に」のパンフレットから。)

私のブログは、テーマをウォーキングに絞っているので、基本的にはウォーキングに関係のない映画評や書評は書かないことにしているのですが、今回は特別に筆をとりました。

映画「この世界の片隅に」は、同名の原作漫画=こうの文代、監督=片渕須直、主人公の声=能年玲奈で、監督の片渕はジブリで宮崎駿の元にいた人らしいです。

今月、日本アカデミー賞授賞式で、「君の名は。」を抑えて、最優秀アニメーション賞を受賞しました。

以下、映像は全て、映画館で購入したパンフレット(1,000円)からです。


物語の舞台は、第二次世界大戦中の広島県・呉市です。

昭和19年、呉に嫁いできた18歳の絵が得意な女の子「すず」が、戦時下の苦しい生活のなかでも、たくましく懸命に生き抜く姿が
描かれた作品です。

いわゆる”普通の日常”が描かれているだけですが、テンポが良くて間延びしていないところが素晴らしいです。

これまでの似たタイプの映画といえば、「火垂るの墓」を思い出しますが、これとは対照的な全く異なるトーンの映画です。

全編が悲しいトーンに包まれた「火垂るの墓」に対し、「この世界の片隅に」は、戦時下のリアルな日常の生活感溢れる
”前向き”の映画です。

これまでの多くの戦争映画は、軍隊での経験や戦場の描写が中心でした。

しかし、この映画は、戦時下に普通に生きて、普通過ぎたために切り捨てられてしまった当時の”日常”を、丁寧に丹念に
掘り起こして描いています。

従って、戦争経験のない我々も、この映画のお蔭で、戦時中の暮らしを“疑似体験”することが出来ます。

また、当時の日常生活を描いた映画とは言いながら、空襲に高射砲で対抗する臨場感溢れる戦闘シーンも一部にはあり、見ていると
戦時下の世界にどんどん引き込まれていきます。


この映画は、所謂、反戦映画の範疇に入るのでしょうが、反戦映画にこんな描き方もあったのか!、と不意を突かれたような感じでした。

普通の反戦映画とは逆の雰囲気の”前向き”の映画で、日常の生活感に溢れています。

しかし、戦争は進み、舞台の呉市は、海軍の根拠地だったために何度も空襲に襲われます。

その様な中で、主人公は、空襲で姪を失い、また母は原爆で即死、父は戦病死、そして自らも片方の腕を失ってしまいます。

ネタバレになるといけないので、これ以上のストーリーの紹介は控えますが、一つだけ、私が最も驚いたシーンについて述べます。

それは、おっとりとして抜けている主人公のすずが、終戦の玉音放送を聴いたときの意外なリアクションでした!

玉音放送に対する一般庶民のリアクションというのは、既に観念化されていて、脱力感や安堵感に襲われて、うなだれながら放送を聞く、
というシーンだと思っていました。

しかし、玉音放送を聞いた主人公は、「なんで? まだ負けてないのに!」、「ここに未だ5人も残っている。私は未だ左手も両足もある」
と、両手を握りしめながら、悔しがって、泣き叫びます!


このセリフに、私は思わず震えてしまいました。

そして、実際、当時の一般庶民のホントのリアクションというのはどうだったんだろうなあ~、と考え込んでしまいました・・・

主人公は、空襲や原爆で、両親や親戚や友人を失い、自らも片腕を失いました。

そう考えると、玉音放送で「怒る」というのは、人間としては、ごく自然で、リアルなリアクションなのかなあ~、という気がしてきました。

この戦争は、脱力感や安堵感に包まれて玉音放送を聞くには、あまりにも犠牲が多すぎたのだと思います。

間もなく、戦争体験者だけではなくて、当時の日常生活の様子や景色などを緻密に再現出来る人がいなくなります。

そういう意味で、この様なレベルの高い”戦争映画”はこれが最後だろうと思い、今回は特別に筆をとりました。


また、この映画は、クラウドファンディングによって制作資金を集めたことでも話題になりました。

原作漫画の映像化を強く望んだファンによって、目標額の2倍近い4,000万円が集まったそうです。

2千円、5千円、1万円、10万円、30万円、100万円の6コースがあり、1万円以上の約3,000名は、映画のエンドロールに名前が延々と
出てきました。
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

日光街道を歩く(17-2:宇都宮:宿場町) 栃木県宇都宮市

2017-03-25 12:42:52 | Weblog

(写真は、日光街道と奥州街道の分岐点 : 手前の赤矢印が日光街道で、奥へ進む赤矢印が奥州街道。)

日光街道歩きの続きで、早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、JR宇都宮駅へ向かいます。

JR宇都宮駅の前のバス停から、路線バスに乗り、西原三丁目で降ります。

前回は、ここ西原三丁目のバス停から旧日光街道を外れて、”釣天井事件の宇都宮城”を見に行きました。


再び、旧日光街道を歩き始めると、直ぐ左手に、写真の「台陽寺」があります。

台陽寺の入口には、上の写真の「子育て地蔵」があり、境内には下の写真の「子安地蔵」がありました。




台陽寺の並びには下の写真の「熱木(ねぎ)不動尊」があります。



熱木不動尊の中は、暗くて見えませんでしたが、1059年に宇都宮氏が戦勝祈願して彫った木像が
安置されているそうです。


やがて左手の奥に、写真の「一向寺」があります。

一向寺の参道に、下の写真の”汗かき阿弥陀”の説明板がありました。

それによると、世の中に異変が起きると、その前兆として、この寺の阿弥陀様が、身体全体から汗を
かくのだそうです。

関東大震災の前日にも汗をかいたとあります!
驚き!



一向寺の北西の道路向いに下の写真の「報恩寺」があります。

報恩寺の珍しい茅葺きの山門は、1639年の創建当時のままだそうです。

戊辰戦争では、旧幕府軍の攻撃で、新政府軍の宇都宮城は落城しますが、その後、新政府軍の応援部隊が到着します。

この報恩寺の辺りの寺は、宇都宮城の南を固める防御線の役割を果たしていたので、再びこの辺りで激戦となりました。


報恩寺の境内には、この激戦で戦死した新政府軍の墓があり、「戦死烈士之墓」と刻まれています。(上の写真)


また、上の写真は「戊辰 薩藩 戦死者墓」で、新政府軍の応援部隊で戦死した薩摩15名、長州2名、大垣3名
の名前が墓石の下の台座の陶板に書かれています。


報恩寺を出て、旧日光街道を歩いて行くと、裁判所前交差点のT字路に突当ります。
このT字路を右折すると、郵便局の先に、下の写真の「日光・奥州道中追分」があり、これを左折するのが
「日光道中」、直進するのが「奥州道中」です。

つまり、日本橋からここまでの旧日光街道は、「日光道中」と「奥州道中」の共有だった訳です。

従って、ここまでの「旧日光街道」は、正しくは「日光道中・奥州道中」です。


その追分の近くに所に「本陣跡」の標識が建っています。

「貫目改所」もこの辺りにあったそうですが、本陣と共に、その痕跡すら残っていません・・・

郵便局の先の追分で、奥州街道と分かれて、狭い道の旧日光街道へ入って行きます。


狭くなった旧日光街の直ぐ右手の坂道を少し下ったところに、上の写真の「延命院」があります。

「延命院」では、明治維新に大きな功績があった蒲生君平が6才の頃から学んだそうです。



延命院の境内に入って行くと、本堂の前に、下の写真の「霊験初音の墓参道」と刻まれた石柱が建っています。

その参道の石畳に沿って行くと、下の写真の「霊験初音の墓」がありました。

説明板によると、初音は、生家が貧困で、若くして病で頭が侵されたため、猛烈な頭痛に悶え苦しんだそうです。
初音は、この様な苦しみを世の人々から取除くことを祈りながら、18才の若さで、明治15年に息を引き取りました。

この初音観音に祈願すれば、”頭痛・ノイローゼ根治に霊験がある”と、今も線香が絶えないそうです。


この「霊験初音の墓」の前に、上の写真の栃木県の「県木・栃の木」があります。

樹齢350年以上とされる珍しい巨木で、市の天然記念物です。


延命院を出て、坂道を旧日光街道まで戻ると、「宇都宮追分の一里塚跡」の説明版がありました。

(うっかりして通り過ぎそうになりましたが、一里塚の説明版は、上の写真の赤丸印です。



その一里塚跡の右手に、上の写真の「桂林寺」があります。

桂林寺には「蒲生君平の墓」があります。




江戸時代には、この桂林寺の辺りに木戸があり、ここが「宇都宮宿」の外れだったそうです。
コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

首都高速道路・横浜北線 開通 (事前イベント)

2017-03-20 17:00:45 | Weblog

(写真は、横浜北線開通のTVニュース)


一昨日(18日(土))に開通した「首都高・横浜北線」の1週間前の”事前ウォーク”に、11日(土)に行って来ました。





高速道路ウォークについては、これまでに、「圏央道・寒川北~海老名」と、
「圏央道・相模原愛川~高尾山」で、ご紹介しました。

3回目となる今回の”高速ウォーク”は、首都高・横浜北線の開通前に、高速道路上を歩くことができるイベントです。(無料)

先着順1万人でしたが、これまでの高速ウォークの経験で、その楽しさにハマってしまった私は、直ぐにインターネットで
申込みしました。

「横浜北線」は、首都高・横羽線(生麦)と、第三京浜(港北)を結ぶ約8キロの高速で、うち6キロがトンネルです。

横浜北線の開通により、我が家も、新横浜から羽田空港へのリムジンバスが40分から30分へと短縮されより便利になります。

今回のトンネルウォークの集合場所は、地下鉄・北新横浜駅から徒歩10分の「横浜北線」の「新横浜出入口」でした。

翌週の開通にも拘わらず、未だ、一部では工事が続いていました。

普段は歩行者立ち入り禁止の高速道路を歩ける最後の機会とあって、かなりの人気で、たくさんの参加者がトンネルを
目指して歩いています。



新横浜出入口の料金所の電光表示板には、写真の様に「トンネルウォークにようこそ!」「横浜北線がキタ!」
と表示されています。


湾岸線の方向と第三京浜の方向を示す標識があります。












やがて、新横浜出入口の料金所ゲートです。





横浜北トンネルに入ります。

信号は防災用だそうです。


トンネル内には、自動火災検知器を25メートル間隔で設置、100メートル間隔でカメラが設置されています。

また、トンネル内では、設備や標識などの様々なパネル展示が行われていました。

トンネルの中は薄暗いですが、スタッフが大勢いて、質問に親切に答えてくれ、ゆるキャラも出迎えてくれます。





非常電話は、カバーを開けて、ボタンの押し方などを説明してくれます。


上の写真の泡消火栓などの防災施設の説明を受けながら進みます。


本日だけのための高速道路上の仮設トイレもあります。




また、トンネル内のプロジェクションマッピングやライトアップ等もやっていて、サービス精神旺盛です。











スライド式の非常口を開けて入ってみると、階段を使った避難通路です。





また、緊急脱出用のすべり台式の非常口体験もあり、こちらは大人気でした。



私も、二度と経験することは無いであろう非常口の滑り台を滑り降りて、貴重な体験をしました。

すべり台は、結構急な傾斜なので、足でブレーキを掛けながら降りました。







また、写真の火災時の水噴霧の装置のデモンストレーションも見学出来ました。


更に、「高速道路ではたらくクルマ」の展示もやっていて、普段ほとんど見る事のない首都高パトカー、特殊消防車、
トンネル内清掃車、標識車なども展示されていて楽しめます。













特に、トンネルの天井を点検する特殊車両の前には、ちびっこの行列が出来ていて、天井の点検作業体験は大人気でした。






(ジェットファン)


中間地点でUターンして、集合地点へ戻ります。

最後には、たくさん入ったお土産袋まで貰って、お金を掛けずに大満足の半日でした。
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

木下大サーカス (横浜公演)

2017-03-15 22:17:28 | Weblog

(写真は、「木下大サーカス」のテント)

先週の日曜日(3/5)、現在、横浜に来ている「木下大サーカス」を見て来ました。(~5月7日迄)

木下大サーカスは、子供の頃、親に連れて行ってもらった記憶があるので、まだあったんだ!、
と懐かしく思いました。

日曜日なので、少しは混むかなくらいに思って出かけたのですが、行ってみて考えが甘かった
ことに気付きました。

サーカスのテントの近くに着いたら、もう既に、延々と行列が出来ていました。

切符売り場に辿り着いたら、もう次の回の席は売り切れでした・・・

そして、ようやく、3時間後に開演となる次の次の回の、しかもほぼ最後尾の席が、何とか取れました。

私は自由席前売券(2,800円)を買っていたのですが、やはり、多少高くても、事前に指定席を
買っておくべきでした。


横浜駅まで歩いて行って、日産ショールームなどで、3時間くらい時間つぶしをします。

ようやく開演の時間になり、横浜駅から歩いて、地下鉄・新高島駅の前の木下大サーカスのテントに戻ります。


サーカスのテントの前には、ポップコーン、動物のぬいぐるみ等の売店が並びます。



また、象と一緒に撮影出来る「記念写真」(800円)の前には、子供連れの行列が出来ていました。

テントの中に入り、自由席の最上段の席に座りましたが、テントの構造上、鉄柱が視界を遮る場所
だったので、鉄柱より前の指定席だったらよかったなあと思いました。

サーカスの公演は、トイレ休憩(15分)を挟んで約2時間です。

私の子供の頃の記憶では、楽団による侘しい曲をバックにした演技でしたが、今は、
大音量の音楽と光によるスピーディーな演出で、一気に雰囲気が高まります。

公演は、撮影禁止なので、以下の写真は、お店で買った木下大サーカスのパンフレット
(1,000円)からです。

「象のショー」では、象が、二本足で歩いて行くので驚きました!


更に、驚いたのは、「ライオンショー」で、私の子供の頃は、2~3頭だった記憶なのですが、今回は、
ホワイトライオンも含めて、何と!、10頭ものライオンを、1人の調教師が一度に操ります!


また、「ジャグリング」では、駅前広場などで目にする大道芸のジャグリングに比べて、
木下大サーカスのずば抜けた難易度の高さに鳥肌がたちました。


それから、金網の大きな球の中を、爆音をたてて走り回る迫力満点のオートバイ曲芸は、
子供の頃に見たのと一緒でした。


最後には、空中ブランコのショーで、2時間があっという間に過ぎてしまいました。


木下大サーカスのパンフレットによると、木下サーカスは、世界三大サーカスのひとつで、
海外公演も行っているそうです。

年間観客動員数120万人、団員11ヶ国の約60人で、サーカス以外にもマンション経営や
駐車場運営などもやっているみたいです。

木下大サーカスは、シルク・ドゥ・ソレイユ等の芸術的なサーカスとは異なり、庶民的な
雰囲気のサーカスです。

綱渡り、空中ブランコ、オートバイショー等、子供の頃を思い出して、童心に帰って楽しみました。

やはり、私にとっての「木下大サーカス」は、昔の古き良き子供時代を思い出させてくれる、
夢のサーカス団でした。
コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

「谷根千」散策 (3/3)

2017-03-11 16:34:17 | Weblog
   
(写真は、根津神社の乙女稲荷の千本鳥居)

「谷根千」散策の谷中銀座、観音寺・築地塀、森鴎外記念館などの続きで、谷根千の最終回です。


前回ご紹介した「森鴎外記念館」に、「団子坂」側の入口から入り、見学を終えて、記念館の「やぶ下
通り」側の出口から出ます。

森鴎外記念館のやぶ下通り側には、上の写真の「舞いの像」があります。


左手に、区立第八中学や汐見小学校を見ながら、やぶ下通りの坂を下って行くと、日本医科大学
があり、その右手の奥には、写真の「夏目漱石の旧居跡」があります。




日本医科大学の先の森が、江戸城の北を護る「根津神社」です。





現在の「根津神社」は、5代将軍・綱吉が、ここにあった自分の屋敷地を献納して、「天下普請」
として諸大名に造営を命じ、1706年に完成しました。

根津神社は、「権現造り」と呼ばれ、本殿・幣殿・拝殿が構造的に一体として造られています。




この綱吉の時代の本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門は、関東大震災や東京大空襲をくぐり
抜けて、全て奇跡的に残っています。(国重要文化財)
驚き!





上の写真は、根津神社の近辺に住居を構えていた夏目漱石、森鴎外らが腰掛けて想を練った
と言われる「文豪憩いの石」です。


上の写真は、森鴎外が奉納した「鴎外の石」で、現在は水飲み場として利用されています。

鴎外の石の裏側には、森鴎外の本名「陸軍医監 森林太郎」と彫られています。(赤の縦線部分)


境内の一角にある「乙女稲荷」は、京都の伏見稲荷のミニチュアのような感じで、可愛い
鳥居が圧巻です。


乙女稲荷の千本鳥居の脇には、六代将軍・家宣の胎盤が納められている 写真の「胞衣塚」
(えなづか)がありました。

また、根津神社は、ツツジの名所としても有名です。

毎年4月中旬~5月上旬の「つつじ祭り」では、7千坪の神苑に、100種・3,000株もの
つつじが咲き乱れ、茶屋・植木市・露店が立ち並び賑わうそうです。




根津神社を出て、大正8年建築の「日本基督教団根津協会」(文化庁登録有形文化財)を
右手に見て、地下鉄・根津駅へ向かいます。


地下鉄・根津駅の近くの 下の写真の串揚げ処「はん亭」で、遅めのランチを食べます。

「はん亭」(大正6年)は、総ケヤキ造りの木造3階建てで、国有形文化財です。

「はん亭」の入口は、もともとは「言問い(こととい)通り」側にありました。


しかし、言問い通りの道幅拡張に伴い、有形文化財の「はん亭」の建物の正面は、
無残にも切り取られてしまいました。

現在は、上の写真の様に、店の正面は、黒い格子で覆われていて、言問い通り側からは
何のお店なのか、分からない様な建物になっています・・・


従って、現在は、かっての勝手口(赤丸印)がお店の入口になっています。

店内は、大正時代の風情があって、落ち着いて食事が出来ます。

遅めのランチにも拘わらず、店内はほぼ満員です。

この日は平日でしたから、休日は、多分、予約がないと入れないでしょう。


ランチメニューは一種類のみです。(3,000円)


・前菜2種と生野菜スティック
・串揚げ8種(肉みそ、岩塩、ソース)
・デザート


串揚げは、豚ロース、鮎、牛肉、生麩、蓮根の肉詰め等が、2種類づつ運ばれます。
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

「谷根千」散策 (2/3)

2017-03-07 08:17:45 | Weblog

(写真は、観音寺の築地塀)

前回の「谷根千」散策の天王寺駐在所や谷中銀座の続きです。

谷中銀座の商店街を抜けて、「藍染(あいぞめ)川」を暗渠化した「へび道」に突き当たります。

突き当たりを左折して「へび道」を少し進み、直ぐにまた左折して、路地を真っ直ぐ進むと、
突当りに「岡倉天心記念公園」があります。

岡倉天心は、明治時代、日本美術の発展に大きな貢献をしました。

岡倉天心記念公園は、岡倉天心の旧居と天心が教鞭をとった美術院の跡です。

公園の奥には、六角堂があり、この中に写真の岡倉天心像が安置されています。

岡倉天心記念公園の右側の路地を進んで、蛍坂を上ります。


蛍坂の突当りを左折すると、赤穂浪士ゆかりの「観音寺」です。





赤穂浪士討入りに名を連ねた近松行重と奥田行高が、ここ観音寺の住職と兄弟であった
ことから、赤穂浪士討入りの会合によく使われました。

そして、討ち入り後には、上の写真の「赤穂浪士供養塔」が建立されました。

また、観音寺は、写真の「築地塀」(ついじべい)でも有名です。

築地塀は、瓦と土を交互に積み重ねて作られています。


道向かいの養傳寺も築地塀なので、この路地散策は江戸時代の雰囲気を味わえます。

観音寺を出て、三崎(さんさき)坂へ向かいます。


三崎坂を下って行くと、明治の商家建築である写真の「下町風俗資料館」(旧吉田屋酒店)
があります。

建物の中を見学出来ます。(無料)




下町風俗資料館の道路向いには、大正時代の民家を改造した、レトロな雰囲気で人気の
下の写真の「カヤバ珈琲」があります。



そして、この近くには、上の写真の和菓子の老舗「谷中 岡埜栄泉」(やなか
おかのえいせん)もあります。

ここで、人気の和菓子を買いました。
しょうがの香りが効いて、素朴で懐かしい味がします。

次に、三崎坂を戻りながら上って行くと、右手に下の写真の「全生庵」(ぜんしょうあん)
があります。

全生庵は、幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために、山岡鉄舟
が明治16年に建立しました。

鉄舟と親しかった落語家の三遊亭円朝の墓があり、寺には円朝が収集したお化け絵
がたくさんあるそうです。


更に、地下鉄・千駄木駅近くまで三崎坂を上って行くと、明治8年創業の写真の
「菊見せんべい」があります。



醤油、唐辛子、砂糖、抹茶の4種類が入った写真の詰合せを買いました。

堅めの煎餅で、パリンと豪快に割れ、食べ応えがあります。

三崎坂が、不忍(しのばず)通りを横切った先にある「須藤公園」で一休みします。





須藤公園は、加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の屋敷跡でしたが、実業家の
須藤吉左衛門が買い取り、その後、須藤家が公園として東京都に寄付しました。

須藤公園を出て、三崎坂の延長上にある団子坂を少し歩いた左手の「森鴎外記念館」
に入ります。(撮影禁止)(300円)

この記念館は、森鴎外が、家族と共に晩年まで30年住んでいたという「観潮楼」の
跡地に、生誕150年を記念して平成24年に建てられたものです。

この鴎外の自宅は、歌会の会場としても使われていたそうで、会には、石川啄木、
斎藤茂吉、木下杢太郎なども参加していたようです。
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

「谷根千」 散策 (1/3)

2017-03-02 09:39:07 | Weblog

(写真は、山手線内では唯一と言われる”駐在所”の「天王寺駐在所」。)


先週、最近話題の「谷根千」(やねせん)を散策して来ました。

「谷根千」は、御存じの様に、「谷=谷中」、「根=根津」、「千=千駄木」の3つの町名の頭文字をとった
最近話題の散策スポットです。

「谷根千」の散策を思い立ったのは、先週読んだ小説「警官の血」の舞台が、この「谷根千」だったからです。

「警官の血(上)(下)」(新潮文庫)は、直木賞作家の佐々木譲のサスペンス小説です。(上下各724円)

ハラハラ、ドキドキのストーリー展開で、非常に面白かったので、一気に読み終わってしまいました。
警官の血〈上〉 (新潮文庫)
佐々木 譲
新潮社

主人公は、ここ谷中の「天王寺駐在所」の巡査でしたが、駐在所の横にある五重塔が
炎上した事件をきっかけに、ミステリー・サスペンスのストーリーが展開していきます。


谷中霊園の中には、現在も、この小説の舞台となった上の写真の駐在所があり、その横には、
実際に焼失した下の写真の「五重塔」の跡地も残っています。



(谷中霊園の墓地散策については、(谷中霊園散策)を見てね。)

物語は、ここ「天王寺駐在所」に勤務した警察官一家の3代の家族史です。

そして、警察官一家3代のその時代背景も、敗戦直後の混乱の時代、高度成長へ向かう
復興の時代、60年安保・過激派事件の時代と、丹念に描かれています。


横浜から京浜東北線に乗って、JR日暮里駅で降り、先ずは、小説「警官の血」の舞台巡り
をスタートします。


JR日暮里駅を出て、谷中霊園に入り、メインストリートを歩いて行くと、霊園の
ちょうど真ん中辺りに小説の舞台となった下の写真の「駐在所」があります。



そして、その駐在所の真横には、昭和32年に放火で焼失した「五重塔跡」があります。

「五重塔跡」の説明版には、放火で延焼中の五重塔の写真が貼られています。



小説の中では「谷中駐在所」となっていますが、実際の駐在所の名称は「天王寺駐在所」です。
山手線内では唯一残る「駐在所」だそうです。

ご存知かと思いますが、我々がよく目にする「交番」は警察官が交代で勤務するのに対し、
「駐在所」は常駐の警察官とその家族が住む宿舎を兼ねています。
従って、警察官の仕事を奥さんが手伝うこともあります。

謂わば、24時間勤務の警察官と家族が住んでいる”交番”です。

ちなみに、私は、子供の頃は熊本の田舎に住んでいましたが、田舎では、ほとんどが「交番」
ではなくて「駐在所」でした。

物語は、この駐在所横の五重塔炎上事件を背景に、警察官一家が3代にわたり、
2つの殺人事件の深い闇の真相を追っていきます。


谷中霊園を出て、日暮里駅・北改札口の前の通りに戻ります。




この辺りは谷中7丁目で、上の写真の初音小路などは、小説の通りに、昭和の
香りが漂う一角です。

日暮里駅の前の緩やかな御殿坂を少し上がった右手に、下の写真の「経王寺」
があります。



お寺の門には、戊辰戦争で、彰義隊が敗走する際に、ヤケクソで、槍で穴を
あけたという跡が残っています。






((谷中界隈散策)で、以前にご紹介したこの近くの「本行寺」の門にも
 彰義隊の槍の跡がありました。


経王寺の先には、「夕やけだんだん」という変わった名前の石段の坂道があり、
石段を下りたところが「谷中銀座」の商店街の入り口です。

「夕やけだんだん」は、都内の夕焼けの名所で、夕方のここから見下ろす風景が
有名でしたが、今は、高層マンションが眺望を遮り、富士山も見えなくなりました・・・



谷中銀座商店街は、短い距離ですが、昔ながらの鮮魚店、八百屋、惣菜店などに加え、
雑貨やスイーツなどの新しい店舗も開店している人気の観光スポットです。



この辺りでは、よくグルメ番組などの録画撮りをやっていますが、この日も、
写真の様にテレビ局が録画撮りをやっていました。


また、谷中は、野良猫が多いのでも有名ですが、写真の様に、谷中銀座の店舗の
屋根には猫の置物や看板が多いです。




この谷中銀座商店街は、以下の写真の通称「へび道」に突き当たります。
「へび道」は、不忍池に注いでいた「藍染(あいぞめ)川」を暗渠化した道です。

道が、蛇の様にくねくねと曲がりくねっています。




時折、狭い「へび道」を、小回りが利く「めぐりん」バスが走っています。
コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

松濤美術館 (渋谷)

2017-02-21 11:19:01 | Weblog

(写真は、松濤美術館)

熊本の中学校時代の美術の先生が、現在、渋谷の「松濤(しょうとう)美術館」で、版画の個展を開いて
いらっしゃるので、一昨日(2/19)行って来ました。

(坂田燦(あきら)の版画でめぐる「おくのほそ道」展:~2/26、~3/4~19:入場無料)


渋谷駅前のスクランブル交差点から、文化村通りを直進すると、東急本店に突き当たります。



(東急本店)

東急本店の左側沿いの緩やかな上りの道を歩いて行きます。



緩やかな上り坂の終わる少し手前の、お洒落なマンションの間を右折したところに「松濤美術館」があります。





「松濤(しょうとう)美術館」(月曜休館)

私は、今、奥の細道とルートが重なる日光街道を歩いているので、版画を身近かに感じました。

生命感にあふれ、ドラマを感じさせる版画なので、芭蕉と一緒に旅をしている気分になれます。





(美術館の内部:美術館のパンフレットから)


松濤美術館を出ると、裏手に、写真の「鍋島(なべしま)松濤公園」があります。

公園の入口に説明板があり、それによると、明治時代には、佐賀の鍋島のお殿様が
所有してお茶を栽培していましたが、その茶園が「松濤園」だったそうです。

その後、遊水池を中心に庭園を造り、これを東京都に寄付したそうです。






公園の水車小屋の先から右手の階段を上って、松濤の住宅街に出ます。















都心のターミナル駅からの距離を勘案すると、私は、「松濤」が、”日本一の高級住宅街”
だと思いますよ。

住宅街を歩いていたら、昼過ぎになり空腹になったので、松濤の入口の辺りにある
「マヌエル渋谷」でランチにしました。

(ランチタイム:2,000円)

マヌエル渋谷は、ポルトガル料理とワインの店で、予約が無いと厳しいのですが、予約なしで
10分くらい待って入りました。



ランチメニューは、2000円のコースのみです。

(かぼちゃとジャガイモのスープ、タラのコロッケなどの4種類の前菜)



メインは選べるので、上の写真のラムの赤ワイン煮込みを選びました。
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加