ウォーク更家の散歩 (東海道を歩く、中山道を歩く)

「東海道五十三次を歩く・完全踏破の一人旅」
(http://www.minedayo.com/)

バスで行く奥の細道 (その2)(雲厳寺:栃木県)

2018-02-18 09:48:14 | Weblog

(写真は、「雲厳寺」の吉永小百合)

テレビを見ながら、この「雲厳寺」のブログの原稿を書いていたら、ちょうどJR東日本の「大人の休日倶楽部」のCMで、
吉永小百合の「奥の細道の雲厳寺」をやっていました。

以下は、吉永小百合のCMのナレーションです。

  松尾芭蕉が、奥の細道で最も長く滞在したという栃木・黒羽(くろばね)の地。

  彼がここに留まったのは、降り続いた雨のせいだけではありませんでした。


(黒羽:大人の休日倶楽部CMから)


(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)


(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)


(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)


(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)


(雲厳寺:大人の休日倶楽部CMから)


(大人の休日倶楽部CMから)


前回ご紹介しました様に、芭蕉は、下野国の黒羽藩・城代家老の家に招かれ、奥の細道の旅程では最長となる14日間も黒羽に滞在しました。

その黒羽滞在の3日目、芭蕉は「仏頂和尚」(ぶっちょうおしょう)(文末の[注]をご参照)を「雲厳寺」(うんがんじ)に訪ねました。

雲厳寺に向かう芭蕉一行には、若者も加わり、賑やかに談笑しながら進んだので、いつの間にか雲厳寺の麓に近づいていました。

しかし、雲厳寺の麓に着くと、風景は一変し、山は奥深く、ひんやりとした谷道が、清らかな渓流に沿って続きます。

芭蕉が雲巌寺を訪れたのは、雲巌寺の裏山に、芭蕉がどうしても見たかったという、仏頂和尚の庵があったからです。

芭蕉は、仏頂和尚が修行時代に雲巌寺の山中にこもって、「竪横の 五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし 雨なかりせば」と詠い、それを庵の傍らの岩に書き付けた、と聞いていたからです。

上記の「雨さえ降らなければ、庵などいらない」という、庵さえも疎んじる、その仏頂和尚の執着しない生き方が、芭蕉が仏頂和尚を敬慕した理由でした。

仏頂和尚は、芭蕉が雲厳寺を訪れたこのときは不在でしたが、その庵はそのまま残っていました。



我々の「奥の細道」を巡るバス旅行も、黒羽の浄法寺邸跡を出て、約12キロ離れたこのCMの「雲厳寺」へ向かいます。


(バスの中)


雲厳寺に到着した我々は、吉永小百合も渡った、渓流にかかる赤色の反り橋を渡り、山門を目指して石段を登って行きます。





山の奥にひっそりと佇むお寺の前の渓流と、周辺の静けさがマッチしていて、他の寺にはない独特の、身の引き締まる様な雰囲気が漂っています。







拝観料を払って入る、所謂、観光寺院とは異なり、実際に厳しい禅の修行をするための寺、といった感じです。


山門の先は、正面に釈迦堂、獅子王殿が一直線に並ぶ、代表的な伽藍配置になっています。



雲厳寺は北条時宗が建立しましたが、度重なる焼き討ちにあっています。





雲厳寺は、臨済宗の名刹で、禅宗の四大道場の一つです。




仏頂和尚が、かつてここで修行をしたことから、芭蕉も、仏頂和尚仏を偲んで、下記の句を残しており、境内にはその句碑があります。

 ”啄木(きつつき)も  庵はやぶらず  夏木立(なつこだち)”

 (寺をつついて壊してしまうと言われるキツツキも、精進する仏頂和尚には近寄り難かったのだろう、この庵だけは突き破らなかった。)

芭蕉一行が目指した草の庵は、雲巌寺の裏山にありました。




山門まで戻り、その右手の鐘楼前から石段を登って右に歩いていくと、仏頂和尚の庵跡に通じる山道があります。

しかし、現在は、この「仏頂和尚の庵跡」へ通じる道は封鎖されて、立入禁止になっているので、残念ながら見ることは出来ません。


(注)仏頂和尚

  仏頂和尚は、常陸(茨城県)の鹿島根本寺の住職でしたが、当時、鹿島根本寺は、寺領100石の半分の50石を、隣の鹿島神宮に取り上げられていました。

  これを不服とした和尚は、寺社奉行に訴え出ました。

  この裁判のため、仏頂和尚は、江戸に出てきて、1年半ほど、芭蕉の深川の草庵の川向うに仮住まいしていました。

  このときに、芭蕉と仏頂和尚は交流を持ちました。

  芭蕉は、仏頂和尚の仮住まいに、熱心に参禅する日々を送ったそうです。

  この交流を契機にして、芭蕉の作風に「佗」( わび )の色彩が色濃く投影されるようになっていきました。

  訴えから7年後、仏頂和尚は、鹿島神宮との争いに勝訴したのを機に、住職の座を譲り、鹿島根本寺を離れました。



(青春出版社:おくの細道から)
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バスで行く「奥の細道」 ( 那須・黒羽 : 栃木県 )

2018-02-14 09:50:35 | Weblog

(写真は、「芭蕉の館」の芭蕉と曽良の像 )

現在、奥州街道踏破を目指して歩いていますが、スタート早々に股関節炎が発症したため、街道歩きに1日5キロ以内の制限が加わり、
未だ、栃木県の大田原宿を抜けた辺りをウロウロしています。

街道歩きが趣味の私は、以前から、松尾芭蕉の「奥の細道」を歩く事にも興味がありました。
そこで、「奥の細道」のうち、奥州街道沿いの「黒羽・雲厳寺」、「殺生石」、「白河の関」等のスポットにも立ち寄りながら奥州街道を踏破するつもりでした。

しかし、調べてみると、歩きの場合、これらの場所は、奥州街道から、とてつもなく外れていることが分かりました。
例えば、黒羽・雲厳寺は、奥州街道から20キロ近くも離れており、往復だけで2日もかかるため、とても歩いて立ち寄れる距離ではありません・・・

しかも、私の場合は1日5キロ制限もあり、これらへの寄り道を断念しました。

しかし、前から是非立ち寄ってみたいと思っていたスポットなので、奥州街道から大きく外れるこれらの奥の細道の史跡へは、別途、パックの
バス旅行で行くことにしました。

と言う訳で、歩かなくてもこれらの史跡を巡れる「奥の細道バスの旅」を申し込みました。

以下は、バス旅行で行った「奥の細道」の史跡巡りのご報告です。



1689年の春、 芭蕉は、隅田川のほとりの芭蕉庵を引き払って、船で千住に渡り、そこから日光街道で草加、日光を経て、下野国の城下町「黒羽」へ向かいます。

下野国(しもつけのくに:栃木県)の城下町「黒羽」(くろばね)へ向かったのは、黒羽の浄法寺図書高勝(じょうほうじ  ずしょ たかかつ)に招かれためでした。
高勝は、身分の高い黒羽藩の城代家老でしたが、芭蕉の門人(俳号:桃雪)でもありました。

このとき、高勝は20才台、芭蕉は40才台でしたが、高勝は礼をつくして手厚くもてなします。

この様に、黒羽では大いに歓迎されたこともあり、奥の細道の旅程では最長となる14日間も黒羽に滞在しました。

黒羽は、那須野が原の東南の端に位置し、面積の約70%を山林が占める山紫水明の山間部です。


我々のバス旅行は、芭蕉の足跡をたどって、「大雄寺」の駐車場にバスを止め、「奥の細道」の「黒羽」(くろばね)の史跡を巡ります。

「大雄寺」は、黒羽藩主だった大関家の菩提寺です。

大雄寺の駐車場の脇の坂道を少し上ると、芭蕉が14日間も逗留したという「浄法寺家」跡があります。



黒羽藩の城代家老だった浄法寺図書の屋敷は、現在は「旧浄法寺邸」として再現されています。

5,000平方メートルもあるという広大な屋敷跡の庭には、芭蕉句碑や東屋などがあり、「奥の細道」の当時の雰囲気が伝わってきます。


芭蕉は、浄法寺家のこの庭園と周囲の山河の美しさを下記の様に詠みました。

 ”山も庭も 動き入るや 夏座敷”

 (こちらの視線が山や庭に向かって動くのではなく、逆に向こうの山や庭が、自分のいる夏座敷に「動き入ってきたなあ」と感じた。)



なるほどね~、こんなに広くて立派な屋敷で、毎日大歓待されたら、芭蕉と言えども、ついつい長逗留してしまいますよねえ~。










現在、黒羽町は、芭蕉での町興しに力を入れているらしく、この旧浄法寺邸の周辺を「芭蕉公園」として整備して、
「浄法寺家跡」⇒「芭蕉の館」⇒「黒羽城跡」を巡る散策路が出来ていました。

この散策路の矢印に従い、「浄法寺家跡」から「芭蕉の館」へ向かいます。

「芭蕉の館」の館内には、芭蕉に関する資料の展示してあるらしいのですが、残念ながら、月曜だったので休館日でした・・・

「芭蕉の館」の前庭には、写真の「芭蕉と曽良のブロンズ像」がありました。



ブロンズ像の横には、「おくのほそ道」の中の一文で、那須野を訪れる芭蕉一行の様子を描いた上の写真の「文学碑」が建っています。

更に、文学碑の近くには、下記の「曽良の句碑」がありました。



 ”かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名成べし(ななるべし)”

これらの「ブロンズ像」、「文学碑」、「曽良句碑」は、黒羽での芭蕉一行の同じエピソードにもとづくものなので、
以下、三省堂の「奥の細道の旅」からそのエピソードの粗筋を紹介します。

奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂


  芭蕉一行が、黒羽の浄法寺家を訪ねるために、那須野を横切って近道を行こうとすると、雨が降ってきて日も暮れてしまいました。

  そこで、農夫の家に一晩泊めてもらい、朝になって、また田舎道を歩いて行きます。

  (私の予想通り、奥州街道から大きく外れているため、芭蕉一行も、黒羽へ歩いて行くのに苦労していますねえ~。

  そこに馬が一頭、草を食んでいたので、農夫に事情を話すと、農夫は親切に、「この馬に乗って行って行って、この馬が止まった所で、
  この馬を引き返させてくれるのであれば、馬を貸してあげますよ。」と答えました。

  馬の後を、2人の子供がついて来ました。

  一人は少女で、「かさね」という可愛い名前だったので、曽良は、「かさねとは 八重撫子の 名成べし」と詠みました。

  (「かさね」という名前は、八重咲きのナデシコの名だろうが、田舎には珍しい優雅な名前だ。) 

  まもなく黒羽着いたので、馬の鞍に謝礼を結びつけて馬を返しました。

  馬は、熟知した道を戻って行ったのでしょう。

「芭蕉の館」の前庭の「文学碑」は、上記の黒羽へ向かう芭蕉一行の様子が刻まれています。

また、「曽良の句碑」は、上記の様に、一行について来た少女「かさね」の名前について詠んでいます。

芭蕉は、この少女「かさね」の名前が余程気に入ったらしく、後日、名付け親になった際に「かさね」の名を与えています。

そして、「ブロンズ像」は、黒羽を目指す芭蕉と曽良で、曽良の人差し指は、黒羽の方角を指しています。


「芭蕉の館」から、矢印に従って、「黒羽城跡」(黒羽藩主・大関氏の居城)へ向かいます。



黒羽城は、1576年、大関氏が、那珂川と松葉川に囲まれた丘陵に築いた山城です。

以後、明治維新まで大関氏の居城でした。

現在は、城郭の土塁、水濠などが保存され、「黒羽城址公園」として整備されています。







(本丸跡)


 
本丸跡からは、那須、日光連山が一望出来ます。


(三省堂:奥の細道の旅から)
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奥州街道を歩く(22-4:大田原:市内循環バスの旅) 栃木県大田原市

2018-02-08 21:10:30 | Weblog

(写真は、市営バスの車窓から見た「黒羽刑務所」)

今日は、朝から、大田原の宿場町、大田原城址、日帰り温泉と巡って、そのあと、歩行制限1日5キロの残りの3キロを歩いて、
15:45に練貫十文字のバス停に着いて、市街地へ向かう最終便を待ちますが・・・

バス停の時刻表を見ると、何と!、15:14の最終便が行ってから、もう30分も過ぎてしまっています!!

最終便に乗り遅れて途方に暮れ、暫くの間、バス停の時刻表を眺めながら、呆然と立ち尽くしていました・・・
生ビール2杯のほろ酔い気分も完全に醒めて、どうやったら、ここから横浜の自宅まで、今日中に帰宅出来るか?考えを巡らせます・・・

色々な方法を考えてみますが、日没が迫る中で、電車も無い、バスも無い、タクシーも走ってない、聞く人も歩いてない、
こんな田んぼの中のバス停からのスタートでは、良いアイデアが浮かんできません・・・

しかし、バス停の時刻表を何回も見直しているうちに、あることに気付きました!



私が最終便に乗り損ねたバス路線の名称が「金田方面”循環”線」となっています。

ん?、”循環”と言うことは、ひょっとして、逆方向の郊外へ向かう便に乗れば、巡り巡って目的地の大田原市の繁華街に着く?

幸いにして、逆方向へ行くバスは、未だ2本あります。

このバス停であと30分待てば、反対方向の郊外に向かう 16:12 のバスが来ます!

目的地までどれくらい時間がかかるか分からないけど、トライしてみるか?

他にすることもなく、まだ時間があるので、じっくりとバス停の時刻表の注意書きを読みます。

注意書きによると、ここでは、市街地へ向かう側にはバス停がありますが、反対側にはバス停がない旨が記載されています?

何か嫌な予感が・・・

不安な気持ちでバスを待っていると、定時にバスがやって来ました。

思わず、私は、歩道から道路側へ1歩踏み出します。

しかし、不安な気持ちが的中!、バスは私に気付かずに通り越して行きました!

股関節炎の痛みも忘れて、必死で、手を振りながら、バスを追いかけます!

バスのサイドミラーに、必死で追いかける私の姿が写ったのでしょうか、気付いて直ぐに止まってくれました。

息を切らせながら、バスの中程の席に座りました。

お客は、私一人でした。

それから、バスは、かなりの距離を走りましたが、いつまで経っても私が下りる気配がないからでしょうか、
運転手さんの不信の眼差しを感じます・・・

それはそうですよね。

市街地に向かう最終便ではなくて、観光地でもない僻地へ向かうローカル路線の最終便に、リュックを背負った
変なオジサンが、一人で無言で座っている訳ですからね。

怪しまれているみたいなので、一番前の席に移って、事情を説明します。

事情を聴いた運転手さんは、「なるほど、確かに、この方法しかないですね。」と納得してくれました。

ほっ!・・・

事情説明のために、運転手さんの斜め後ろの一番前の席に座ったので、運転手さんとの世間話が始まりました。

運転手さんの説明によると、郊外へ向かうバス便だけが遅くまであるのは、最終便を、農村地帯から通う生徒の部活が
終わる時間に合わせてあるのだそうです。

なるほどねえ~、私は、部活対策のバス便に救われた訳だ!



その後も、お客は私一人だったので、やがて、親切な運転手さんは、停留所毎に、その辺りの説明と、その近くの
観光スポットの案内を始めてくれました。




やがてバスは、「黒羽刑務所」の中に入って行きます!


えっ、バスは、刑務所の中に入れるの?



まさか、先程、奥州街道と棚倉街道の追分で見た上の写真の黒羽刑務所の広告看板の場所の中に、その数時間後に、
入って行くことになるとは、夢にも思いませんでした!

運転手さんの解説によると、芸能人がヤクをやって捕まったときは、この黒羽刑務所に収監されるので、そのときは、
この辺りに、マスコミのカメラの放列が出来て、大変な賑わいになるそうです。


黒羽刑務所を出たバスは、東部集落、小滝集落など、「集落」という名前のバス停を通過して行きます。

いかにも”集落”というバス停の名前と周辺の風景がピッタリくる様な、長閑な雰囲気の田園風景です。






暫く走ると、狭い田んぼ道の前方から、耕運機がこちらに向かってきます。

すれ違いが出来ないので、バスが道幅が広がる場所までバックして行きます。



その後も、バスは、遮るものがない広々とした田畑の中を走って行きますが、運転手さんの話しだと、この辺りは、
風が非常に強くて、バスが風に流される感覚のこともあるそうです。
怖っ~・・・



日没が迫ってきます。

循環バスが市街地の大田原市役所に着いたときは、辺りは既に真っ暗になっていました。

ここで、運転手さんに丁寧にお礼を言って、バスを乗り換え、JR西那須野駅に向かいます。

今日は、期せずして、贅沢な市内循環バスの旅になってしまいましたが、1時間近くも乗って、更に観光案内もしてもらって、
これで200円(市営バスは一律200円)では、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

JR西那須野駅から8駅先の宇都宮駅で、上野東京ラインに乗り換えて、夜遅くに無事に横浜へ帰宅しました。
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奥州街道を歩く(22-3:大田原から鍋掛へ) 栃木県大田原市

2018-02-04 18:29:41 | Weblog

(写真は、中田原の一里塚)

朝から、大田原の金燈籠や歴代大田原藩主の墓などを見て回り、宿場の外れの「大田原城址」を見学したところで昼過ぎになりました。


先程、太田原神社から大田原城址の入口へ渡った高架の横断歩道橋が、上の写真の中央に見えています。

大田原城址公園前のバス停がある奥州街道を少し進み、「蛇尾川」(さびがわ)に架かる蛇尾橋を渡ります。







橋の上から振り返ると、左手に大田原城址の崖の木立が見えます。

蛇尾橋を渡り、先程、大田原城址の対岸に見えた「大田原温泉・太陽の湯」に向かいます。


目指す日帰り温泉は、上の写真の「ホテル竜城苑」に併設された下の写真の平屋の建物で、「大田原温泉・太陽の湯」の看板が出ていました。



私は、当初、この奥州街道沿いの「ホテル竜城苑」に泊まるつもりでインターネット検索したのですが、1泊2万円以上の部屋しか
空きがなかったので、仕方なく、西那須野駅前の1泊4千円のビジネスホテルを予約しました・・・

「日帰り温泉・太陽の湯」は、ホテル竜城苑の併設の温泉なので、入浴料は高めかなと思いましたが、意外に安く700円でした。

施設は新しくて清潔感があり、内風呂には、大浴場の他にサウナも付いていました。

露天風呂は、広い岩風呂と檜風呂があり、気持ちがいいです。

温泉は無色透明ですが、スベスベ感があり、少し硫黄の臭いがします。

飲食スペース、マッサージ、ゲームなどの施設も充実していました。


お昼過ぎだったので、湯上りに、生ビールを飲みながら、写真のランチ(750円)を食べます。

そして、未だ時間も早いので、ついつい良い気分になり、生ビールをもう一杯・・・

私の街道歩きのタイトルを、”完全踏破の一人旅”から、”温泉三昧一人旅”に変更しなければならない感じになりました・・・?

ほろ酔い気分で「太陽の湯」を出て、蛇尾橋に戻ります。

奥州街道は、蛇尾橋を左手に見て、大きく右にカーブして県道72号になります。

道は一直線で、やがて左手に、広大な富士電機の工場の正門が見えました。



その後は緩やかな上り坂になると、左手に、写真の立派で広大な家がありました。



塀の脇には、上の写真の真新しい説明の石碑が立っており、それによると、この家は平家の末裔の「瀬尾家」で、ここは「居館(中田原城)跡」らしいです。




更に、一直線の道をどんどん進んで行き、巻川に架かる二本松橋を渡ると、少し先のセブン・イレブンの駐車の脇に写真の「中田原の一里塚」がありました。



右側の塚は失われ、左側の塚が少し削られた形で残っています。






中田原の一里塚から、更に1キロくらい歩いた写真の市野沢小入口の交差点には、「黒羽刑務所の作業製品の展示場へ お気軽にお寄りください」
と大きく書かれた目立つ看板が立っています。


つい、刑務所の広告看板?に気を取られてしまいましたが、実は、この交差点は、奥州街道と「棚倉街道」の追分(小滝入口分岐点)なのです。


交差点の角には、刑務所の広告看板に隠れる様に、「記念物 (史蹟)道標」の白杭が立っており、大小3基の「道標」と「聖徳太子顕彰」の石碑があります。


案内板によれば、「道標」には、正面は「南無阿弥陀仏」、側面には「右 たなくら(棚倉)、 左 しらかわ(奥州街道の白河宿)」と彫ってあるそうです。

しかし、案内板の立っている位置が曖昧なうえに、文字が風化してしまっているので、大小3基の道標うちのどれの説明なのかわかりません・・・


「棚倉街道」は、茨木県の水戸藩の城下町と福島県の棚倉藩の城下町を結ぶ街道です。

1629年、有名な「紫衣事件」(注)で、流刑地の羽州上山(かみのやま)と奥州棚倉に流されることになった沢庵と玉室は、この追分で別れを告げました。

(注)紫衣(しえ)事件

   「紫衣」とは、天皇の勅許を受けた高僧だけが着けることが出来る紫色の袈裟の事です。

   幕府は、朝廷がみだりに紫衣を高僧に授けることを禁じましたが、後水尾天皇はこれを無視して、従来の慣例通りに紫衣を与えました。

   これに腹を立てた幕府が、これまでの朝廷の紫衣勅許を全て無効にした、という事件です。

   寺院の僧達も激しく幕府に抵抗しましたが、幕府のこれに対する態度は厳しく、有名な沢庵和尚や玉室らは流罪となりました。

追分から更に暫く歩くと、練貫(ねりぬき)交差点に来ました。

この辺りの交差点の表示は、交差点ではなくて十文字と表示されており、バス停の名前も練貫十文字です。

なるほど、十文字の交差点のイメージが湧きやすくて分かり易いです。

ここ練貫交差点のバス停から乗って、約20分で太田市役所へ戻り、バスを乗り継いでJR西那須野駅へ向かい、東北本線と新宿湘南ラインで、
今晩、横浜の自宅に戻る予定です。

現在、15:45ですが、大田原市街地に戻る最終のバスの時刻は、何と!15:14で、最終便が行ってからもう30分も過ぎてしまっています!!


えぇ~?、最終便に乗り遅れた?、ウソ~・・・

最終便が15:14なんて早すぎない?、と、事前に最終便の時刻を調べてはいたものの、ついつい愚痴が・・・

「大田原温泉・太陽の湯」で、のんびりと生ビールを飲み過ぎて、気持ちが大きくなってしまったので、最終便の時刻への緊張感が鈍ったのかな~?

う~ん?、電車も無い、バスも無い、タクシーも走ってない、聞く人も歩いてない、こんな田んぼの中のバス停で、日没になったらどうすればよいの?
ホントに、参ったなあ~・・・

途方に暮れ、バス停の前に呆然と立ち尽くしてしまいます・・

(to be continued ・・・)
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奥州街道を歩く(22-2:大田原:大田原城) 栃木県大田原市

2018-01-30 15:33:12 | Weblog

(写真は、本丸の土塁の上から、本丸跡を見下ろしたところ。 )    

今朝は、大田原の宿場町の入口からスタートして、道標を兼ねた金燈籠、大田原藩主の墓が並ぶ光真寺などを見学し、
宿場町の外れの大田原神社まで歩いて来ました。



太田原神社には、旧奥州街道をまたいで、大田原城址の入口へ渡れる写真の横断歩道橋が架かっています。






大田原城は、1545年、大田原資清(すけきよ)によって築城された平山城(ひらやまじろ)です。

資清は、大田原城を築いて居城とすると同時に、それまでの「大俵」から「大田原」へと名を改めました。

関ヶ原の戦いの直前、家康は、大軍を率いて上杉景勝討伐のために出陣します。

その際、家康は、急遽、大田原氏に城の修理を命じて、上杉氏の攻撃に備えさせました。

関が原の戦いのあと、大田原氏は1万2千石の大名となります。

徳川幕府は、奥州への備えとして、大田原城を重視していました。

しかし、戊辰戦争の際には、大田原藩が逆に新政府軍に付いてしまったために、大田原城は、新政府軍の会津攻めの
重要拠点になってしまいました・・・

このため、大田原城は、旧幕府軍の攻撃を受けて三の丸が炎上してしまいますが、何とか落城だけは免れました。

そして、明治4年に廃城となります。

現在は、「龍城公園」として整備されて、お花見の名所になっています。  



大田原城は、本丸・二の丸・三の丸に区画され、この外に、北側と西側に曲輪(くるわ)がある複郭式の平山城です。


本丸を囲む土塁は非常に高く、写真の様によく残っていて、素晴らしいです!

(本丸の土塁の上から)
そして、この高い土塁は、ウォーキングコースにもなっており、地元の方々が散策していました。
高い土塁のウォーキングコースなんて素敵だと思いませんか?


(本丸跡)

また、本丸の土塁以外にも、堀切、空堀、三日月堀などの遺構も残っています。
全体としては、曲輪の形が分かりやすく残っており、非常によく整備された公園になっています!


そして、木立を通して大田原の街並みもよく見えます。


(本丸土塁上から)


(本丸跡)


(二の丸跡)



(硝煙庫跡)



(台門跡)



(北曲輪跡)

(北曲輪跡)

(北曲輪跡)


(坂下門跡)



(三日月堀)




(本丸土塁上から蛇尾川を見る)
城の北側には、”じゃびがわ”とも 呼ばれる「蛇尾川」(さびがわ)が流れています。

現在、整形外科の先生の指示で、「1日5キロの歩行制限」の条件付きで街道歩きをしているため、このあと、今日の残りの3キロ程度を歩いたら、
日帰り温泉にでも浸かってのんびりと過ごす予定です。

そういう訳で、「安心して下さい。大田原市内の日帰り温泉は、ちゃんと調べてありますよ!


本丸の土塁から、蛇尾川の河原への階段を下りてみます。

大田原城跡の対岸に、日帰りの大田原温泉があることを事前に調査済みなのですが・・・

あっ!、対岸に、大田原の日帰り温泉施設と宿泊施設の大きくて立派建物が見えます!

このあと、対岸に渡り、日帰り温泉にゆっくりと浸かって生ビールでも飲みながら昼食を食べ、残りの3キロを歩いてから横浜に帰る予定です。
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奥州街道を歩く(22-1:大田原・宿場町) 栃木県大田原市

2018-01-26 09:17:45 | Weblog

(写真は、道標を兼ねた大きな金属製の「金燈籠」)

前日は、早朝に東京駅から東北新幹線に乗り、那須塩原駅で下車、駅前から路線バスで佐久山宿に着きました。 
そして、奥州街道を、佐久山宿から大田原宿まで歩き、大田原宿の入口から路線バスで、JR西那須野駅前のビジネスホテルに向かいました。 

今朝は、西那須野駅前のビジネスホテルを出て、9:20の路線バスに乗り、9:56に大田原市内の末広二丁目で下車、
前回ゴール地点の神明交差点まで少しだけ歩きます。
 


下の写真の神明交差点が大田原宿の入口で、その交差点から、「薬師通り」と呼ばれる大田原市の中心街に入って行きます。



大田原宿は、戦国時代の1545年に、那須氏の家臣の大俵(たいひょう)氏が大田原城を築城して城下町を開いたのが始まりです。

江戸時代には、人口1,428人、戸数245で、うち本陣2、脇本陣1、旅籠43の賑やかな宿場でした。

大田原宿を支配した「大田原」氏は、当初は、「大俵」と書いて、”たいひょう”と読みました。

その後、改名して、「大俵」の字を「大田原」と改め、”おおたわら”と読むようにしました。
う~うん?、ややこしい・・・


「薬師通り」を進むと、左側には、寺全体が大田原城の西の守りだったという「薬師寺」があります。







薬師堂内の金剛力士像、境内の七重塔、舎利塔など、いずれも市文化財です。





薬師通りを更に進むと、左手の大田原信用金庫の前に、写真の「那須与一像」が建っています。

大田原宿は、那須与一のゆかりの土地ということらしいです。

那須与一は、源平の屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした、という逸話で有名です。

薬師通りは、やがて金燈籠交差点に出ます。


交差点の手前の左角は、「金燈籠ポケット公園」になっていて、大きな金属製の「金燈籠」( かなどうろう )が建っています。

金燈籠は、江戸時代末期の1819年に建立されましたが、太平洋戦争時に供出、その後、昭和54年に復元されました。

但し、石の台座の部分は、江戸時代のままで、写真の様に、道標として、西側に「江戸」、東側に「白川」と大きく彫られています。



また、この小公園内には、金燈籠の説明の石碑と、「旧奥州道中 大田原宿」の石柱が建っています。


金燈籠のある交差点を直進して、その先の交差点を左折します。

左折した道を少し進むと、江戸時代には旅籠屋「上州屋」だったという下の写真の「ホテルみつや」があります。



その「ホテルみつや」の角に、写真の「旧奥州街道 大田原 寺町」の道標があるので、これに従って右折します。


この辺りが、大田原宿の外れ近くで、城下町特有の枡形になっています。



この枡形を抜けて少し歩くと、左手に、上の写真の真新しい本堂の龍泉寺がありますが、その左脇の左にカーブする道路の先に、下の写真の「光真寺」があります。



山門をくぐると本堂があり、その左脇に、1545年にこの寺を建立した大田原資清の像があります。





光真寺は、大田原藩主の菩提寺なので、本堂の左奥には、歴代の大田藩主の墓が並んでいます。

大きな宝筐印塔がずらりと並んでいる風景は圧巻です!


もとの龍泉寺の前の道に戻り、奥州街道を少し進むと、左手に「大田原神社」の石段が見えてきます。

807年創建の大田原神社は、大田原城築城に際し、大田原資清が大田原城の鎮守社としました。

急な階段を上り左に折れると参道で、その奥に本堂があります。





狛犬というより狛オオカミとか狛キツネとかでしょうか?

表情が何だか怖いです・・・
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箕輪城 (群馬県) (日本100名城) 2017.12.27

2018-01-21 16:44:11 | Weblog

(写真は、復元された箕輪城の馬出門)

伊香保温泉で1泊した話しの続きです。

翌朝、温泉のホテルの窓から外を見ると、強い横風に吹雪が舞っています!

急遽、少しでも、雪が少ない平地に移動しようと、ホテルで朝食をすませると直ぐに、渋川駅行きのバスに乗りました。

渋川駅で上越線に乗り、高崎駅で下車して、以前から行きたいと思っていた「箕輪(みのわ)城」へ向かいます。

「箕輪(みのわ)城」は、NHK大河「おんな城主 直虎」の息子の井伊直政(菅田将暉)が、初めて城を与えられて
城主となった記念すべき場所なのです。
NHK大河の最終回は、井伊直政が箕輪城に入場するシーンを期待していたのですが、そのシーンはありませんでした・・・

考えてみれば、「おんな城主 直虎」の主役は、直政ではなくて 直虎ですものね、まあ~仕方ないか。


箕輪城は、群馬県の榛名山の麓の丘陵地帯に位置する平山城(ひらやまじろ)です。

在原業平の子孫の長野業尚によって、戦国時代の1500年頃に築かれました。

武田信玄が侵攻して来た際には、長野氏は箕輪城を本拠によく防戦しましたが、最後は落城、武田氏の家臣の真田幸隆
(真田幸村の祖父)が新たな城主になりました。

そして、武田氏の滅亡後は、織田信長の家臣の滝川一益の居城となりましたが、本能寺の変により織田氏が滅亡すると、
北条氏政の弟の氏邦が城主になります。

その北条氏も豊臣秀吉によって滅ぼされ、徳川家康が関東に入封すると、箕輪城は、”おんな城主直虎”の息子の
井伊直政に12万石で与えられました。

直政は、箕輪城を近代な城郭に改造するものの、その後、居城を高崎に移したため、箕輪城は僅か8年で廃城になりました。

現在は、空堀や土塁の一部が残るだけですが、平成28年に、冒頭の写真の郭馬出(かくうまだし)の西虎口門が復元されました。





JR高崎駅から、群馬バス「伊香保温泉行き」で30分、「城山入口」で下車します。







箕輪城は、長閑な田園風景の中のこんもりとした丘陵地帯にありました。


城山入口バス停の脇が、箕輪城への入口の椿名口だったので、ここから歩いて本丸へ向かいます。











(大堀切)



大堀切に架かる土橋を渡ると、西側への出撃拠点である「郭馬出(かくうまだし)西虎口門」があります。(平成28年復元)





郭馬出から周辺を見渡してみると、想像以上に広い城郭です。
また、見学ルートも良く整備されているので、なかなか見応えがあります。
特に、この郭馬出は必見です。


「郭馬出」の先には「二の丸」があります。

(二の丸)



二の丸にいたボランティアガイドのおじさんに聞いたら、二の丸の奥の「本丸」は、残念ながら、本丸復元のための発掘調査中ということで、
立入禁止だそうです。


(本丸)


仕方なく、本丸の見学をパスして、本丸の奥にある「御前曲輪」へ向かいます。

(御前曲輪)
御前曲輪(くるわ)には、戦闘指揮のための櫓(やぐら)がありました。

「曲輪」とは、土塁、石垣、堀などで区画された区域の名称で、「郭」(くる わ)とも書きます。


(御前曲輪の井戸)

御前曲輪の西側の堀に下りて、堀から御前曲輪の石垣を眺めながら、堀の中の道を「三の丸」へ向かいます。


(御前曲輪の西堀の石垣)


(三の丸)


(三の丸の石垣)




箕輪城跡の全体的な印象としては、堀切、郭、土塁などの遺構がよく残っており、また堀跡は深くて立派でした。

結局、私が歩いたコースとしては、椿名口から入り、大堀切、郭馬出を経て、二の丸、本丸、御前曲輪と進み、更に、
三の丸から元の二の丸に戻りました。


そして、二の丸から搦手口に出て、元の城山入口バス停に戻りました。

城山入口バス停から路線バスでJR高崎駅へ向かい、高崎駅から上野東京ラインで、乗り換えなしで横浜へ帰りました。



ps.
ご参考までに、これまでにご紹介した城を下記に書き出してみましたので、城に興味のある方はクリックしてみてださい。
なお下記の城名で、(100)とある城は「日本100名城」で、(200)とある城は「続日本100名城」です。

2017/11の勝山城 (下野国)、2017/9の忍城(200)、2017/8の沼田城(200)、2017/8の名胡桃城(200)、2017/8の小机城(200)
2017/4の熊本城(100)(被災後)、2017/4の館山城、2017/1の宇都宮城、2017/1の徳次郎城、2016/12の金山城(100)、2016/11の小山城
2016/11の古河城、2016/9の今治城(100)、2016/4の彦根城(100)、2016/4の福江城(200)、2016/4の熊本城(100)(被災前)
2015/10の岐阜城(100)、2015/10の犬山城(100)、2014/7の小倉城(200)、2014/6の福岡城(100)、2015/5の苗木城(200)
2014/4の島原城(100)、2012/3の水口城、2012/02の亀山城、2012/1の桑名城、2011/12の吉田城(200)、2011/11の 浜松城(200)
2011/11の掛川城(100)
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伊香保温泉 (群馬県) 2017.12.26

2018-01-17 06:15:54 | Weblog

(写真は、伊香保温泉の石段 )

年末年始は、毎年、温泉にのんびりと浸かることにしています。

このところは群馬県の温泉にハマっているので、年末も群馬の温泉で過ごしました。

これまで群馬県の温泉は、草津、磯部、四万水上万座藪塚猿ヶ京宝川
に行きましたが、昨年の年末は、久し振りに「伊香保温泉」に行って来ました。

「上野」(10:50) → JR特急りょうもう号 →(12:21)渋川 (乗車券1,193円 + 特急券1,030円)


上野駅では、向かいのホームに、上の写真の豪華列車・四季島が停車していました。


上野駅から特急りょうもう号に乗り、渋川駅で下りて、渋川駅前から路線バスで30分で伊香保温泉です。





伊香保温泉の歴史は1,200年前と古く、万葉集にもその名を残しています。

伊香保温泉の代名詞とも言えるのが写真の石段です。

急傾斜の土地に造られた365段の石段、その両側には、旅館をはじめ、土産物屋や飲食店、射的などの遊技場が軒を連ねています。
この温泉宿と石段の始まりは約450年前、真田幸村の父の真田昌幸によって造られたものです。

そして明治時代になると、御用邸やハワイ王国公使別邸も造られました。




365段の石段の一番上にあるのが伊香保神社です。





境内には、上の写真の「万葉歌碑」や、下の写真の「芭蕉句碑」があります。

句碑の側面には、「安永7年(1778年)戊戌 初冬雪才建之」と彫られています。

 "初時雨(はつしぐれ) 猿も小蓑(こみの)を 欲しげなり"

 (山の中で初時雨に遭遇したので、蓑を腰に巻いたが、樹上の猿たちも小蓑を欲しそうにしている。)

芭蕉が「奥の細道」の旅を終え、伊勢へ足をのばした後、故郷の上野へ帰る途中に、伊賀街道の長野峠で詠んだものとされている「猿蓑」の冒頭句です。




また、伊香保神社の境内にはイノシシ注意の立て看板も・・・

伊香保神社の奥の道を進んで、「河鹿橋」(かじかばし)へ向かいます。

写真の河鹿橋は、湯沢川に架かる朱色の太鼓橋です。



河鹿橋の脇には写真の「飲泉所」がありました。

飲んでみると、かなり錆っぽい味が強く、美味しくはありませんでした・・・

伊香保神社に戻り、伊香保温泉のシンボルの石段を下りて行きます。

365段の長い石段なので、石段の上の方にある伊香保温泉バス停で下りて、石段を上から下りて行って行った方が楽ですヨ・・・

石段をはさんで、土産物屋や饅頭屋が並び、温泉情緒たっぷりの楽しい風景です!



また、石段街には射的などの遊戯場があります。

温泉街といえばやっぱりこれですよね!

石段沿いに、射的場が5軒もあるのには驚きました。

覗いてみると、意外と、若い人達が入っています。


下の写真は、老舗「勝月堂」で買った伊香保名物の「湯の花まんじゅう」です。

今では、日本全国の温泉で必ず目にするあの茶色い温泉饅頭ですが、実は、ここ伊香保温泉があの温泉饅頭の発祥の地なのです。


2時近くになって空腹になったので、写真の「SARA'S Terrace Arraiya」に入り、上州牛のステーキ(2,052円)を食べました。



食事を終わり、石段沿いの店を覗きながら下りて行きます。





上の写真は、「小間口」です。

石段の下には源泉が流れており、小間口からは、その流れを見ることが出来ます。

各旅館の温泉は、この源泉から分流しています。



(足湯)


写真は、江戸時代に設置された「伊香保関所」です。

江戸時代には、三国街道の裏街道が伊香保を通過していたために、関所がここに設置されました。

伊香保関所は休館日だったため、残念ながら建物の内部は見学出来ませんでしたが、三国街道については、三国街1/2三国街道2/2を見てね。





(ハワイ王国公使別邸)











365段の石段の一番下にある石段街口バス停から、路線バスに乗って、伊香保バスターミナルで下り、今晩の宿の山陽ホテルへ向かいます。(1泊2食付き10,800円)





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奥州街道を歩く(21:佐久山) 栃木県大田原市

2018-01-08 07:47:58 | Weblog

(写真は、戊辰戦争の際に有名になった傷薬の薬屋の古い看板)

佐久山宿(さくやまじゅく)は、戸数121、人口473人で、
うち本陣1、脇本陣1、旅籠27でした。

佐久山は、1187年、源平合戦の際に弓で活躍した那須与一の
兄の那須次郎が、この地に佐久山城を築城して、佐久山氏を
名乗ったのが始まりです。
しかし、同族の福原資孝(すけたか)が佐久山氏を攻め、
佐久山城は落城、佐久山氏は追われました。
その後、1702年、福原資倍(すけます)が佐久山城を修復、
以後、福原氏が、旗本として明治維新までこの地を支配し
ました。

佐久山宿の入口の佐久山前坂交差点の脇の長い坂道を下り、
佐久山宿の中心の通りに入って行きます。


佐久山宿に入って直ぐ左手の民家の立派な門の脇に「運用膏」
と書かれた古い看板があります。

運用膏は、戊辰戦争の際、官軍が傷薬として用いて効き目が
絶大だったため、その後九州などからも注文があった有名な
薬屋らしいですが、現在は営業している気配はありません。

前頁の写真は、安政2年(1855)創業の「小島屋」菓子店
です。

新旧の家が混じった家並みですが、かっての宿場町の面影は
ほとんどなく、街道沿いには、空き地が目立ちます。

上の写真の郵便局の隣の駐車場が、かっての井上勘左衛門
「本陣跡」らしいのですが、説明板すらありません・・・

郵便局の手前には、上の写真の「村上英俊翁 生誕之地」の石
碑があります。
村上英俊は、ここ佐久山の出身で、日本で初めてのフランス語
の辞典を刊行するなど、幕末期から明治期にかけて活躍した
学者だそうです。

また、郵便局の隣の駐車場の横の空き地には、上の写真の
佐久山の出身の明治から昭和の書家「豊道春海翁 生誕之地」
の大きな石碑が建てられています。



豊道春海の石碑のすぐ先の右側に、上の写真の「大田原市
消防団」の倉庫があり、 その隣は、壁に那須与一が描かれた
公衆便所です。

ここ佐久山は大田原市ですが、至る所に「那須与一」関連の
立て看板などがあり、大田原市は「那須与一」で地域興しを
図ろうとしているみたいです。





消防団の倉庫の前には、上の写真の「旧奥州道中 佐久山宿
下町」の石柱が建っています。消防団の建物の前の道標を
右折すると、次頁の写真の「不動明王を祀った大日堂」が
あります。



大日堂の裏には、樹齢800年の「佐久山の欅(けやき)」が
ありました。

大日堂から街道に戻り、左手のガソリンスタンドを左折して、
佐久山小学校へ向かいます。

この小学校の裏山が「佐久山城址」でした。

佐久山城址は、現在は「御殿山公園」として整備されて
いました。

土塁などの一部が残っているらしいので、公園内をウロウロ
しましたが、その遺構へ行く道順の案内板が見当たりません
でした。



城址から小学校の前に戻り、小学校の手前の石段を上って
行くと、写真の「薬師堂」がありました。





上の写真の天井の竜の絵は、日光東照宮の鳴き竜を描いた絵師
によるものという説がありますが、真偽のほどは不明です。

佐久山宿の見物を終えて、郵便局の前のバス停へ戻ります。

次のバスまで2時間半あり、次は16:51の最終便です。

バスまでの2時間半をどうやって過ごすか?

「安心して下さい。ちゃんと調べてますよ!」

この前の喜連川宿で学習しましたから!

佐久山宿の入口に、日帰りの温泉があることを調査済みです。

佐久山宿の中心通りから、長い坂道を、佐久山宿の入口まで
戻ります。

佐久山宿の入口の交差点を右折した直ぐ先が、「佐久山温泉 
きみのゆ」という日帰り温泉施設です。

直ぐ横は、魚鶴という温泉ホテルで、きみのゆとは同族経営
みたいな感じです。
入湯料620円を払って、バスの時間までの2時間を過ごし
ました。

源泉かけ流しのアルカリ性単純温泉で、少しヌルッとする程度
の優しいお湯です。
大浴場、ジェット浴槽、座湯、サウナの他に、岩造りの露天
風呂もあります。

食堂の料理は、安くてメニューも多く、味もまあまあで、
常連客らしき人達でほぼ満員です。

館内の売店には、地元の野菜や果物も販売されていました。


「佐久山温泉 きみのゆ」を出て、16:51の最終バスに乗り、
大田原市役所前で乗り換えて、JR西那須野駅へ向かいます。
JR西那須野駅から東北本線に乗り、宇都宮駅で上野東京
ラインに乗り換えて、横浜に帰りました。


翌週、前回のゴールの佐久山宿へ向かいます。
佐久山行きの始発バスに間に合う様に、東京駅から
新幹線を利用します。

早朝に、JR横浜駅から上野東京ラインで東京駅へ行き、
東京駅から東北新幹線で那須塩原駅へ向かいます。


那須塩原駅前からバスに乗り、大田原市体育館前で、佐久山
行きの始発バスに乗り換えて、前回ゴールの佐久山郵便局前に
到着しました。


横浜(6:58) →(7:28)東京(7:44)→新幹線やまびこ→
(8:58)那須塩原
那須塩原駅前(9:15) →大田原市営バス →(9:38)大田原市
体育館前(9:40) →大田原市営バス →(10:00)佐久山
郵便局前


前回ゴールの佐久山郵便局前をスタートすると、直ぐに
佐久山宿を抜け、街道は右にカーブしながら坂を下ります。

坂の途中の「正浄寺」には、芭蕉の句碑がありました。

 「花の陰 謡(うたい)に似たる 旅寝哉(たびねかな)」 

 (吉野の花に行き暮れて、こうして旅寝をしていると、
なにやら謡曲の主人公になったような気分になる。)

この句は芭蕉が吉野で詠んだものですが、この様に、芭蕉の
句碑は、全てがそこで読まれた句という訳ではなくて、
後世に、その地域の芭蕉ファンが好きな句を選んで建てたのも
多い様です。

暫く街道を進み、次頁の写真の「箒川(ほうきがわ)」に
架かる「岩井橋」を渡ります。









岩井橋の直ぐに先の上り坂の左手に、上の写真の馬頭観音
らしき石碑群がありました。

そのあとは、ほぼ直線の道がずっと続きます。



やがて、吉沢地区に入り、谷田川を渡る小さな橋を渡ります。


小川を覗いてみると、澄み切った清流に水草が揺らいで
います。

川の左手の小さな中島に、聖徳太子の碑が立っていますが、
この周辺が、県天然記念物「「イトヨ(糸魚)」の生息地
らしいです。

残念ながらイトヨは見えませんでしたが、いかにもイトヨの
生息地という感じの湧き水です。


上の写真は、大田原市のホームページに掲載されていた
「イトヨ(糸魚)」の写真です。


旧道は延々続きますが、更に進むと、右手が開けてきて、
遠くには山並みが見えます。



やがて「めがみばし」と書かれた橋を渡り、「親園」(ちか
ぞの)という集落に入っていきます。





少し進むと、左手に上の写真の「湯殿神社」があり、その鳥居
の手前に「鞘堂」があって、中には下の写真の「浦蘆(ほろ)」
石碑が納められています。 



「浦蘆」(ホロ)とは「蜃気楼」のことだそうです。
1812年、ここ那須野に、兵士の隊列が行進する「蜃気楼」が
現れました。

この蜃気楼を、旅の僧が目撃して記録、のちに、その記録した
光景をこの石碑に刻みました。

当時、ここ親園地区は、代官・山口鉄五郎の支配下にあり
ましたが、鉄五郎は、新田開発等の農村振興に努め、領民から
非常に慕われていました。

この「浦蘆(ほろ)」石碑には、その山口代官の善政を讃える
文言が加えられているそうです。

村人は、奥州街道を旅する人にも、広く山口代官の善政を
知ってもらおうと、街道筋にこの石碑を建てたのだそうです。

でも、どの様にして、この蜃気楼の発生と、鉄五郎の善政が
結びつくのでしょうか?

インターネットで調べてみると、どうも、中国の書「中庸」の
中にある”政治は蒲慮(蜃気楼)のようなもの”の一文と、
鉄五郎の善政を結び付けた様ですが、漢詩の素養がない私には、
この結びつきがよく理解出来ません・・・



浦蘆碑の斜め向かいに、代々名主を務めた立派な門構えの
「国井宅」があります。

門の脇の見事な赤マツには、「与一の里の名木・国井宅の
赤マツ」の説明板があり、樹齢約200年とあります。


その国井宅の門の左手の内側の「祠」の中に、「町初(まち
はじめ)碑」があります。

この石碑は、ここ「八木沢宿」が開かれたのを記念して
立てられた碑で、表に「此町初寛永四年(1627年)
卯(ひのえ)」、裏に「国井与左衛門」と彫られています。

なお、ここ親園(ちかぞの)にあった「八木沢宿」は
「間の宿」(注)でした。

 (注)「間の宿」(あいのしゅく): 宿場と宿場との中間
に設けられた休憩のための宿場で、宿泊は禁じられて
いました。


旧奥州街道は、町初碑の先からは、大田原宿の入口まで
約3キロの直線道路です。





やがて、街道は、百村川(もむらがわ)の川べりの道になる
ので、快適なウォーキングです。







その後、百村川の川べりから離れて、左にカーブすると、
大田原の市街地に入って行きます。





やがて、「佐久山街道」の道標も見えてきて、そこから
1キロくらい進むと、下の写真の神明町交差点です。

この交差点を右折すると、もう大田原宿です。


佐久山宿から大田原宿までは、約7キロです。

未だ昼過ぎですが、1日5キロの歩行制限を2キロ超えて
しまいましたし、足に少し痛みが出て来たので、本日は
早々と街道歩きを切り上げて、今晩の宿のJR西那須野駅前
のビジネスホテルにチェックインして、バスタブで足を
温めます。

もう既に、大田原の市街地に入ったので、この辺りからの
JR西那須野駅行きのバス便は頻繁にあります。
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奥州街道を歩く (20:喜連川)      栃木県さくら市

2018-01-07 07:51:43 | Weblog

(写真は、「武家屋敷跡」の「御用堀」)


「喜連川(きつれがわ)」は、源平合戦で、源氏側に参戦して
戦功があった塩谷五郎が、この地に城を築いたのが始まり
です。

江戸時代には、喜連川足利氏(1万石)の城下の宿場町
として、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒がありました。

喜連川藩は、石高は1万石に過ぎませんが、足利尊氏の流れを
汲む「古河公方」の格式を誇り、幕府も参勤交代の義務を免除
するなど、普通の大名とは異なり、別格扱いでした。

大大名の仙台藩主・伊達氏が、喜連川を通りかかったとき、
喜連川藩主が橋の下で釣りをしていましたが、伊達氏は、
頭上を素通り出来ずに、釣りが終わるまでの長い間、
大名行列を止めて待っていたそうです。
驚き!
そして、ここの本陣・脇本陣には、奥羽・越後・下野など
37もの大名が宿泊しました。

それにしても、「喜連川宿」の「喜連川」という変わった地名
の由来、気になりますよね?

そもそも、「喜連川」という川は存在しません?

足利時代、この辺りの「荒川」の上流は、狐が住んでいたので
「狐川」と呼ばれていました。

しかし、「きつね川」ではあまりパッとしないというので、
縁起を担いで、この町を流れる3つの小川が、”喜んで
連なって流れる川”という意味で、「狐(きつね)」を
「喜連(きつれ)」に置き換えたそうです。

従って、元が「きつね川」と発音が濁らないため、
「きづれ川」と濁らないで「きつれ川」と読みます。

なるほどね!

その関係でしょうか、「きつねの嫁入り」のイベントの
ポスターが、宿場町の随所に貼られています。




喜連川宿の入口に架かる連城橋を渡り、宿場町に入ります。



喜連川宿は、静かな街並みで、何処となく宿場町の雰囲気を
残しています。








宿場町の街道沿いの左側に、「御用堀」の案内板が出て
います。
案内板に従って、路地を入って行くと、「武家屋敷跡」の
立派な塀に沿って「御用堀」が続いています。




説明板によると、藩主の喜連川氏が、飲料、灌漑、防火用水の
目的で堀を作ったもので、当時は、城の中まで通じていた
そうです。
車も通らず、人通りも少ない、落ち着いた雰囲気の古い家が
並んでいます。



御用堀の水路の中を覗いてみると、大きな鯉が泳いで
いました。

武家屋敷跡を更に奥へと歩いて行くと、右手の細い道の奥の
階段の上に、写真の「喜連川神社」がありました。



案内板によると、喜連川神社は、”あばれ御輿”の行事で
有名なのだそうです。


喜連川神社から、宿場町の通りに戻って、本町の交差点を
過ぎると、右手に、喜連川足利氏の歴代の墓所である
「龍光寺」の案内板が出ています。





案内板に従って、路地を入って行くと、前方に朱色の山門が
見え、山門をくぐると、正面が龍光寺の本堂です。

この寺の創始者は、何と!、足利尊氏だそうです!


龍光寺の本堂の左手に、次頁の写真の喜連川足利氏の
歴代の廟所がありました。













龍光寺は、代々、喜連川足利氏の菩提寺として、寺領50石
で、喜連川藩の加護を受けたそうです。


龍光寺を出て街道に戻り、少し歩くと、「街の駅本陣」の看板
が見えました。

ここが、かつての本陣跡みたいです。

本陣跡には、大正15年に警察署が建てられ、現在は、その
警察署は、現在は上の写真のレストランになっていました。


前頁の写真は、本陣跡の敷地内にある「突抜き井戸」と呼ばれる
”自噴井(じふんせい)”です。
(自噴井:この辺りの地域では、特殊な地層の影響で、地下水
 に圧力が かかっているので、井戸を掘ってパイプを差し
 込むと、地下水が噴水のように噴き出すのだそうです。)

下の写真は「脇本陣跡」で、脇本陣の位置を示す松が植え
られ、右端には明治天皇小休止の石碑が建っています。


次頁の写真の「笹屋」は、創業250年の老舗で、江戸時代
には「萬ヤ」(よろずや)の屋号で呉服商を営んでいました。
蔵造りの建物には江戸時代の名残りが感じられます。




未だ、お昼時ですが、整形外科医の指示の「1日5キロ制限」
を守るため、喜連川宿の見物を終わり、早々と喜連川のバス停
へ向かいます。

ここ喜連川本町のバス停から路線バスに乗り、いったん
JR氏家駅に出て、JR氏家駅から、今晩の宿を予約している
JR宇都宮へ戻ります。

現在、お昼の12:30ですが、JR氏家駅行きのバスの時刻
は、何と!朝9:46の次は、夕方の17:26です!
えぇ~?、ウソ~・・・

あと5時間も、何もないこの田舎町で、どうやって過ごせ
ばよいの?

途方に暮れ、バス停の前に呆然と立ち尽くしてしまいます・・


JR氏家駅に戻る次のバスが来るまでの5時間をどうして
過ごそうかと、喜連川のバス停の前で、
ぼんやりと考えていました。

バス停には、下の写真の喜連川宿の観光案内地図があった
ので、暫くの間じっと見詰めていました・・・


地図をよく見ると、「寒竹囲いの家」の更に先の方に
「もとゆ温泉」と書かれています。

温泉だと、ひょっとしたら日帰り入浴が出来るかも知れない!
、と思い、取り敢えず、その温泉に行ってみる
ことにしました。


地図に従って脇道に入ると、下の写真の「寒竹囲い(かんちく
がこい)」という竹の生垣に囲まれた民家がありました。

その説明板によると、喜連川氏の六代藩主が、藩士の家の
周りを板塀にするとお金が掛かるので、経費削減のために、
竹(笹)の生垣を奨励したそうです。



「寒竹囲いの家」から、立派な武家屋敷風の家を見ながら、
更に狭い脇道を、ずっと歩いて行きます。

やがて人家がまばらになり、何もなさそうな風景のところまで
来ると、その前に目指す「喜連川もとゆ温泉」の建物があり
ました。

この温泉は、さくら市の市営みたいで、入浴料300円を
払って入ります。

施設は新しくて綺麗で、平日ですが地元のお年寄りで賑わって
います。
温泉のお湯は薄い茶色ですが、風呂場の説明書きによると、
この「もとゆ温泉」は、”美肌の湯”として有名なのだ
そうです。
少し熱めのお風呂と、ぬるめのお風呂と、露天風呂の3種類の
浴槽がありました。

ここで5時間を過ごすつもりで、ぬるめのお風呂に、
ゆっくりと浸かります。
しかし、1時間も入っていたら、湯あたりしそうになった
ので、食事処へ移って、盛りそば(400円)を食べます。

そのあとは、休憩所の畳の上に横になって一休みしましたが、
ここで過ごすのは3時間が限度でした。


「もとゆ温泉」を出て、宿場町のメインストリートに戻ります。

温泉で3時間を過ごせたものの、バスの時間まで未だ2時間も
あります・・・


上の写真の大正時代風のモダンな建物の「観光情報館」に
入ってみます。

観光情報館のお姉さんに、時間の潰し方?を相談してみます。

”街道沿いの史跡は見終えたけれども、この近くで、どこか
2時間くらいかけて見物するところはありませんか?”

すると、お姉さんが親切に教えてくれました。

”現在、「喜連川城跡」は、震災修復の工事中で原則立入り
禁止ですが、途中までの見学は可能です。

 途中まで行けば、城跡の主要な部分は見学出来ますよ。”



「観光情報館」の展示資料によると、源平合戦で源氏側に
参戦し、戦功のあった塩谷五郎が、喜連川付近に領地を賜り、
1186年、喜連川城(当時は大蔵ヶ崎城)を築いて居城と
しました。

以降、喜連川城を居城とした塩谷氏の支配は、17代400年
にもわたって続きました。

しかし、戦国時代に入ると、17代・塩谷惟久が、豊臣秀吉
による小田原征伐の際に遅参したとして改易されて
しまいました。

そして、秀吉は、塩谷氏の後釜を、室町幕府の将軍家・足利氏
にしました。
これは、当時、名門の足利氏が断絶しそうになっていたので、
秀吉がこれを惜しんだためだそうです。

そして、江戸時代に入ると、足利氏の後裔という家柄が徳川家
にも重んじられ、10万石格の格式が与えられて、参勤交代の
義務なども免除されます。

足利・喜連川氏の支配は幕末まで続きました。

明治3年、喜連川城は廃城となりますが、城の遺構としては、
一の堀、二の堀、三の堀、四の堀の空堀や土塁などが
残されました。

昭和に入り、城跡は「お丸山公園」として整備され、
山頂には、高さが50メートルもある「喜連川スカイタワー」
が造られました。

しかし、2011年の東日本大震災により、喜連川城跡は
壊滅的な被害を受け、お丸山公園への立ち入りは禁止
されました。

現在も、喜連川城跡の損傷は激しく、復旧に多額の費用を
必要とするスカイタワーなどの施設は復旧の目途が
たっていません・・・

観光情報館のお姉さんにお礼を言って、「喜連川城跡」を
目指して、教えられた通りに、観光情報館の少し先の市役所の
駐車場へ向かいます。

市役所の駐車場の奥に、再建された「喜連川城大手門」が
ありました。



大手門の先に「お丸山公園」と書かれた門があり、お丸山公園
の急な道を上って行くと、山頂の本丸跡と思われるところが
広場になっていました。






ここからは、喜連川の街並みが良く見渡せ、真下には、先程
入浴した下の写真の「もとゆ温泉」の建物も見えます。





右手の道を進み、朱色の橋を渡りますが、下を覗くと、非常に
深くて幅も広い堀があります。






更に進むと、堀の向こう側に「喜連川スカイタワー」が
見えましたが、ここから先は、工事中で進めないため
引き返します。

喜連川城跡の見物を終わり、喜連川のバス停へ向かいます。
ようやく、17:26発の路線バスに乗り、いったんJR氏家駅に
出て、JR氏家駅から、今晩の宿を予約しているJR宇都宮へ
戻ります。

JR宇都宮駅で恒例の餃子(12種類の餃子食べ比べセット:
850円)を食べてから、今晩の宿のビジネスホテルへ
向かいました。
(パークプラザ宇都宮:4,480円)



翌日は、早朝に、宇都宮のビジネスホテルを出て、
JR宇都宮駅から東北本線に乗り、3つ先の氏家駅で
下ります。




氏家駅前から、始発の路線バスに乗り、昨日のゴールの
喜連川宿のバス停に着きました。



喜連川宿は、昨日、隅から隅まで見物したので、直ぐに、
宿の北の外れへ向かいます。

宿場の外れに、由緒がありそうな立派な門構えの下の
写真の「たかしお薬局」がありました。


宿場町を抜けると、三叉路の台町信号に出ます。




三叉路の正面の一段高い位置に、1724年建立の
「右 奥州街道  左 在郷道」と刻まれた道標が
ありました。





この道標に従い、台町交差点の手前を右折する細い道を下りて
行きます。(写真の赤線矢印)



坂を下った突き当りを左折し、「内川」に架かる「金竜橋」を
渡ります。





金竜橋を渡ると、旧奥州街道(114号)は、緩やかな
上り登り坂となり、真っ直ぐに北上して、次の佐久山宿へ
向かいます。



(19.0キロ ー 13.7キロ = 5.3キロ)
白沢宿にあった前頁の写真の説明板によると、今日の
喜連川宿から佐久山宿への歩行距離は5.3キロなので、
股関節炎のために、私が整形外科から課せられている
1日5キロの歩行制限にピッタリの行程です。


旧奥州街道の上り坂の途中の「金鶏神社」を右手に見ながら
進むと、少し先に、下の写真の大きな「双体の道祖神」が
ありました。





上り坂が少し緩やかになったころに、菖蒲沢公園の信号機が
あり、その左手には、JR東日本が開発した「びゅう
フォレスト喜連川」の上の写真の看板があります。

私は以前から「喜連川」の地名だけは知っていました。
それは、私が通勤に利用していた京浜東北線の車内や駅に、
長い間「びゅうフォレスト喜連川」の広告が大々的に
掲げられていたからでした。
JR東日本が開発した戸建て団地なのに、何故、何年も
売れずにしつこく車内広告を続けるのだろう?、と
ずっと不思議に思っていました。

ここへ来てなるほど!、と納得しました。
こんなバス路線もない、人家もない様な不便な土地の一戸建て
を買う人は少ないでしょう・・・
それにしても、最大手のJR東日本が何故こんな辺鄙な土地の
開発を?

(現在の横浜・桜木町駅のホームの「びゅうフォレスト喜連川」
 の巨大な広告ポスター)

旧奥州街道は、森林の中を進みます・・・

やがて、街道は田園風景に変わり、「JA栃木 
米コシヒカリ」の大きな倉庫を右手に見ながら
歩き続けます。







間もなく、道は一直線に続く広い道路になり、その
真っ直ぐな道を延々と歩いて行きます・・・

変だなあ~?

喜連川宿をスタートしてからの時間と歩数からすると、もう
5キロを超えており、とっくに次の佐久山宿に着いている
ハズなのに?

しかし、行けども行けども、一直線の道が続き、どう見ても、
旧奥州街道の雰囲気ではありません・・・

どう見ても、道を間違えてしまいました。

しかし、どの分岐点で道を間違えたのか?

ここは、電車も路線バスも走っていないし、道を聞く人も
歩いていないし・・・

仕方なく、殆ど車も人も通らない道を、次の集落まで延々と
歩いて行きます。

かなりの距離を歩いて行くと、やがて小さな集落に入り、
下河戸駐在所の建物の先の丁字路に、「直進 25号線 矢板、
右折 114号線 大田原」の標識が見えました。




右折する道の先の方を眺めると、右側に大きな道祖神が
見えます(上の写真の赤丸印)

道端に道祖神が立っているということは、右折する道は、
旧奥州街道の可能性が大です!

やった!!

てっきり道を間違えたと思いながらずっと歩いて来ましたが、
どうも正しい道を歩いていたみたいです。

足を痛めているだけに、来た道を引き返さずに済んで、
結果オーライで嬉しいです!

大きな「道祖神」の後ろには「天皇御小休之際御膳水」碑が
建っています。

道祖神を過ぎると、建物もまばらになり、やがて旧奥州街道は
下り坂になります。



街道の脇には、「源氏ぼたるの里」の看板があるので、多分、
この辺りはホタルで有名なのでしょう。

それにしても、もうとっくに5キロは歩いているのに、次の
佐久山宿へ入る気配は全くありません・・・

あの白沢宿にあった、喜連川宿から佐久山宿への距離表示の
説明板は何だったのだろう?




更に進んで行くと、右手に「きつれ川幼稚園」と「老人
ホーム」があり、そこに次頁の写真の「明治天皇
御休輦之處」碑が建っていました。



そして、更に、田園風景の中を延々と歩いて行くと、さくら市
と大田原市の境の看板があり、その更に先に、次頁の写真の
「与一の里の名木」の説明板がありました。



その説明板によると、ここは、高久宅の樹高5メートルの
ツツジ群で、推定樹齢200年だそうです。
大田原市は、源平合戦で、弓で活躍した那須与一の出身地
です。
そして、その先も「48号線 大田原市街」への標識に従い、
延々と歩いて行きます。

その標識に従い、丁字路で左折すると、ようやく佐久山宿の
入口の佐久山前坂の交差点に着きました。

交差点の角に和菓子の松月があり、その和菓子屋の右側の長い
坂道を下ると、ようやく佐久山宿の中心の通りです。



喜連川宿から佐久山宿までは、約12キロです。


当初は1日5キロ制限に収まる距離だと勘違い!、結果的には
制限の倍以上の12キロもありましたが、足の痛みが再発
しなかったのは幸いでした。

それにしても、白沢宿にあった下の写真の喜連川宿から
佐久山宿への宿場間の距離表示板は、いったい何だったの
でしょうか?


ps.
上記の白沢宿の距離表示道標については、hide-sanさん
から、下記のコメントがありました。
  「道標の佐久山宿まで 6里12町 - 3里18町 
   = 約3里(12キロ) の方を利用すれば良かった
ですね。
   こうした間違いに気付かなかったのを不運と諦める
   ことですね。
   時々、道標や案内が間違っていることがあります。」
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奥州街道を歩く(19:氏家) 栃木県塩谷郡

2018-01-06 09:40:48 | Weblog

(写真は、光明寺の不動明王坐像)

奥州街道踏破のスタート早々に、足の付け根を痛めてリタイア
を余儀なくされたので、帰宅後直ぐに、近くの整形外科に
行きました。

診察の結果、レントゲン写真ではよくわからず、更にMRI
撮影をしたところ、足の付け根の骨の周りに水が溜まっている
ので、安静にしなさいとのこと。

それでも、何とか奥州街道歩きを続けたい旨を先生に訴える
と、「1日の歩行距離を5キロ程度に抑え、毎週診察を
受けること」を条件に許可が下りました。

う~ん・・・、都内を5キロ刻みで歩くことは可能ですが、
電車もバスもない田んぼの真ん中で、1日5キロを終了
しても、その後、どうすればよいの?
でも、とにかく、何とか英知を絞って、「1日5キロ」の
プラン策定するしかありません。


早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインに乗り、宇都宮駅で
東北本線に乗り換え、宇都宮から3つ先の前回ゴールの
JR氏家駅で下ります。

整形外科で貰った足の痛み止めを飲み、湿布薬をたっぷり
貼って、「1日5キロ計画」のもとに、JR氏家駅前を
スタートします。


ここ氏家の地は、鎌倉時代、宇都宮氏が勝山に築城して、
この地を支配していました。

そして、宇都宮公頼が、この地域を「氏家郡」と称し、この
地名をとって自ら「氏家氏」を名乗りました。
1597年、宇都宮氏の滅亡に伴う勝山城の廃城で、禄を失った
家臣達の一部がここ氏家に住み着き、宿場としての町並みを
開きました。

ここ「氏家宿」は、もともと、鬼怒川の水路が江戸まで通じて
いたため、宿場町の端の「阿久津河岸」が鬼怒川舟運の起点と
なっていました。
そして、1627年には「奥州街道」が開通し、更に1695年に
「会津中街道」(氏家~会津若松)が開かれ、また「会津西
街道」(氏家~大内~会津若松)の整備もあって、「氏家宿」
は、物資の集散地として、また、交通の要衝として繁盛し
ました。


JR氏家駅の東口を出て、駅前の道を右折した小道沿いに、
写真の「蔦地蔵」があります。

「蔦地蔵」は「定家地蔵」とも呼ばれています。

鎌倉時代、宇都宮氏によって形成された”宇都宮歌壇”は、
藤原定家とも親交があったそうです。

その藤原定家との縁で、定家の7周忌に、”定家の面影を
模した”という地蔵がここに建立されました。
う~ん・・・、歌人・藤原定家とは、この蔦地蔵の様な顔を
していたのでしょうか?

「蔦地蔵」の奥の敷地は、氏家氏の始祖で、勝山城を築いた
氏家公頼が、1191年に建立した「西導寺」があります。

上の写真の西導寺の本堂は、1784年の建立です。

西導寺を出て、氏家駅東入口の信号を直進します。
氏家の中心部の街道沿いのは、宿場当時の面影は何も残って
おらず、また更地が目立ち、何となく淋しい雰囲気です。






直ぐに「光明寺」の山門が見え、その山門の先に、「青銅
不動明王坐像」(県重文)が、凄い形相でこちらを睨んで
います!

1759年、宇都宮藩の御用鋳物師が造ったという高さ
3メートルの不動明王が、激しい憤怒の表情で露天に
鎮座しています!



うわ~!、ど迫力!、これは見ものです!

不動明王像の左手は、次頁の写真の本堂です。



光明寺を出て、更に進むと、下の写真の上町信号交差点に
出ました。

この交差点を直進するのが「会津西街道」(氏家~大内~会津
若松)で、奥州街道は、ここを右折して48号線を進みます。

(赤色線が奥州街道、黄色線が会津西街道)

整形外科の痛み止めと湿布薬の効果か、これまでのところ、
足の痛みはなく、順調なウォーキングです。


氏家宿を抜けると、 直ぐに写真の五行川橋を渡り、桜野地区
に入ります。



桜野地区の左手には、江戸時代に庄屋を務めたという上の写真
の「村上家」が残っています。

村上家の門には、写真の「水位痕」の張り紙がしてあり
ました。



(赤丸印が「水位痕」の張り紙の位置で、この高さまで洪水が
 襲ったことを示しています。
その説明書きによると、1683年、日光大地震で、鬼怒川の
上流が堰き止められて五十湖が出来ました。
その五十湖が、1723年の暴風雨で決壊して、鬼怒川沿岸に
甚大な被害をもたらし、死者・千数百人が出たそうです。
これは、五十里洪水と呼ばれ、この村上家の門の張り紙は、
そのときの水位痕を今に伝えるものでした。


その「村上家」の隣にあり、下の写真の様な立派な長屋門を
構えるのは、明治25年建築の「瀧澤家住宅」です。

「瀧澤家」は、明治時代に紡績業を営んで豪商となった家柄で、
第四十一銀行の設立、那須野が原の開拓などに尽力した
そうです。

広大な敷地を囲む白壁の塀に沿って歩いてみると、下の写真の
様に、土蔵の屋根の上に、珍しい形をした洋風の望楼があり
ました。


失礼して、門から少し中を覗かせてもらうと、次頁の写真の
様に広々とした敷地の中に、県重要文化財だという蔵座敷など
の建物が見えました。




瀧澤家住宅の少し先には、鎮守の八幡神社があります。


そして、奥州街道沿いには、十九夜塔、二十三夜塔(注)、
野仏像などが点在し、街道の名残を感じさせます。

(注)十九夜塔、二十三夜塔
   日本の民間信仰の一つで、十九夜、二十三夜などの特定
   の月齢の夜に「講中」と称する仲間が集まり、飲食を
共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を
追い払うという宗教行事(月待ちの行事)。

   その月待ちの行事の供養の記念として造立したのが
   十九夜塔、二十三夜塔などです。


暫く歩いて行くと、街道沿いの立派なお宅の門の脇に、
上の写真の「一里塚」の矢印がありました。
矢印に従って、このお宅の広い庭の中へ入って行くと、
いきなり犬に激しく吠えられ、立往生してしまいました!

すると、家の中から上品なオバサマが、慌てて出て
いらっしゃいました。
「何か御用でしょうか?」

道路の一里塚の矢印に従って門から入ったところ、お宅の
庭の奥まで入り込んでしまった、旨を説明しました。

すると、上品なオバサマは、「せっかく来られたのですから、
塀の内側から、一里塚跡の写真を撮っていって下さい。」と、
親切に、門の脇の庭の中にある「一里塚跡」へ案内して
下さいました。

そこには、「一里塚」が残っており、塚の上に小さな祠が
ありました。

そそっかしい私のせいで、すっかりお手数をかけてしまい
大恐縮です。

お礼を言って外へ出ると、オバサマの仰る通り、確かに、
道路沿いに一里塚跡の標識と説明板があり、お宅の庭に
入らなくても、外から、道路沿いに写真が撮れる様に
してありました。
その説明板によると、奥州街道で現存する一里塚は、ほとんど
無いらしいです。

そそっかしい性格のお陰で、貴重な遺構を、真近かで拝見
させて頂いたことになります。

親切なオバサマの案内で、お宅の庭先の「一里塚跡」を見学
させて頂いた後、引き続き旧奥州街道を歩いて行きます。



この辺りからは、ほぼ住宅が途切れて、街道の両側は、長閑な
田園風景が広がっています。


旧奥州街道が右に大きくカーブする地点には、「右折が
喜連川」の交通標識が現われます。


この大きなカーブの右手前の自動車修理工場の前に、写真の
新旧2つの「大黒天」があり、その土台には、明治時代の
水準点記号が刻まれています?

かなり見辛いですが、上の写真の赤丸印の部分に、漢字の
「不」(「不朽物」:恒久的に残るであろうもの)を
彫って水準点としています。
説明版によると、明治時代に入って、国が奥州街道を測量した
際に、この辺一帯は水田地帯で、周囲に基準とすべき目安が
ありませんでした。
そこで、昔からある古い方の大黒天の台座に水準点記号を
刻み込んで、水準点として使用したそうです。
なるほど!
大黒天の水準点のところを右に大きくカーブして、
国道293号を進んで行きます。
やがて、江戸を発ってから、最初の本格的な坂だったという
「弥五郎坂」に差し掛かります。

弥五郎坂の一帯は、南の宇都宮氏と、北の喜連川城主・塩谷氏
との合戦場となり、喜連川軍の弥五郎が、ここ弥五郎坂で
敵将を弓で討ち取りました。
(ちなみに、ここ栃木県塩谷郡の地名は、この喜連川城主・
 塩谷氏に由来します。
その後、弥五郎は敵将を供養する五輪塔をここ弥五郎坂に
建立しました。
まもなく、この旧奥州街道沿いに、その弥五郎が建立した
五輪塔が見えるハズなのですが・・・
暫く坂を上ると、左手に、写真のニッカウヰスキーの円形看板
が見えました。

え~っ?、左手?
しまった!、左手という事は、どこかで旧奥州街道への分岐点
を見落としてしまったんだ!
というのは、氏家駅前で見た案内地図では、旧奥州街道は、
ニッカウヰスキーの工場を右手に見ながら進む様に書かれて
いました。
右手ではなく、左手に工場の看板があるということは・・・

左に入る旧奥州街道への分岐点を見落としてしまったんだ!

でも、街道沿いの左側に、分岐点の表示がないか、十分に注意
して歩いて来たけどな~?
唯一思い当たるのは、先程の大黒天の水準点のところに、直進
する狭い道があったのですが、ゴルフ場のセブンハンドレッド
の看板だけしかなかったので、ゴルフ場の専用道で行き止まり
だと思い込んでしまいました。
更に、大黒天の水準点のところには、「右折が喜連川」の交通
標識があり、喜連川宿へ向かう私はこの交通標識に引きずられ
て、右に大きくカーブする国道293号を進んでしまいました。

(赤色線が正しい旧奥州街道、青色線が「右折が喜連川」の
 交通標識につられて間違えて行ってしまった国道293号、
 黄色丸印がゴルフ場の看板。)
これまでの私だったら、直ぐに、通り過ぎた大黒天の水準点
のところの分岐点まで引き返すのですが、足の痛みを抱え、
1日5キロ制限の今回は、諦めて、このまま、道幅の広い国道
を進みます・・・

(従って、見学予定だった弥五郎坂の五輪塔はパスします
結局、歩いているこの坂は「弥五郎坂」ではなくて、
「新弥五郎坂」ということになります。
江戸を発ってから最初の本格的な坂だったという弥五郎坂は、
思っていたほどの坂ではありません。

これは、坂の両脇を見ると、かなり深く開削されている感じ
なので、きっと「新弥五郎坂」を造る際の工事で、坂を極力
平坦にするために、路面を下げたのでしょう。

国道は、緩やかな上り坂となり、道路脇には、木陰でちょっと
見辛いですが、上の写真の仲むつましく寄り添うようなかたち
の道祖神が建っています。

間もなく、この辺りが峠の頂上なのでしょう、先が下り坂に
なっています。



下り坂を暫く歩いて行くと、Y字型の分岐点があり、ここで
国道293号から分かれて、左手の県道114号に入ると、
直ぐに、「歓迎 喜連川温泉」の大きなアーチが現わました。




「早乙女の桜並木」の看板があり、ずっと桜並木が続きます
ので、桜満開の時期は見事なのでしょう。



桜並木道が終わると、その先は荒川に架かる「連城橋」で、
橋の右側に歩道橋が併設されています。

その歩道橋の右手前の角に、読み辛いですが、「右江戸道 
左下妻道」と刻まれた次頁の写真の道標が建っています。



橋を渡ると、喜連川の宿場町に入ります。
氏家宿から喜連川宿までは、約8キロです。
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奥州街道を歩く( 18-2:白沢:勝山城 (下野国) 栃木県河内郡

2018-01-05 10:47:40 | Weblog

(写真は、勝山城の空堀)

前回お話ししました様に、白沢宿から氏家宿へ向かう途中、
勝山城に立ち寄りました。

前回のブログが長くなり過ぎない様に、今回は、勝山城見学の
部分だけを切り離してブログにしました。


勝山城は、鬼怒川の左岸の段丘の最北端に位置する、南北
420メートル・東西370メートルの中世の平山城です。

鎌倉時代末期に、氏家氏により築城され(別名:氏家城)、
その後、宇都宮氏の一族の芳賀氏によって強固な城構えが
完成しました。

宇都宮氏一族の北方防衛の拠点の位置づけの城でしたが、
その後、1597年、宇都宮氏が秀吉により改易され、
廃城となりました。

現在は、「勝山城跡公園」として整備されています。





入口の案内板に従い、進んで行くと、上の写真の宝篋印塔が
ありました。

入口の先には、大手口(東側の入口)の木橋が見えます。







上の写真は、大手口の木橋の上から見た櫓台(やぐらだい:
写真の正面)跡と空堀です。

高い土塁と空堀が巡らされた「本丸」は、東西80メートル、
南北70メートルの方形で、土塁の堀底からの高さは
7~8メートルもあります。

空堀に架かる大手口の木橋を渡って進むと「本丸」跡があり
ました。

本丸の南西側には、上の写真の「搦手(からめて)の虎口」跡
があり、かっては土橋が架かっていました。

勝山城は、本丸の東に「二の丸」、南に「三の丸」があり、
二の丸と三の丸が、本丸をL字型に囲んでいます。



(二の丸跡)


(本丸北の空堀)


勝山城は、鬼怒川に面した段丘の西端に築かれているので、
眼下には鬼怒川の清流が望め、遠くには日光連山などを
一望することが出来ます。




秋晴れの下、素晴らしい景色に足の痛みも忘れます。

その鬼怒川の清流を望む場所に、次頁の写真の「釜ヶ淵 
雪姫・紅葉姫の伝説」の説明の石碑がありました。

石碑によると、その伝説は以下の通りです。

 ずっと昔、勝山城には、「紅葉姫と雪姫」という美しい姉妹
の姫が居ました。

(紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真から)

 当時、勝山城を巡る戦いがあり、この戦いで両親を殺された
「紅葉姫と雪姫」は、敵に追い詰められ、勝山城の切り
立った崖の下にある「釜ヶ淵」(かまがふち)に身を投げ
ました。

 時は経ち江戸時代、勝山城跡の近くに住む「源じい」という
 百姓は、網打ちが好きで、よく川に行っては、一日中網打ち
 をしておりました。

 ある夏の夕暮れ、源じいが、勝山城跡の切り立った崖の下に
ある「釜ヶ淵」(上の写真の池の辺り)で、網打ちをして
いると、舟の周りに、美しく鮮やかな緋鯉と雪のように
真っ白な鯉が現れました。

 真っ白な鯉は、源じいが投げた網にかかると、淵の底に
 引きずり込む様な凄い勢いで網を引っ張りました。

 源じいは、やっとの思いで、真っ白な鯉を船に引き上げ、
 家路につこうと舟を漕ぎ始めました。

 すると、どこからともなく「雪姫、雪姫」と呼ぶ若い女の声
が聞こえ、源じいの舟は、あっというまに転覆してしまい
ました。

(紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真から)

 船から逃げ出した真っ白な鯉は、鮮やかな緋鯉と寄り添う
 ように「釜ヶ淵」の奥へと姿を消して行きました。

 翌朝、源じいが気が付くと、淵よりずっと下流の岸辺に
 投げ出されていました。
 源じいは夢でも見たのだろうと思いましたが、それっきり
 大好きだった網打ちを一切やめてしまいました。

 今でも、「釜ヶ淵」では、美しく鮮やかな緋鯉と雪のように
 真っ白な鯉が、淵の深くに潜んでいて、時々寄り添って
 水面まで上がってきて、仲良く泳ぐそうです。

(紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真
 から)



勝山城の土塁の外側を一周して、上の写真の「北限土塁跡」を
過ぎると、次頁の写真の「民家広場」に出ました。



上の写真は、喜連川宿から移築されたという「旧森家長屋門」
です。
民家広場から、元のの奥州街道に戻りました。

城址公園見学の以降については、前回の「奥州街道を歩く
(18-2:白沢から氏家へ)」の後半をご覧ください。
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奥州街道を歩く(18:白沢) 栃木県河内郡

2018-01-04 11:21:26 | Weblog

(写真は、街道の両側の用水で回る水車)

白沢宿は、徳川家康が、上杉攻めで鬼怒川を渡るときに案内役
を務めた白沢村の庄屋の宇加地家と福田家が、その功績が
認められ、両家共同で白沢宿を構成することが許されたのが
始まりだそうです。

明治18年に、奥州街道が現在の国道4号線に移ったため、
現在は、静かで真っ直ぐな町並みのまま、往時の宿場の
雰囲気を残しています。

稚児坂で亡くなった稚児を供養する白沢地蔵尊の前のやげん坂
(下の写真の)を、足の付け根に違和感を感じながら下って
行きます。

信号のある丁字路になり、ここを左折すると、下の写真の
白沢宿が始まります。

白沢宿は、現在では、往時の面影を残す建物はほとんど
ありませんが、すっきりとした町並みで、車も少なく、
のどかな風景です。


宿場町の中心の道の両側には、綺麗な用水が流れ、用水には
ガードレールもなく、水車が回り、鯉が泳いでいました。





各家には、宿場であった頃の屋号が表示されていて、奥州街道
をテーマにした町興しが進んでいるみたいです。

宿場通りの中ほどの左には、上の写真の「宇加地家 本陣」の
表示のある立派な建物があります。

前述の様に、宇加地家は、白沢宿の成立に関わる古い家柄で、
幕末まで本陣を勤めました。

宇加地家の直ぐ左手には、白沢宿の村社である「白髭神社」
への参道があります。


足の痛みで、びっこを引きながら白髭神社の急な石段を
上り切ると、眼下に白沢宿の町並みが見えます。


この神社の境内で、白沢宿の町並みを見下ろしながら、
一休みして、足の痛みが治まるのを待ちます。




白髭神社の石段を下りて、再び白沢宿を歩き始めますが、
宿場通りは意外と短く、直ぐに宿の終りの「鍵の手」に
突き当たり、右折します。

突き当たりは、井上清吉商店(上の写真の左側の家)で、
「澤姫」という地酒を造っているみたいです。

鍵の手を進むと、 下の写真の小さな九郷半橋があり、
渡った橋の袂に、白沢宿の看板が立っていたので、多分、
ここが宿場町の外れなのでしょう。



白沢宿の看板の横に、上の写真のお洒落な郵便局の建物が
あり、その先の左手に、下の写真の「白澤の一里塚」碑と
バス停が見えました。



案内板によると、この一里塚は、白沢宿の会が建てたもので、
元々の一里塚は鬼怒川の河原にあった、ということみたい
です。

私の計画では、今日は、ここから更に、次の氏家宿まで歩き、
JR氏家駅から宇都宮駅へ戻り、駅前のビジネスホテルに
泊まる予定でした。
そして、明朝、JR宇都宮駅から氏家駅へ向かい、再び
JR氏家駅から街道歩きを再スタートする予定でしたが・・・
しかし、足の付け根が痛くて、とても次の氏家宿まで
歩けそうにありません。
奥州街道踏破のスタート早々ですが、ここで、ついに無念の
リタイアです!

この一里塚の前にある白沢河原バス停が、JR宇都宮駅からの
路線バスの終点らしいので、取り敢えず、ここから路線バス
に乗って、終点のJR宇都宮駅に向かいます。
そして、宇都宮のビジネスホテルにチェックインして、
バスタブで足を温め、明日からの奥州街道歩きを続けるか
否か、判断しようと思います。



翌朝は、早朝から、宇都宮のビジネスホテルのバスタブに
ゆっくりと浸かって、足を温めてから、膝痛対策で
持ち歩いているフェイタスZを貼ります。
【第2類医薬品】フェイタスZαジクサス 21枚入 ※セルフメディケーション税制対象商品
クリエーター情報なし
久光製薬


足が温まったところで、ビジネスホテルを出て、JR宇都宮
駅前から、白沢河原行きの路線バスに乗り、終点を目指し
ます。

通勤時間帯の路線バスは、通勤客の流れとは逆方向ということ
もあり、白沢に近づくと、乗客は私一人になりました。

終点の白沢河原バス停で降りようとすると、私を見たバスの
運転手さんが、幽霊でも見たかの様に、”あっ!”と
驚きの声を上げました??

逆に、私の方も、俺、そんなに変な恰好してたっけ?、と、
状況が掴めず、思わず自らの身なりを見直してしまいました
・・・?

どうも、私が座っていた最後部の端の座席が、運転手席からは
死角になっていたらしく、もう乗客は乗っていない、
と思い込んでいたみたいです。

「失礼しました!」とバツの悪そうな顔をした運転手さんは、
私に丁寧に詫びると、氏家へ歩くルートについて親切に教えて
くれました。


昨日、無念のリタイアをした「白澤の一里塚」碑をスタート
します。







快晴の秋空のもと、気持ちの良い田んぼの中の一本道を歩いて
行きます。

一時的でしょうが、フェイタスZのお陰で、足の痛みが消えて
います。


暫く歩くと、上の写真の西鬼怒川橋がありました。

その橋の袂に「鬼怒川の渡し」の矢印があったので、矢印に
従って、土手沿いに少し歩いてみましたが、下の写真の様な
川の中を向いた矢印があるだけで、「鬼怒川の渡し」の痕跡
らしきものは見当たりませんでした。


西鬼怒川橋を渡り、田んぼの中の道を歩いて行くと、やがて、
鬼怒川の堤防に突き当たるので、ここからは、次頁の写真の
鬼怒川の土手の上を歩いて行きます。


鬼怒川の土手を歩き始めると、フェイタスZの効果が薄れて
きたのか、足の痛みが再発しました・・・

この土手を河原の方へ下りて行くと、「鬼怒川渡し場跡」が
あるらしいのですが、足を引きずって歩いている様な状態
なので、河原の「渡し場跡」探しはパスします。



やがて、前方に、鬼怒川に架かる「阿久津大橋」が見えて
来ました。

江戸時代には、先ほどパスした「鬼怒川渡し場跡」から、対岸
へ舟で渡っていた訳ですが、現代では、その渡し場より少し
上流に架かるこの「阿久津大橋」を歩いて渡ります。

この橋は、歩道がなく、車の通行量も多いので、足を引きずり
ながら、小走りで、必死で渡り切ります。


鬼怒川を渡ると、「さくら市」に入ります。

さくら市側の鬼怒川の護岸には、昔、「阿久津河岸」があり、
奥州各地からの米を江戸へ運ぶ基地として、江戸時代から
明治中期まで賑わいが続いたそうです。
阿久津大橋を渡った直ぐ左手の土手を下りた近くに、船の御霊
を祀った極彩色の「船玉神社」があるみたいですが、足が
痛んで、土手を下りて行く気がしないのでパスします・・・


少し歩くと、「浮島地蔵尊」の矢印があったので、それに
従って行ってみると、下の写真の「浮島地蔵尊」のお堂が
ありました。



鬼怒川は、名前の通り大洪水が多かったのですが、このため、
水害除けの水神や地蔵の信仰が多く生まれました。

その中で、度重なる水害にも拘わらず、ここの地蔵尊は、
流されずに浮いいて、この地に留まったそうです。


浮島地蔵尊から旧奥州街道に戻り、更に進んでいくと、右手に
「将軍地蔵」の矢印があり、その直ぐ奥に、下の写真の地蔵堂
が見えました。


案内板によると、この「将軍地蔵」は「そうめん地蔵」とも
呼ばれているそうです。


これは、室町時代、この地から日光山に修行に行った坊さん
が、意地悪な山伏に素麺を無理やり食べさせられて気絶
しました。

その後、別の坊さんが来て、日光中の素麺を食べつくした
ので、その山伏は降参しました。

すると、勝った坊さんは、「将軍地蔵」の姿となり、無理やり
食べさせられて気絶した坊さんをここに連れて帰りました。
これが、現在行われている日光の「強飯式」の由来だそう
です。

そうめん地蔵の境内には、次頁の写真の閻魔堂もありました。




そうめん地蔵を出ると、少し先の左側に、「勝山城址」の
案内板があったので、案内板を左折して城址公園に
立ち寄ります。

⇒「勝山城址」見学については、次回に報告します。


城址公園の見学を終えて、旧奥州街道に戻り、少し歩くと、
国道4号にぶつかりました。

旧奥州街道と思しき?狭い道は、国道4号を横切って、反対側
に真っ直ぐに伸びています?

(赤色線が旧奥州街道と思しき道、黄色線が国道4号)

ここの交差点は、横断歩道も信号もなく、ダンプが猛スピード
で走っているので、横断するのは恐ろしい感じです。

でも、信号のある横断歩道まで迂回するには、かなりの距離が
ありそうなので、左右の車が切れたのを十分に確認してから、
足を引きずりながら走って渡りました。
やれやれ、ホッ・・・。

しかし、こんな信号も横断歩道もない様な田んぼ道のあぜ道
が、ホントに旧奥州街道なのでしょうか?

不安になってくると同時に、多分、何処かで道を間違えたの
だろうな~、という気がしてきました。
城址公園まで引き返して、分岐点を確認しようか否か、と
迷いながら、とても旧奥州街道とは思えない田んぼ道を、
トボトボと歩いていると、道の脇に、下の写真の
「お伊勢の森」の矢印がありました。
ホッ、間違えていなかったんだ!




「お伊勢の森」は、かっては広大な森だったらしいのですが、
現在は、民家の脇に、写真のこんもりとした木立があるだけ
で、「天照皇大神宮」の大きな石碑が建っています。

案内板によると、伊勢神宮をここに勧請した小さな神社が、
ここ旧奥州街道の脇にあったとのことです。  





更に進むと、JRの「旧奥州街道踏切り」があり、その先で、
T字路に付きあたりますが、この右角に写真の「奥州街道
道標」と「馬頭観世音像」が建っています。





道標は、ほとんど読めませんが、「右 江戸海道」、
「左 水戸・かさま・下だて・下づま」と彫られています。

この道標を左折すると、もう次の氏家宿です。

氏家宿に入りましたが、足の痛みが酷くなったので、宿場町の
見学はしないでJR氏家駅に直行します。

JR氏家駅から東北本線に乗り、宇都宮で上野東京ラインに
乗り換え、横浜に帰りました。


白沢宿から氏家宿までは、約7キロです。
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奥州街道を歩く(17:宇都宮)栃木県宇都宮市

2018-01-03 06:09:37 | Weblog

(写真は、「二荒山神社」への石段)
 ⇒ 
猛暑、長雨、台風とずっと異常気象が続いていましたが、
ようやく穏やかな秋晴れになったので、東海道、中山道、
日光街道の踏破に続き、奥州街道の踏破を目指します。

早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、乗り換えなし
でJR宇都宮駅へ向かいます。
JR宇都宮駅から、路線バスに乗り、地方裁判所前で下りて、
少し戻り、日光街道と奥州街道との追分から、奥州街道
踏破をスタートします。

日本橋から、日光街道とずっと重なってきた奥州街道は、ここ
宇都宮の伝馬町の交差点で、日光街道と分かれます。

上の写真の脇道へ左折する赤矢印が「日光街道」で、大通りを
直進する赤矢印が「奥州街道」です。

(日光街道と奥州街道の追分までの宇都宮宿の様子については、
「日光街道を歩く:17宇都宮」を見てね。)

宇都宮宿は、日光街道・奥州街道で最大の宿場で、二荒山神社
の門前町として発展してきました。
幕府は、日光東照宮の入口として、また、奥州地方に対する
北方への守りの拠点として宇都宮を重視していました。

しかし、宇都宮が戊辰戦争の戦場となった結果、宿場町は
ほとんど焼失してしまい、当時の面影はほとんど残って
いません。

日光街道と奥州街道との追分の道路向かいに本陣がありました
が、現在は、上の写真の様に、大銀杏がそびえています。


大通りの奥州街道を進んで行きます。



間もなく、左手に上の写真の「丸治ホテル」があります。
丸治ホテルは、創業300年で、江戸時代からこの場所で
旅籠を営んできました。
「丸治」の名前の由来は、創業者・丸谷治左衛門に由来する
そうで、丸治ホテルの幅が狭く奥行きが長い敷地が、
江戸時代の「短冊割り」の町割りの名残りです。


更に、大通りの奥州街道を進んでいくと、左側の石段を
上り切ったところに「二荒山神社」があります。









二荒山神社の石段を下りて、更に歩き、田川にかかる宮の橋を
渡ると、次頁の写真の正面の突き当たりには、JR宇都宮駅が
見えます。

JR宇都宮駅周辺には、餃子店が軒を連ねます。

日光街道踏破の際に、すっかり宇都宮餃子にハマってしまった
ので、素通りする訳にはいきません・・・
取り敢えず、宇都宮駅前の餃子屋で腹ごしらえをしてから、
奥州街道歩きを続けます。

(ネギ味噌焼き餃子と生ビールのセット:880円)  
( ↑ 最初に撮り忘れたので、食べかけの写真ですが

満腹になったので、宮の橋まで戻り、田川に沿って進みます。

暫く歩くと、明治28年に建てられた「旧篠原家住宅」(重要
文化財)があります。

篠原家は、江戸時代の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦
まで、醤油の醸造と肥料商を営んでいたそうです。

(篠原家の内部見学については、2013/1の「JR烏山線の沿線
散策」
を見てね。)

旧篠原家の辺りが宇都宮宿の外れで、ここから奥州街道の次の
宿場町の白沢宿を目指して歩いて行きます。

奥州街道は、やがて東北新幹線のガードをくぐり、
県道125号(宇都宮ー氏家線)に合流します。



上の写真は、街道沿いにある岩淵家の立派な長屋門です。


暫く歩くと、竹林町の信号の先の右奥の住宅街の中に、
前頁の写真の小さな「白山神社」があります。

何の変哲もない小さな神社ですが、実は、有名な「宇都宮城
”釣天井”(つりてんじょう)事件」の導火線となった舞台
が、何と!、この神社にありました!
(「釣天井事件」の詳細については、「日光街道を歩く
:17宇都宮」
を見てね。)

1621年、宇都宮城の改築に際し、2代将軍・徳川秀忠は、
根来組同心百人衆を、改築工事の監視のために送り込みます。
これに対し、宇都宮城主の本多正純は、何と!、幕府から
差し向けられたこの百人衆の全員を捕らえ、一日のうちに
処刑してしまいました!

そして、首と胴体を別々に埋めましたが、そのうちの胴体を
埋めた「根来塚」と呼ばれる胴塚が、ここ「白山神社」の
裏側にあったそうです。
怖っ~・・・
それにしても、本多正純と秀忠の確執は、想像以上のものが
あったんですねえ~。
将軍が差し向けた根来衆を、宇都宮城主が捕らえて斬首する
とは!

世間で”釣天井事件”がもっともらしく噂されたのも
頷けます。

という訳で、「白山神社」の裏手を一生懸命に探しましたが、
それらしき場所には、新築の民家も建っており、よく分かり
ませんでした・・・


根来塚を出て少し歩くと、次頁の写真の栃木銀行北支店の
横手に、下の写真の「首切り地蔵」がありました。






ここが、処刑された根来組同心百人衆の首を埋めた「首塚」が
あった場所だそうです。

ここには、処刑された百人衆が亡霊となって現れるので、
僧侶が、この「首切り地蔵」を建てて、この亡霊達を
供養したそうです。

「首切り地蔵」の横には、下の写真の「土堂原地蔵尊」の標柱
と石仏が並んでいました。

そして、この辺りは、また、宇都宮藩の処刑場でもあった
そうです。

怖っ~・・・






首切り地蔵を出て、松や杉などの旧街道の名残りを僅かに残す
直線の旧奥州街道を進みます。



街道の両側には、大谷石作りの塀や倉のある立派な家が
点在します。

暫く歩いていると、突然、右足の付け根に痛みが走りました!

奥州街道のスタート早々に、アクシデント発生です・・・

びっこをひきながら、ゆっくりゆっくりと歩きます。

しかし、歩く毎に、右足の付け根に軽い痛みが走ります。

半年ぶりの街道歩きで、ウォーミングアップ不足か?


びっこをひきながら、かなりの距離を歩いたところで、旧奥州
街道は、上の写真の「稚児坂」にさしかかります。

1196年、鎌倉幕府から奥州総奉行の任命を受けた伊沢家景
が、任地に向かう途中、この坂にさしかかったところで、
同行していた乳幼児の我が子を亡くしました。

それ以来、この坂は「稚児坂」と呼ばれる様になりました。


稚児坂を上り切ると、左手に広大な王子製紙の再生紙工場が
ありました。


その先に、白沢工業団地の看板があったので、既に白沢町に
入ったみたいです。


更に進んで行くと、Y字の分岐ありますが、奥州街道は直進
して、横断歩道橋のある方の道に向かいます。

やがて道は、右にカーブする坂道となり、その坂道を下り
始めると、右手に、前述の稚児坂で亡くなった稚児を
供養する下の写真の「白沢地蔵尊」がありました。







案内板によると、奥州総奉行・伊沢家景は、ここに我が子を
葬り、地蔵堂と石塔を建てた、とあります。


白沢地蔵尊で水分を補給して、一休みして、足の痛みが
治まったところで、白沢地蔵尊の前の坂を、ゆっくりと
下って行きます。

この坂は、案内板によると、漢方の薬種を砕く舟形の器具
(薬研:やげん)に坂の形が似ているとことから、
「やげん坂」と呼ばれているそうです。

やげん坂を下り切った突き当りの交差点が白沢宿の入口です。

宇都宮宿から白沢宿までは、約11キロです。
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あけましておめでとうございます    2018.1.1

2018-01-01 07:04:16 | Weblog

(日光街道の杉並木にて)

あけましておめでとうございます。

昨年も、私は、街道歩きを続け、日光街道を
踏破しました。

そして、今、奥州街道を歩いています。

宇都宮宿) をスタートして、(白沢宿)、
氏家宿)、(喜連川宿) と進んでいますので、
引き続き、このブログでご報告します。

これまでに踏破した東海道、中山道については、
下記のホームページでご覧下さい。

「東海道五十三次を歩く(完全踏破の一人旅)」

「中山道を歩く(完全踏破の一人旅)」


(東海道:岡部宿の柏屋にて)
   

(中山道・関ケ原宿にて)

本年もよろしくお願いします。

  峰さん こと ウォーク更家
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