(板橋宿のアーケード)
旧中山道 板橋宿のアーケードを過ぎると、
右側に観明寺の石柱と覆屋の中に保護された庚申塔が見えてくる。
(観明寺の石柱と覆屋)
観明寺は真言宗豊山派の寺で、正式には如意輪山観明寺という。
明治六年、当時の住職が街の繁栄祈祷のために、
千葉県成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。
現在も出世不動と呼ばれて親しまれている。
この寺の前の通りの不動堂通りの名は、
このお不動様に由来している。(板橋区教育委員会)
観明寺の石柱脇に覆屋に入った庚申塔がある。
(覆屋の中の庚申塔)
この庚申塔は、わざわざ覆屋があるほどで、
寛文元年(1661)の製造で、
青面金剛像が彫られたものとしては東京都最古のもので、
板橋区の指定有形文化財に指定されています。(板橋区教育委員会)
覆屋の中にカメラを入れて写してみる。
(青面金剛像の上にある右側に「月」と左側に「太陽」がある)
(青面金剛像)
青面金剛像が立っているさらに下には三猿がいるのが解りますでしょうか。
青面金剛像の足元の両脇には2童子を従えて、
(足の下には邪鬼を踏みつけている)
庚申信仰では、庚申の日の夜は寝ないで過ごすので、
「月」の出た夜から日が昇る朝までを現わして「太陽」が刻まれている。
青面金剛像は帝釈天(たいしゃくてん)の使者の金剛童子と言われ、
身体は青色で、手は六本(または二本、四本)、
怒りの形相をとる。
足元に邪鬼を踏まえ、両脇に2童子、4鬼神を従える、
また庚申(かのえさる)の日から三猿も従えるらしいが、
製作者の意向で彫られたり彫られなかったりする。
安直に「庚申塔」の文字だけの場合も多い。
話がそれてしまったが、観明寺の石柱の奥に赤い門が見える。
(赤い山門)
この赤い門は、東大の赤門と並び称されるもので、
東京大学は加賀藩上屋敷にある門で御守殿門と言われ、
奥方の通用門であるが、
ここ板橋宿には加賀藩の下屋敷にこの赤門はあったものとされ、
下屋敷では奥方の通用門であったと思われる。
(六地蔵)
(観明寺の本堂)
先の述べたように成田山新勝寺から分身した不動明王があるため、
出世不動と呼ばれているが、春の花見の頃が解りやすいので、
古い写真と切り絵を載せて置きたい。
(不動明王の本堂)
(観明寺切り絵)
その観明寺を出て隣にある、昔は「〇〇銀行」だった古い建物、
その先の路地を右折する。
(「〇〇銀行」だった古い建物)
(以前はここに「花の湯」と言う古い銭湯があったので、
目印に銭湯の手前を右折と案内出来たが、
今はないのが残念、板橋区ではどこかに移設するという話があるが、
真偽は不明である。
昔撮った写真(2004年撮影)と切り絵をここに載せて置く。)
(花の湯)
(花の湯切り絵)
右折して少し歩くと、近藤勇が留置されていた平尾宿脇本陣 豊田家跡に出る。
現在では脇本陣跡の碑しか残って居ないが、ご近所の方の話によると、
脇本陣は、ここより向こうの道路まであった大きな屋敷で、
座敷の周りは縁側であったと言う。
当時の面影が切り絵に残って居るので乗せて置く。
(豊田家脇本陣の図)
(板橋宿平尾町脇本陣跡の碑)
さて、平尾宿脇本陣跡から路地を出てくると、
道路の向こう側に中山道宿場案内がある。
(つづく)
旧中山道 板橋宿のアーケードを過ぎると、
右側に観明寺の石柱と覆屋の中に保護された庚申塔が見えてくる。
(観明寺の石柱と覆屋)
観明寺は真言宗豊山派の寺で、正式には如意輪山観明寺という。
明治六年、当時の住職が街の繁栄祈祷のために、
千葉県成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。
現在も出世不動と呼ばれて親しまれている。
この寺の前の通りの不動堂通りの名は、
このお不動様に由来している。(板橋区教育委員会)
観明寺の石柱脇に覆屋に入った庚申塔がある。
(覆屋の中の庚申塔)
この庚申塔は、わざわざ覆屋があるほどで、
寛文元年(1661)の製造で、
青面金剛像が彫られたものとしては東京都最古のもので、
板橋区の指定有形文化財に指定されています。(板橋区教育委員会)
覆屋の中にカメラを入れて写してみる。
(青面金剛像の上にある右側に「月」と左側に「太陽」がある)
(青面金剛像)
青面金剛像が立っているさらに下には三猿がいるのが解りますでしょうか。
青面金剛像の足元の両脇には2童子を従えて、
(足の下には邪鬼を踏みつけている)
庚申信仰では、庚申の日の夜は寝ないで過ごすので、
「月」の出た夜から日が昇る朝までを現わして「太陽」が刻まれている。
青面金剛像は帝釈天(たいしゃくてん)の使者の金剛童子と言われ、
身体は青色で、手は六本(または二本、四本)、
怒りの形相をとる。
足元に邪鬼を踏まえ、両脇に2童子、4鬼神を従える、
また庚申(かのえさる)の日から三猿も従えるらしいが、
製作者の意向で彫られたり彫られなかったりする。
安直に「庚申塔」の文字だけの場合も多い。
話がそれてしまったが、観明寺の石柱の奥に赤い門が見える。
(赤い山門)
この赤い門は、東大の赤門と並び称されるもので、
東京大学は加賀藩上屋敷にある門で御守殿門と言われ、
奥方の通用門であるが、
ここ板橋宿には加賀藩の下屋敷にこの赤門はあったものとされ、
下屋敷では奥方の通用門であったと思われる。
(六地蔵)
(観明寺の本堂)
先の述べたように成田山新勝寺から分身した不動明王があるため、
出世不動と呼ばれているが、春の花見の頃が解りやすいので、
古い写真と切り絵を載せて置きたい。
(不動明王の本堂)
(観明寺切り絵)
その観明寺を出て隣にある、昔は「〇〇銀行」だった古い建物、
その先の路地を右折する。
(「〇〇銀行」だった古い建物)
(以前はここに「花の湯」と言う古い銭湯があったので、
目印に銭湯の手前を右折と案内出来たが、
今はないのが残念、板橋区ではどこかに移設するという話があるが、
真偽は不明である。
昔撮った写真(2004年撮影)と切り絵をここに載せて置く。)
(花の湯)
(花の湯切り絵)
右折して少し歩くと、近藤勇が留置されていた平尾宿脇本陣 豊田家跡に出る。
現在では脇本陣跡の碑しか残って居ないが、ご近所の方の話によると、
脇本陣は、ここより向こうの道路まであった大きな屋敷で、
座敷の周りは縁側であったと言う。
当時の面影が切り絵に残って居るので乗せて置く。
(豊田家脇本陣の図)
(板橋宿平尾町脇本陣跡の碑)
さて、平尾宿脇本陣跡から路地を出てくると、
道路の向こう側に中山道宿場案内がある。
(つづく)
よく残っていましたね~
日本は無駄にしないで使い尽くす風習を思います。
銭湯「花の湯」も有意義に代用されると好いですね。戦闘でなくても、喫茶店になったり居酒屋になるかも
分かりません。
興味薄のようですね。