楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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旧中山道板橋宿の平尾宿(東光寺)

2018年02月10日 05時02分26秒 | ひとり歩き旅
さて、近藤勇の墓所を出て東に少し歩くと信号にぶつかる。
この信号の左右が旧中山道で、右が日本橋方向、
左へ行くと東側が板橋宿である。

(墓所から東へ続く道、先に信号がある)

(交差点から見て右側が板橋の平尾宿に)


信号から中山道を見ると右側から板橋区で、
この先にあるJR埼京線の踏切まで左側に北区が続く。
この信号の向こう角に浮世絵にある平尾の一里塚があった。

(右側平尾の一里塚の浮世絵)


(旧中山道 この右手に一里塚はあった)

(JR埼京線の踏切)

(赤羽線中仙道踏切)


ご覧のようにJR埼京線踏切でなく、赤羽線中仙道踏切になって居るのは、
当初、この線路が山手線池袋駅と東北本線赤羽駅を結ぶ線路であったので赤羽線と言った。
埼京線は、赤羽駅から先が埼玉につながるようになってからの名前だ。

踏切の先は両側とも板橋区で、
踏切を渡り終えた左手が板橋駅(西口)である。

(ロータリーの奥に板橋駅西口が見える)


駅前は東口と同じようにロータリーになって居り、
西口には提灯ならぬ三本のケヤキが植えられていて、
「結びのケヤキ」と名付けられている。
また、三本のケヤキは、
板橋宿の平尾宿ー仲宿ー上宿の3宿を現わしていると言う。

(むすびのけやきの提灯)


この先旧中山道は商店街になって居り、平尾宿の旗がひらめいている。
実は、平尾宿の平尾と言う名前は、
この先で旧中山道が国道17号線と交わる手前にある交番にしか残って居ない。

(平尾宿の旗がある商店街)

(平尾宿の旗)

(旧中山道が国道17号との交差点が先に見える)

(交差点手前に残る板橋警察平尾交番)


国道17号の現在の中山道を交番前で信号を渡る。
渡った先が板橋宿の旧中山道のアーケードが待っているが、
そこを通る前に、信号を渡ってレストラン脇の狭い道路を直進する。
右手に瀟洒なお寺さんが見える。
丹仙山薬王樹院東光寺(たんせんざんやくおうじゅいんとうこうじ)と言う。

(交差点を渡った先にある板橋宿の門)

(瀟洒なお寺さん)

(東光寺門前)


東光寺は、加賀藩前田家の下屋敷が板橋移転に伴って、
現在地に移転してきました。
移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び、
賑やかであったようですが、明治初期の大火や関東大震災、
太平洋戦争など火災を経て、区画整理が進み現在では、
往時の姿を伺うことが出来ません。
境内には板橋区の有形文化財にして登録された寛文二年(1662)の
庚申塔石造地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養のために建立した
宇喜多秀家の墓などがあります。(板橋区教育委員会)
(寛文二年の傘付の庚申塔)

(石造り地蔵菩薩坐像)

(宇喜多秀家の墓)


宇喜多秀家の供養塔がどうして東京都板橋区にあるかと言うと、
宇喜多秀家はもともと備前岡山城主であった。
成人して加賀藩前田家の娘と結ばれたが、
関ヶ原の戦いで西軍について敗れ、八丈島に遠島となる。

加賀藩前田家の上屋敷は今の東京大学、
中屋敷は現在の六義園からJR巣鴨駅にまたがる地にあったが、
これを返納して、板橋宿に約22万坪(東京ドーム15個分の広さ)の下屋敷を拝領し、
板橋宿に加賀藩前田家の下屋敷が移転して来た。

(板橋区内の加賀藩下屋敷図)


加賀藩前田家では、娘の夫 宇喜多秀家が遠島になった八丈島に、
米など食料品を長年送っていたが、秀家は八丈島で83歳で没する。

明治になって恩赦により前田家一族は江戸に戻り、
秀家と妻との関連で加賀藩前田家下屋敷内の一部を与えられ、
農業に携わったが気候が合わず八丈島へ戻ってしまったが、
宇喜多秀家の墓は東光寺に残された。

東光寺を出て、旧中山道を進みます。

(板橋宿のアーケード)


すぐ板橋宿のアーケードがあり、左側に今はりそな銀行があるが、
昔はここが追分であり、右に中山道、左は川越街道に分かれて行った。
そしてこの分かれ道の真ん中に、東光寺の石造り地蔵菩薩坐像があったと言われる。
また、りそな銀行の所に旧板橋警察署があった。

(旧板橋警察署の当時の模様を切り絵で)

この切り絵で見るように、
旧板橋警察署は右に中山道左に川越街道に挟まれているのが解る。
右旧中山道を進むと右手に観明寺の門柱と
覆屋の中にある庚申塔が見えてくる。

(To be cotinued)




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8 コメント

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近藤勇 (もののはじめのiina)
2018-02-10 08:41:27
近藤勇が、今日のビル群を目にしたら、何というでしょうね ❔

中山道を巡り、板橋界隈も変わったと仰天することでしょう。

そして、やはり徳川家を再び日本の中枢に据えようと動くかもしれません・・・。

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こんばんは (ytakei4)
2018-02-10 16:44:20
秀家83歳まで生きたのですか?
当時としては非常に長生きですね。
返信する
iinaさん コメントありがとうございます (hide-san)
2018-02-11 14:19:55
>近藤勇が、今日のビル群を目にしたら、何というでしょうね ❔

武士になりたい一心で動いたら、未来は案外町人や農民が幅を利かせているのを見て、
余計な人生だったと思うでしょう。
多分!
返信する
ytakei4さん コメント有難うございます。 (hide-san)
2018-02-11 14:24:10
>当時としては非常に長生きですね。

八丈島は案外気候に恵まれたのでしょうね、
まれにこんな長生きの人もいたようです。
ボクの母方の爺ちゃんは、慶応元年生まれで、
ボクが高校卒業時に83歳でした。
返信する
今日だけは寒さが緩んでますね~🎵 (鉄ちゃん爺や)
2018-02-11 15:47:14
私もこの道を8月31日だったかな?

仲宿の赤い橋まで歩いたので懐かしく拝見しましたよ。

私も宇喜多一族だとの説(半分信じてませんけど)。

同じ宇喜多一族でも宇喜多秀家と袂を分けた
叔父の家系だとされてますね。

関が原で戦った武将では宇喜多秀家公が一番長生きで
もう徳川将軍家も4代の家綱公の時代になっていたとか。

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鉄ちゃん爺やさん コメントありがとうございます (hide-san)
2018-02-15 13:36:37
>仲宿の赤い橋まで歩いたので

もう少し先まで歩くと縁切り榎がありました。
この縁切り榎と対比させて板橋駅前に(縁結びケヤキ)としたようですね。
返信する
中山道ではなくて中仙道 (ウォーク更家)
2018-02-19 21:16:39
赤羽線の名前は初めて聞きました。
中仙道踏切は、中山道を歩いているときに沢山見ましたが、国鉄が何故、”山”ではなくて”仙”にしたのか、気になるところです。

東光寺の石のお地蔵様は、風化せずに綺麗に残っていますね。
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ウォーク更家さんコメントありがとうございます。 (hide-san)
2018-02-20 11:17:33
>国鉄が何故、”山”ではなくて”仙”にしたのか

私にもわかりませんが、JRを国鉄と表示しているようなものではないでしょうか。
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