それゆけ!ぶんぶん一家☆ミ

不器用な3人家族と、ゆかいな仲間たちのブログです。

戦国時代に信仰を貫いたキリシタン大名はここに居ました☆高槻城址公園♪

2021-01-09 10:59:06 | おでかけ

この日、高槻に用事がございまして、どうせならと早めに高槻に到着。

高槻観光をしております。そして辿り着いたのは、史跡、高槻城跡。

高槻城は、摂津国島上郡高槻村、現在のここ大阪府高槻市城内村に、明治7年(1874年)まであったのだ。

高槻城は、南北朝期の入江氏の居館に始まった。なので、入江城とも呼ばれておった。

永禄12年(1569年)に、入江氏の滅亡により、和田惟政が信長から与えられた芥川城と、

高槻城の2城を預かる身となり申した。そして、高槻城の基礎を固めたのだ。

惟政は、近江国伊賀郡油日・和田(現在の滋賀県甲賀市)の土豪で、信長の配下で、

後の将軍になる足利義昭(覚慶)の上洛を助けたり、大活躍をしていた御仁だよ。

しかし、元亀2年(1571年)、池田の荒木村重や茨木の中川清秀らと対立し、

茨木北部の白井河原の戦いで討死。息子の惟長も元亀4年?天正元年?(1573年)、

高山友照・右近父子に追放され、この父子は城主となる。

高山右近が町屋を城内に取り込んで、堅固な城郭を築き上げた。

そんな平城だった高槻城は、明治4年(1871年)、廃藩置県により廃城。7年より破却が始まる。

この大阪府の史跡は、いまは綺麗な憩いの場となってる。

この日は11月の半ばの平日。とっても気候も良く、歩いてたら汗ばむ位の頃。

あ~。高槻駅前でお弁当でも買ってくればよかったな~って思ったよ。

とっても心が和む史跡では、ちっちゃなお子様がよちよち歩いてたり、老夫婦がベンチで日向ぼっこしたり

良いな~平和だな~ってマスクの中で、笑顔しておりました。

右近の洗礼名はユストともジュストとも言われてるけど、

ポルトガル語で『正義の人、義の人』を意味しているそうだ。

高山右近=キリシタンって印象が最強なのだけど、南坊という号も持っている。

千利休の高弟『利休七哲』の一人で、『利休極上一の弟子也』ともうたわれた、文化人でもあった。

まさに、正義の人って感じに、十字架の剣がかっこいいな。

しかし、この城主・高山右近は、領内の神社仏閣を破壊し、神官や僧侶に迫害を加え、

その影響力が計り知れず絶大で、領内の住民の殆どが、キリスト教徒となったとか。

『フロイス日本史』なるものには、キリスト教への入信は決して強制では無かったが、

寺を打ち壊して、教会建設の材料にしただなんて書いてあるのだそうで。

その後、秀吉によって『バテレン追放令』が施行されたが、領地と財産を全て捨ててでも、

その信仰を守ることを選んだ右近。

加賀の前田利家の嫡男、利長の庇護を受けるも、家康のキリシタン国外追放令を受けて、

慶長19年(1614年)、長崎からマニラへ。そこで大歓迎を受けるのだが、直ぐに病を患い、

翌慶長20年、に息を引き取った。実に、マニラ到着のわずか40日後だったそうだ。

11月の半ば、青々とした葉っぱと、紅葉が進み過ぎた葉っぱの中の右近さん。

40日しか滞在しなかったマニラでの右近さんの葬儀は、マニラ全土をあげて、聖アンナ教会にて

10日間という長期間にわたって、盛大に執り行われたって話なので、かなりの偉人だったのだ。

紅葉と山茶花が一緒の写真に納まってるって、そんな事ってあったかしら?

なんか、珍しい写真が撮れたから、何か良いことあるかな~って、高槻城跡を後にしました。

城址公園

大阪府高槻市城内町3

問い合わせ(城址公園管理事務所) 072-671-0024



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