この日、高槻に用事がございまして、どうせならと早めに高槻に到着。
高槻観光をしております。そして辿り着いたのは、史跡、高槻城跡。
高槻城は、摂津国島上郡高槻村、現在のここ大阪府高槻市城内村に、明治7年(1874年)まであったのだ。
高槻城は、南北朝期の入江氏の居館に始まった。なので、入江城とも呼ばれておった。
永禄12年(1569年)に、入江氏の滅亡により、和田惟政が信長から与えられた芥川城と、
高槻城の2城を預かる身となり申した。そして、高槻城の基礎を固めたのだ。
惟政は、近江国伊賀郡油日・和田(現在の滋賀県甲賀市)の土豪で、信長の配下で、
後の将軍になる足利義昭(覚慶)の上洛を助けたり、大活躍をしていた御仁だよ。
しかし、元亀2年(1571年)、池田の荒木村重や茨木の中川清秀らと対立し、
茨木北部の白井河原の戦いで討死。息子の惟長も元亀4年?天正元年?(1573年)、
高山友照・右近父子に追放され、この父子は城主となる。
高山右近が町屋を城内に取り込んで、堅固な城郭を築き上げた。
そんな平城だった高槻城は、明治4年(1871年)、廃藩置県により廃城。7年より破却が始まる。
この大阪府の史跡は、いまは綺麗な憩いの場となってる。
この日は11月の半ばの平日。とっても気候も良く、歩いてたら汗ばむ位の頃。
あ~。高槻駅前でお弁当でも買ってくればよかったな~って思ったよ。
とっても心が和む史跡では、ちっちゃなお子様がよちよち歩いてたり、老夫婦がベンチで日向ぼっこしたり
良いな~平和だな~ってマスクの中で、笑顔しておりました。
右近の洗礼名はユストともジュストとも言われてるけど、
ポルトガル語で『正義の人、義の人』を意味しているそうだ。
高山右近=キリシタンって印象が最強なのだけど、南坊という号も持っている。
千利休の高弟『利休七哲』の一人で、『利休極上一の弟子也』ともうたわれた、文化人でもあった。
まさに、正義の人って感じに、十字架の剣がかっこいいな。
しかし、この城主・高山右近は、領内の神社仏閣を破壊し、神官や僧侶に迫害を加え、
その影響力が計り知れず絶大で、領内の住民の殆どが、キリスト教徒となったとか。
『フロイス日本史』なるものには、キリスト教への入信は決して強制では無かったが、
寺を打ち壊して、教会建設の材料にしただなんて書いてあるのだそうで。
その後、秀吉によって『バテレン追放令』が施行されたが、領地と財産を全て捨ててでも、
その信仰を守ることを選んだ右近。
加賀の前田利家の嫡男、利長の庇護を受けるも、家康のキリシタン国外追放令を受けて、
慶長19年(1614年)、長崎からマニラへ。そこで大歓迎を受けるのだが、直ぐに病を患い、
翌慶長20年、に息を引き取った。実に、マニラ到着のわずか40日後だったそうだ。
11月の半ば、青々とした葉っぱと、紅葉が進み過ぎた葉っぱの中の右近さん。
40日しか滞在しなかったマニラでの右近さんの葬儀は、マニラ全土をあげて、聖アンナ教会にて
10日間という長期間にわたって、盛大に執り行われたって話なので、かなりの偉人だったのだ。
紅葉と山茶花が一緒の写真に納まってるって、そんな事ってあったかしら?
なんか、珍しい写真が撮れたから、何か良いことあるかな~って、高槻城跡を後にしました。
城址公園
大阪府高槻市城内町3
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