畑こうじ情熱ブログ

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有意義な1日

2006年09月15日 11時31分34秒 | Weblog
 昨日は、日頃とは変わった1日を過ごしました。午前中は、久慈の災害視察に参加しました。過日の台風12号により、野田村から久慈市小袖、久喜地区に至る県道が崩落したり、北日本造船が立地している久慈市半崎地区の防波堤が倒壊したのです。自然のすさまじさを実感しました。とともに、海沿いの道路が多い、久慈から宮古地域における道路立地はいかにあるべきかを考えさせられました。まずは、早急な機能回復、復旧作業が必要です。また、中期的には、湾口防波堤や代替道路の整備が必要となります。関係の議員、関係機関と連携して全力を尽くしていくつもりです。
 午後は、久慈秋祭り前夜祭参加のために、大川目町備前組の山車を、大川目公民館から市役所までの6㎞ほどの距離を、引っ張って行きました。若者にお年寄りの方も加わり、総勢20人ほどで出発しました。途中で、学校が終わった子供たちも加わってくれました。山車は、若者による大川目備前組山車制作チームが手作りしたすばらしいものです。前夜祭は、各組の山車、笛、太鼓の競演で大いに盛り上がりました。みこしで「そいや、そいや」と単純に練り歩く祭りは多いのですが、これほどの規模と数の山車が出る祭りは、全国的にもなかなかないと思います。盛岡から来られた方が、盛岡八幡宮の祭りよりすばらしいと言っていました(マスコミの皆様には盛岡や花巻だけでなく、久慈も取り上げてほしいものです。)。お祭りの様子や写真は、このホームページの活動報告で近日中にアップしますので、御期待下さい。
 それにしても、本日は、筋肉痛でちょっとしんどいです。日常活動で歩くのには慣れていたつもりですが、力仕事には慣れていなかったことを痛感しました。
 ところで、我々は、大川目町のことを備前の里と言います。ここから備前組というネーミングとなっているのです。かつて、大川目町は久慈地域の発祥地であり中心地でありました。久慈城があったのです。この城主が久慈備前守と称していたのが由来です。残念ながら、久慈備前守は滅びて久慈城は破壊されてしまいました。九戸政実の乱に加担して、豊臣軍に敗れたためです(小田原北条攻めの後の天下統一の最後の戦いである奥州仕置きにおいてです。)。この後、覇権を握った南部氏は盛岡に移り城を築きました。本来は、九戸政実の城のあった二戸市福岡、九戸郡、久慈に加えて八戸地域が、南部領の中心地でもあったのです。南部氏内紛の争いでうまく勝っていれば、今、この地域はどうなっていたかわかりません。実は、県北地域はすばらしい歴史と文化を持っているのです。私は、このことに対して大きな誇りを持っています。そして、県北復興を果たしたいという遠大な夢を持っています。


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