高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

あれから5年、徒然に・・・。

2016-03-11 12:20:31 | 日記

黒松内町の防災無線から町長が黙祷の呼びかけがあった・・・。 1分ほど南の方面に頭を垂れた・・・・。 

あれから5年・・・。 あの3月11日は、次女の結婚式でニセコにいた。揺れは感じず、式が終わり夜の披露宴となった。 なんとなく、参列者の間でざわめきが広がっていていたようだったが、大震災が起こったことは、新婦の父である私には誰も伝えなかった・・・。 そして、そのまま親族との二次会となり、宿の自室に戻ったのは夜も12時近かったと記憶している。

TVをつけてると・・・、どこもかしこも大災害を伝えていた。 「いったいぜんたい何が起こったのか」しばらくは訳がわからずにいた。三陸全体に大津波が襲ったと状況が少しずつ飲み込めてくると、 スタッフで釜石出身の柏原(じょい)のことが頭に浮かんだ。

地元から自然体験の事業を担当してほしいとの引きもあり、新年度からは釜石に戻ることも視野に入れていた彼女だったが、「もう一年、黒松内で修行してから帰郷する」と決心したばかりであった・・・。 深夜遅くまでTVを見ていたが、釜石の状況は放映されることはなかった。彼女の心中を察すると・・・。

翌日は早々に黒松内に戻った。 スタッフ達は案の定、TVを囲んで、刻々と映るすでに被災地になった三陸の様子を固唾を呑んで見ていた。

お昼前だっただろうか、遂に釜石市街のアーケード街に津波が押し寄せ大河のようになっている様子が放映された。 彼女の実家は市街地から北側にある鵜住居川河口の海岸に接するような片岸地区だった。 家族の安否を案じているスタッフを目の前にして、すぐさま、「これは、行くしかない!」と決断した。 何ができるかはわからない。が・・・、アウトドア屋であるアタシたちは、現地に行ってもなんとか自力で過ごせると思った。

ワゴン車に、手持ちの毛布や食料、テントを詰め込んで、同年代の星山さんと、じょいと3人で、すぐさま出立準備を始めた。 しかし、当時、函館港にも水があがり、フェリーは動いていないという情報が函館大沼のスタッフから入った。 にしても、いずれは再開するだろうと出発をした。 福島原発も津波に襲われたとの情報が入り、当日、自然学校に滞在していた方からは「止めたほうがいい」との説得もあったが、「行くしかない!」という気持ちの方が心を占めた。

函館のスタッフが機敏な動きをしてくれて、本州に渡れないトラックが渋滞している中、12日零時前に再開した青函フェリーの第一便に乗ることができた。 乗用車は数台しか乗れず、最後から2番目。上階デッキ駐車場にあがる坂道のギリギリ、トップに斜めに駐車する状態だったが、なんとか転がりこんだ。

翌朝は、地図とにらめっこだった。すでに国道のあちこちは緊急車両しか通れない交通規制がしかれていた。開いていると思わる峠道の入口にも検問にあたっている警察官や自衛隊員がおり、道路状況を聞いても「この先の道路状況はわからない」との回答。 釜石の手前の遠野から国道は封鎖されたいた。 笛吹峠という県道があることを知ったが、遠野市の職員も「向こうから(海側)から来た車もあるから、通れるかもしれないが責任は持てない」との回答。 まだ、余震が続く中だったが、狭い県道の峠に突込した。 すでに携帯電話は回線がパンクしたのかなかなか通じない・・まして山の中であった・・。 

幸い、峠道には土砂崩れもなく、釜石側にぬけることができた。覚悟して峠を越えたものの、鵜住居川上流の集落はなにごともなかったように、静かな春まだ早い東北の中山間村ののどかな風景で拍子抜けした。しかし、海岸が近づき、遂に津波の最終到達地点とおぼしき場所からは、風景が一変した! 県道は流れ着いた壊れた家屋や生活用品の残骸で埋まり、地元の建設業者のものと思われるブルトーザーが一台、懸命に道を開けようとしていた。車はそれ以上前には進めなかった。 天国と地獄が隣り合っているようだった。

時折、つながる携帯電話で柏崎が連絡をとり、津波の最終到達地点から1kmも離れていない、柏崎家の親戚の農家の庭先に幕営することになり、ひといきをついたのは、もう夕刻であった。

その夜は、雪が降った・・・。湿った雪は私たちのテントを押しつぶし、夜中に除雪するはめになった。 12日の夜だった。この夜、避難場所を求めて、濡れたままで2晩も山中で過ごし、命を落とした方も大勢いたと、あとで知った・・・・。

それからは、やれることはなんでもやった。 物資の支援、がれきの撤去、子どもやお年寄りのケア・・・・・。 まるで、3,4ヶ月が3年も4年分も凝縮されたような毎日だった・・・。

当時から私たちには故郷があり、当然に帰る場所があった・・・。 接する被災者にはそれが申し訳なかった・・・。

あれから、5年も経ったが、行方不明の方も大勢いる。今まだ仮設住宅で暮らす人々がいる。

原発事故の収束もままならない、東京オリンピックどころではないだろうと、つくづく思う・・・・。

今、何が自分にできるのかと・・、ココロが彷徨う・・・・。 思いを寄せると、何もできないでいる今の自分が苦しい・・・。 5周年・・・、我々も今年は3.11現地視察ツアーを実施しなかった・・・・。

災害を風化させてはいけないとニュースが仕切りに問いかけている・・・。

その通りだ。 まずは「忘れちゃいけない・・・・」

合掌。

 

 

 

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