高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

インタープリテーションセミナー in 比企

2021-12-14 11:08:52 | プログラム 研修、講演等
やっぱり疲れたなんだなあ・・。精神的にも肉体的にも。先週水曜日12/8から土曜日まで埼玉県比企地域に出張していました。インタープリテーションの研修仕事だったんですが、いままで知らなかった初めての土地でフィールドワークを事前にしてその地域の案内を研修参加者に実際にして、その後、意図開きのような講義をするという流れのお仕事でした。当日前は、珍しくなんだか緊張して、2,3日は睡眠不足であったし、フィールドワーク2日間は一日2万歩もあるいたりしましたからね・・。 なんだか海外出張、中国へ1週間くらい行ってきたみたいに疲れてしまって、帰ってきた翌日は一日寝ておりました・・。

しかし、初めての土地をじっくりと歩き、その後にインタープリテーションに馴染みのない方々(参加者は20名)にその意義やコツを伝える仕事は、なかなか面白くもあったので、こころよい疲れも今日も引きずっています。


比企地方は、かなり広い範囲で、その中心は東松山駅となります。 武蔵野丘陵地帯の北の方という位置になるのかな。
ここは来年のNHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人衆」のひとり比企氏に治められていた地域です。この氏は鎌倉時代の北条氏に滅ぼされてしまいました。そして、時は室町時代と続き、足利将軍による武家政治と続き、その没落と同時期に織田信長が登場し、私たちが社会で習った群雄割拠の戦国時代に突入したのですが、この戦国時代というのは、もっとずっと昔からあったのだと、今更ながら気づかされました。

以下、私が今回訪れての理解でありますが、
この地は、今では比企一族の名を冠して比企地方といいますが、その昔、平安時代の終わり頃から鎌倉時代のはじめには、畠山一族が統治していて、いわゆる関東東国武士の発祥の地です。社会科で習ったのは、平安貴族が荘園を起こしその地所を守るために武士集団をつくり、その武士が力をつけて来て、武家政権(鎌倉幕府)となった、平安後期の平氏政権は貴族政権の傀儡であって武家政権ではなかったと習いました。 戦国時代は実は織田信長以前の100年以上前から小地域的な群雄割拠が盛んな戦闘・戦争を繰り返していたのです。 埼玉県にはその当時の城郭・館跡が800箇所近くも確認されており、ここ比企地方にはその1割強が集中していて、その当時の戦乱の激しさが想像できます。

城というと、天守閣がある城郭を想像しがちですが、それは織田信長時代の話であって、この当時は地勢を利用した山城であり、多くの兵士が駐屯できるような館が峰の中に造られたのでした。


なので、どの城郭跡や神社仏閣も小高い場所にあって、訪ね歩くのがたいへんでした。
階段があるのは、比較的新しい時代であり、多くは山道です。なので、今は、ハイキングルートも多くあり、東松山はウォーキングのまちづくりもしているのです。
 
それらの麓は、農村地帯です。またかつては、養蚕も盛んで、牧(まき)、つまり馬の生産地でもあり、陸路の要害地であるととも産物も豊富な肥沃な地帯であったために、その割拠に幾多の戦乱の舞台となりました。
 
ところで、その戦闘の兵士はだれか?となると、皆が武士ではないのでした。兵隊さんはその領地のお百姓さんだったのです。戦がはじまりそうになると城主から徴兵されて戦いの尖兵となったのでした。戦場は自分たちが耕した田畑であったりしたのです。 多くの集落民も命を落としたことでしょう、田畑も荒れてしまいました。一時の戦乱が終わると、再びそこを復興させて耕作に励むのでした。 そんな幾多の時代を乗り越えて、この山村集落は、いまやのどかで平和な空気に包まれていました。
 霜里地区にある元小学校のコミュニティ施設で、午後はインタープリテーションの意義やコツをお話させて頂きました。 この一帯は有機農業地域にもなっていて、お昼はおいしい有機野菜やお米のランチプレートでした。
 
講演会も、まあ・・、お伝えしたいことはお伝えできたかな。
 
 
 
 
 
 
 
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